ポスト現代思想、ポスト・ポスト構造主義2at PHILO
ポスト現代思想、ポスト・ポスト構造主義2 - 暇つぶし2ch863:考える名無しさん
19/08/17 20:58:16.88 0.net
>>163
Disputatio Heidelbergae habita. 1518
"19. Non ille digne Theologus dicitur, qui invisibilia Dei per ea, quae facta sunt, intellecta conspicit,
 20. Sed qui visibilia et posteriora Dei per passiones et crucem conspecta intelligit."
D. Martin Luthers Werke : kritische Gesamtausgabe (Weimarer Ausgabe) Bd1, Weimar, H. Bohlaus Nachfolger, 1964-1997, p354.

864:考える名無しさん
19/08/17 20:58:48.20 0.net
>>773
この中で中沢がやっていたように、「ハイデガーを人類学的に読む」ということには一理あるかもしれない。
古い自然哲学に繋がるものでもあるわけだから。

865:考える名無しさん
19/08/17 20:59:24.18 0.net
中沢が最近よく口にする「レンマ論」を通して読むと、
難解とされてきたハイデガーやデリダの哲学が、極めて分かりやすいものとなる。

866:考える名無しさん
19/08/17 20:59:52.79 0.net
レンマ論の定義
(a)
ロゴスは「自分の前に集められた事物を並べて整理する」ことを意味。
レンマは「直観によって事物をまるごと把握する」という意味。
(b)※中沢の説明
人間が「科学」を発達させた能力と、「宗教・芸術」を発達させた能力はそれぞれ異なる。
科学…ロゴス
宗教・芸術…レンマ
(c)
1-2は排中律。1-4はテトラレンマ(四句分別)
1 Aである        (肯定)
2 非Aである      (否定)
3 Aでも非Aでもある  (肯定かつ否定)(両是)
4 Aでも非Aでもない  (肯定でも否定でもない)(両否)

867:考える名無しさん
19/08/17 21:00:22.11 0.net
デリダや廣松は二項対立の克服に腐心した。
ハイデガー以降の現象学には、ハイデガーが語り、記者が記録した「顕現せざるものの現象学」という課題が残された。
これらは今、どのように理解されるべきか。

868:考える名無しさん
19/08/17 21:00:44.03 0.net
例えば、ハイデガーの「抹消記号」やデリダの「痕跡」は共に、
「書くことと」と「消すこと」の両義性を併せ持つ第3レンマ(>>854のc)的なものだということができる。

869:考える名無しさん
19/08/17 21:01:56.48 0.net
×(>>854のc)
〇(>>855のc)

870:考える名無しさん
19/08/17 21:02:16.05 0.net
ハイデガーの「解体(Destruktion)」のルーツは、ルターの「解体(destructio)」
ルター「ハイデルベルク討論」の「十字架の神学」部分
> (19)神の「見えない本質が」「造られたものによって理解されると認める」者は、神学者と呼ばれるにふさわしくない[ローマ 1:20]。
> (20)だが神の見える本質と神のうしろ[出エジプト 33:23]とが、受難と十字架によって認められると理解する者は、神学者と呼ばれるにふさわしい。
ハイデガーが掘り起こした古代ギリシャの「真理�


871:iアレーテイア)」概念 > “既にこの太古の神性Ἀφαία(アパイア) >  - 現われざるもの、現われることから身を引くもの、逃れつつ現われ出でるもの - >  それがアレーテイアの謂うところを名指している。” このどちらもが、「現われるもの」と「現れざるもの」を問題にしている。



872:考える名無しさん
19/08/17 21:02:44.61 0.net
排中律に慣れた我々の思考は、これを「現われるもの」と「現れざるもの」に分けてそれぞれ一方を問題にしてきた。
・「現われるもの」は色眼鏡を通して見られている、とか
・「現れざるもの」を待ち続けるのは降霊術、だとか
そうではなく、レンマ的に同時に把握をすれば、「現われるものと現れざるもの」の現象学ということになる。
「現れざるもの」を意識しつつ「現われるもの」を見るという風に。

873:考える名無しさん
19/08/17 21:03:16.78 0.net
>>843で、中沢はレンマ的把握を複素数に例えている。
・「現われるもの」…顕在的なもの、実数a
・「現れざるもの」…潜在的なもの、虚数bi
それを合わせた「a+bi」が複素数的、レンマ的把握。

874:考える名無しさん
19/08/17 22:01:12.12 0.net
>>861
で、なんか役に立つの?
オウムは正しかったって言いたいのかな?

875:考える名無しさん
19/08/17 22:22:48.11 0.net
これ以上簡単な説明をするのは難しい

876:考える名無しさん
19/08/17 22:29:12.92 0.net
>>863
求めてるのは説明じゃなくて、効果なんだが?

877:考える名無しさん
19/08/17 22:31:59.93 0.net
虚数がなぜ潜在的なものの「例え」になるのか

878:考える名無しさん
19/08/17 23:42:19.24 0.net
前々から思ってるんだけど中沢って人も結局絶対的馬鹿じゃないかと
オウム正しいぜ-っ体→絶対的思考停止→

879:考える名無しさん
19/08/18 00:59:34.34 0.net
オウムの次に知識人が試されるのはN国か
今の所乗っかってる奴は知らんけど

880:考える名無しさん
19/08/18 09:30:40.87 0.net
日本ではまだチベット密教の解説書がまだあまりない時期に、
中沢は解像度の高い体験記『虹の階梯』(1981)を書いた。
オウムが出てくるのはそれよりも後。

881:考える名無しさん
19/08/18 09:38:36.36 0.net
つまりオウム真理教の普及に多大なる貢献をしたということ

882:考える名無しさん
19/08/18 10:02:13.38 0.net
中沢は先駆者。
それ以降も何度も仏教論をやり直している。

883:考える名無しさん
19/08/18 11:15:11.37 0.net
デリダやレヴィナスは、他者を絶対の彼方に置いた。
その上で、レヴィナスは他者の顔の現れと向き合うものであったし、デリダは現れ(現前性)の哲学を非難した。
しかし、レンマ論に照らせば、「現れる他者」も「現れざる他者」もそれぞれ他者の一面でしかない。
では、「現れつつ現れざる他者」、「現れもせず現れなくもない他者」とはどういうものか?

884:考える名無しさん
19/08/18 11:21:05.34 0.net
西洋哲学は「現れるもの」と「現れざるもの」に分けて整理をするのが得意。
東洋哲学は「現れるもの」と「現れざるもの」とそれらの分別から漏れ落ちたものも併せて把握することが得意。

885:考える名無しさん
19/08/18 12:28:17.36 0.net
はぁ?近代現代哲学だろ。

886:考える名無しさん
19/08/18 14:00:19.69 0.net
>>872
そんなこと言ってるから、大学の補助金がどんどん減らされるんだよ。
高校では文学を切り捨てるそうだが、哲学ではデカルトもカントも名前すら消えるんだろうな。

887:考える名無しさん
19/08/18 14:36:16.06 0.net
>>873
近現代哲学の死角と弊害の克服のために、主著で象形文字にまで遡ったのがデリダだろ。

888:考える名無しさん
19/08/18 14:42:07.85 0.net
『Derrida and Indian Philosophy』 Harold Coward (1990)

889:考える名無しさん
19/08/18 14:43:38.63 0.net
こういう話は30年も前からある。
“メリルによれば、ポスト構造主義における解釈の無限の可能性という概念は、最高の秩序と最高の混沌は同時に存在し、相互に否定しあう心理が全体として仏教の言う「一」となる、という考えに類似しているという。
 メリルは、サンスクリット・スンヤタのモノニアラザルモノとしての「思い浮かべることすら不可能な」無に言及し、これを近代物理学とデリダの著作の両者に比較している。
 ロバート・マグノリア(『快方に向かうデリダ』〔一九八四年〕)もまたデリダの思想と仏教の無という概念とのあいだにひとつの類似性を見出している。
 空無への帰着は「中心」とされる「超越的シニフィエ」の無益な追及についてのデリダの分析によるものである。
 マグノリアがとくに関心を向けているのはナーガジュナ派の仏教である。
 「ナーガジュナは同一性原理の脱構築を自分の明確な使命と心得て」おり、「デリダと……同じ論理的戦略を用いている」とマグノリアは述べている。”
― アート・バーマン 『ニュー・クリティシズムから脱構築へ:アメリカにおける構造主義とポスト構造主義の受容』 未来社 (1993) 10章

890:考える名無しさん
19/08/18 14:44:10.32 0.net
>>875
近現代哲学に死角と弊害があるの?

891:考える名無しさん
19/08/18 14:45:25.49 0.net
>>877
> 「思い浮かべることすら不可能な」
とは、「語でも概念でもない」とされるデリダの差延や痕跡のこと。
> ナーガジュナ
は龍樹。中論(>>850)やテトラレンマ(>>855)の人。

892:考える名無しさん
19/08/18 14:45:43.16 0.net
>>877
とにかく目新しいことを言いたいだけのニッチ哲学しかないんだな。
それなら哲学なんてやめればいいのにw

893:考える名無しさん
19/08/18 14:46:29.12 0.net
その上で、中沢は『レンマ学』で、レンマ的論理は(デリダも取り組んだ)否定神学とは違うということを言っている。

894:考える名無しさん
19/08/18 14:46:39.58 0.net
>>879
デリダの思い付きを真に受けてどうするんだよw

895:考える名無しさん
19/08/18 14:47:05.83 0.net
>>881
言ったもん勝ちかよw

896:考える名無しさん
19/08/18 14:47:25.27 0.net
デリダは、西洋哲学のピークにおいて、その脱構築ということをやったわけだから、その問題意識が東洋哲学に近くなってもおかしくはない。
デリダ自身は東洋哲学への言及には慎重であったし、ユダヤ哲学的性格は、西洋哲学と東洋哲学の間にあるが。

897:考える名無しさん
19/08/18 14:48:14.81 0.net
>>883
違いが分からないのかい?

898:考える名無しさん
19/08/18 14:51:08.27 0.net
>>885
違いは彼らの頭の中だけにある。
もともと成立できない概念。

899:考える名無しさん
19/08/18 15:17:40.91 0.net
>>886
テトラレンマも否定神学も1700~1800年ぐらい前からあるもので、
どちらも辞書やwikiに記載がある。
個人的な理解や好みの話ではない。

900:考える名無しさん
19/08/18 15:20:27.91 0.net
>>887
辞書やwikiに記載があれば、概念が成立する、と?
君の頭は、カツラの台か?

901:考える名無しさん
19/08/18 15:24:49.16 0.net
宇宙の深淵でも覗いてろ

902:考える名無しさん
19/08/18 16:46:40.37 0.net
カントよろしく認識論を経験可能なものに限定してしまう必要性もないわけだが「独断論のまどろみ」やアンチノミーのような気がするな
それはともかく
「現れるもの」と「現れざるもの」という構図自体が二項対立であって
「レンマ的把握を複素数に例え」ることもまた二項対立じゃないか
複素数を支えるものが実数と虚数の区別なんだからそれによって二項対立の克服は不可能だろうし
東洋哲学については無知同然だが
「現われるもの」と「現れざるもの」の同一性や一体性を説くのが東洋哲学じゃないか
観念論的に言えば概念として持っているもの以上の認識は不可能なわけだから
潜在か顕在かという区別もまた両者の認識可能性を前提にしており
「現れざるもの」が認識可能だということは結局のところ「現れるもの」だということであって
つまり潜在的なものを認識してしまう時点でそれは顕在的なものであって
「現われるもの」と「現れざるもの」との区別自体が成り立たなくなる
「現われるもの」と「現れざるもの」との区別自体が成り立たなくなる(脱構築)というのは
AとBの同一性を主張するときAとBとの区別を前提としている(三位一体を想起してほしい)以上
「現われるもの」と「現れざるもの」の同一性(東洋哲学)とは異なるものということになる

903:考える名無しさん
19/08/18 18:44:12.35 0.net
中沢の複素数モデルは>>843の31:47~で説明をしていて、
・世界は、実数(顕在的なもの)と虚数(潜在的なもの)の組み合わせ「a+bi」で出来ている
・その実数と虚数は時に入れ替わる
といっている。

904:考える名無しさん
19/08/18 18:50:29.07 0.net
デリダやレヴィナスの他者モデルでは、自己と他者は交わることがない。
中沢のモデルだと、実数(自己)と虚数(他者)が時に入れ替わりもする。

905:考える名無しさん
19/08/18 18:52:42.94 0.net
主人公の男女二人が入れ替わる『君の名は。』もこのモデルだ。

906:考える名無しさん
19/08/18 18:53:40.91 0.net
このような構造は、チベット仏教にも、その他の仏教にもよく見られる。
一即多、一即一切の華厳的記号学モデル(井筒『コスモスとアンチコスモス』より)
A ([a]、b、c、d、e、、、)
B (a、[b]、c、d、e、、、)
C (a、b、[c]、d、e、、、)
[ ]は強調
顕在的な花Aは、潜在的には花aでも石bでも川cでも鳥dでも空eでもあり、それらとの差異からAが顕在化される。

907:考える名無しさん
19/08/18 20:00:47.37 0.net
複素数モデルとやらを整理してみると
・実数…顕在的なもの、「現われるもの」、自己
・虚数…潜在的なもの、「現れざるもの」、他者
・世界は実数と虚数の組み合わせ「a+bi」で出来ている
・その実数と虚数は時に入れ替わる
こういうことになるようだが
ここで気を付けないといけないのは「実数と虚数は時に入れ替わる」のではなく
aとbに「代入されるもの」が時に入れ替わるということだ(aもbも代数である以上「a+bi」の入れ替わりを「b+ai」としたところで数式の表す意味には何の変化もない)
つまり
自己そのものと他者そのものが入れ替わるのではなく
ある時には自己とみなされるものが別の時には他者とみなされるものであることもあり
ある時には他者とみなされるものが別の時には自己とみなされるものであることもある
ということだ(これは>>894にも一致するだろう)
このような理解は自己と他者の区別を前提としており二項対立の解消にとって何ら益するものがない
二項対立的区別は「代入されるもの」の入れ替えによっては解消されない
東洋哲学の二項対立的区別は複素数モデルでは否定できない
そうなると西洋哲学との差異は何なんだ?
少なくとも両者の差異は二項対立にはないわけだ
二項対立を前提とする東洋哲学はどのように二項対立を克服するというのだろうか?

908:考える名無しさん
19/08/18 20:11:52.43 0.net
>>894
サルトルの『嘔吐』は、マロニエの根Aを顕在化させる意味作用を忘れて、存在のヴェールの下にあるabcde…のままの塊を覗いてしまった。

909:考える名無しさん
19/08/18 21:05:51.79 0.net
数学そのものは道具であってそこに自己とか他者とかのような意味はないよ。
ただただそのような考え方するもんだと思っておらえればよい。

910:考える名無しさん
19/08/18 21:52:58.06 0.net
西洋と東洋の世界の違いは前スレでもやった。
・一神教世界(非対称性、外在的超越、西洋的二元論)
・仏教世界、アニミズム世界(対称性、内在的超越、東洋的一元論)

911:廃狂人学術
19/08/18 22:06:52.74 0.net
サルトルは医者の家系で✕。工学やっても医療機器といううれん業界だ

912:考える名無しさん
19/08/18 22:27:09.43 0.net
>>898
いくらなんでも、単純化し過ぎというか、俗っぽ過ぎるんじゃない?

913:考える名無しさん
19/08/18 22:36:17.67 0.net
>>900
単純でも俗でもない整理をやってみせて?

914:考える名無しさん
19/08/18 22:39:58.93 0.net
>>901
無理。
元が思い付きだけなんだからw

915:考える名無しさん
19/08/18 22:45:17.23 0.net
西洋と東洋
一神教と多神教
非対称性と対対称性
外在的超越と内在的超越
二元論と一元論
これらこそが二元論だろw

916:考える名無しさん
19/08/18 22:47:52.41 0.net
東洋的一元論の行き着く先は二元論ということか…

917:考える名無しさん
19/08/18 22:55:25.50 0.net
東大で宗教学をやっていた人の話。
その人のところに訪ねてきたオ〇ムの中でも高い地位にあるという人に、
「そんな本を読んでいる暇があったら、ちゃんとした仏典と中沢の本を読みなさい。」
と諭していた。

918:考える名無しさん
19/08/18 23:24:16.06 0.net
>>905
>ちゃんとした仏典と中沢の本
これは感心するところ?
それとも笑うところ?
もしかすると、オウムの高い地位にある人が読んでる本を、この学者が読んでなかっただけ、ということ?

919:考える名無しさん
19/08/18 23:49:59.04 0.net
分からなければそれでいい。

920:考える名無しさん
19/08/18 23:51:12.45 0.net
中沢は、現代数学におけるレンマ論の位相を以下のように説明している。
“量子力学が見いだした非可換空間の考えからは、アラン・コンヌ(一九四七-)による非可換幾何学が生まれている。
 この新しい幾何学は人類の空間概念を本質的に変化させようとさえしている。
 どのような数学モデルにも、標準的(standard)な部分の外に
 超準的(non-standard)な領域が存在していることが、数学基礎論によって示されている。
 この超準的な領域の存在を認めると、長いこと実在ではないと考えられてきた無限小や無限大のような概念が実在するようになる。
 レンマ的知性は、ロゴス的知性の真に外部にある実在に触れている。”
― 中沢新一 『レンマ学』 講談社 (2019/8/8)

921:考える名無しさん
19/08/18 23:52:19.11 0.net
虚数は"imaginary number"だが、空想上のものの実在性を認めるといって話題になっていたのは誰>>270だったか?

922:考える名無しさん
19/08/18 23:53:05.93 0.net
今の実在論というのは、こういうところの話だろ。

923:考える名無しさん
19/08/18 23:56:44.76 0.net
最近のメイヤスーのもので決定的なのは>>683
この中でメイヤスーは、数学的形式主義における空記号のあり方に注目している。
“私が関心を抱いていてなおかつ議論するつもりのタイプ、すなわち純粋形式の下にあるタイプ、つまりは意味の空虚な記号のタイプを識別するために、新語を提起しておく。
 空虚な記号のこうしたタイプを ―「空虚」を意味するギリシャ語の形容詞kenosに基づいて― ケノタイプと呼ぼう。”
― カンタン・メイヤスー、立花史 訳「反復・重復・再演 意味を欠いた記号の思弁的分析」『現代思想2019年1月号 特集=現代思想の総展望2019 ポスト・ヒューマニティーズ』

924:考える名無しさん
19/08/18 23:57:14.20 0.net
仏教の空は経験的な空だが、ケノタイプはそうではない空ということ。

925:考える名無しさん
19/08/18 23:58:19.54 0.net
その他、メイヤスーが扱っているものは、ソシュール記号学ともパース記号論とも違うとしている。

926:考える名無しさん
19/08/19 00:43:39.76 0.net
おまえら何大学

927:考える名無しさん
19/08/19 08:19:02.25 0.net
>>914
大学といえば東大のことだろ?
このスレは大卒限定だから、東大か東大院に決まってる。

928:考える名無しさん
19/08/19 10:49:01.41 0.net
早稲田院のブタダシはお呼びで無し

929:考える名無しさん
19/08/19 10:51:20.18 0.net
ちなみに、文系はどこであろうと、もちろん東大院であろうと学校として認められない、というか廃止になる。
それが安倍政権の教育改革w

930:考える名無しさん
19/08/19 10:54:21.54 0.net
ポスト現代思想の愛好者は、少しは危機感を持った方がいいと思う。
それとも、いま学校で食ってる連中は、逃げ切りだけを目指してるのかもしれないね。
うっかり政権批判や教育政策批判をすると、来年から講座が消えるとかねw

931:考える名無しさん
19/08/19 11:16:32.51 0.net
だから加速主義とか新反動主義とか流行ってるんでしょ。
それこそリアルに就職を控えた院生のあがきとしてw

932:考える名無しさん
19/08/19 12:11:17.73 0.net
>>919
哲学専攻がいくら政権に阿っても、就職戦線では無意味だよね。
経済学なら多少の効果はあるかもしれないが。
そんな連中を雇う企業はないし、学部学科の廃止が止まることもないしw
資本主義社会では、すべてをなげうつ奴隷でさえ、醜いというだけで足蹴にされるんだから。

933:考える名無しさん
19/08/19 19:58:39.18 0.net
まあ哲学は趣味として残るしかないと言っていた人もいたしね。
だからこそサブカルに接近していると言えなくもない。

934:考える名無しさん
19/08/19 20:14:28.67 0.net
二項対立や二元論が駄目な理由は何なの?

935:考える名無しさん
19/08/19 20:33:22.74 0.net
中間層はどうなるのか
その他に選択肢はないのか
どちらか一方に偏らないのか

936:考える名無しさん
19/08/19 21:14:45.12 0.net
二項対立を積み重ねればいいじゃないか
AとB、BとC、CとD、DとE、・・・というふうに

937:考える名無しさん
19/08/19 22:06:09.61 0.net
二項対立というのは、ヘーゲル(とマルクス)の弁証法で終了してるんだよね。

938:考える名無しさん
19/08/19 22:11:16.38 0.net
終了してるってどういうこと?
極まったってこと?

939:考える名無しさん
19/08/19 22:14:28.97 0.net
あらゆる物事がデジタルで処理できるということが
わかって二項対立が森羅万象の説明原理になった

940:考える名無しさん
19/08/19 22:21:29.50 0.net
>>925
アドルノの否定弁証法は?
>>927
排中律というのは文字通り中間を排除したもの

941:考える名無しさん
19/08/19 22:46:36.12 0.net
>>926
二項対立というのは視点の問題であるということが一つ。
そして、どの視点から得られた二項対立も、そのままとどまることはなく、新たな構造(関係)に移り変わるということが一つ。

942:考える名無しさん
19/08/19 22:47:38.19 0.net
>>927
残念ながら、あらゆる物事がデジタルで処理できないということが分かってきたのが、現代というべきだろう。

943:考える名無しさん
19/08/19 22:49:21.78 0.net
>>928
アドルノの否定弁証法というのは、いわば普通の弁証法。
視点をどこに置くのかを強調した言い方。

944:考える名無しさん
19/08/19 22:58:18.30 0.net
>>931
弁証法が止揚によって一元化されてしまうことに異義を唱えたんだろ

945:考える名無しさん
19/08/19 23:08:38.58 0.net
>>932
ヘーゲル(とマルクス)の弁証法というのは、一元化などされない。
常に新たな否定項が内部から生まれ続ける。
図式化すれば、螺旋階段のようなものだ。

946:考える名無しさん
19/08/19 23:10:09.13 0.net
その内の一つ一つの止揚というプロセスを問題にした

947:考える名無しさん
19/08/19 23:13:40.51 0.net
>>934
止揚という過程などない。
常に動き続けている。
だから、螺旋状であって、同じ地点にはない。

948:考える名無しさん
19/08/19 23:18:07.06 0.net
止揚=矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて発展的に統一すること

949:考える名無しさん
19/08/19 23:21:27.16 0.net
>>936
それだと、ヘーゲル(とマルクス)の弁証法の理解になっていない。
エンゲルスの『自然の弁証法』が理解の手助けになると思う。

950:考える名無しさん
19/08/19 23:29:56.36 0.net
そんなロマン主義はいい

951:考える名無しさん
19/08/19 23:32:55.42 0.net
>>938
ロマン主義ってなんだよw
負け惜しみもたいがいにするべき。

952:考える名無しさん
19/08/19 23:36:11.55 0.net
>>935
宇宙でも眺めてろ

953:考える名無しさん
19/08/19 23:37:18.17 0.net
カント以降の哲学が主体と客体を分け、
その間が相関主義(言語や感覚など身体性による感得)による
曖昧な解釈で埋められてきた。
メイヤスーはこのことを乗り越えるべく、
解釈の幅のない、科学的・数学的アプローチのみによって実在にアクセスする
思弁的実在論によって脱却しようとした。

954:考える名無しさん
19/08/19 23:37:55.78 0.net
ただこうなると、今度は
・身体性�


955:薰キもの/介さないもの ・人間性/非人間性 ・人文学/非人文学 という対立が生まれる。



956:考える名無しさん
19/08/19 23:38:23.11 0.net
そこで出てきたのが、
科学も空想もその他のものも同レベルに認めるという多元論的な
ガブリエルの新実在論>>137

957:考える名無しさん
19/08/19 23:38:45.63 0.net
哲学を通して見ても、それは世界の一面でしかない。
科学を通して見ても、それは世界の一面でしかない。

958:考える名無しさん
19/08/19 23:42:21.65 0.net
>>941
科学的・数学的アプローチは解釈の幅がない?
面白い冗談だ。
吉本芸人とどっちが面白いかは知らないが。

959:考える名無しさん
19/08/19 23:44:17.67 0.net
>>943
くだらないこと考える暇があったら、学生たちの就職先探しに奔走しろよ。

960:考える名無しさん
19/08/20 00:03:50.62 0.net
あとは、次元を切り替えてみるということ。

961:考える名無しさん
19/08/20 00:06:00.46 0.net
カント以降の哲学でもう一つ大きい問題が
構造主義の祖でもあるソシュールのモデルで、
シニフィアンとシニフィエの二元論(>>205-206)になる。
ポスト構造主義以降の哲学者は、このソシュールモデルの乗り越えを課題としてきた。
デリダ、ドゥルーズ=ガタリ、エーコは、
その死角と限界を克服するために、パースの三元論モデル(>>205-206)を引き合いに出した。
それに対して、メイヤスーは解釈が一元的な数学モデル(>>911,913)で乗り越えを図った。

962:考える名無しさん
19/08/20 00:41:03.63 0.net
仏教はこういうことを昔からやってきている。

963:考える名無しさん
19/08/20 00:42:27.30 0.net
6世紀に発展した天台宗の「一心三観」では、以下三つの観方を一思いの心に観る。
(1)一切の存在には実体がないとする聖なる空観
(2)一切の存在は仮に現象しているとする俗なる仮観
(3)空観も仮観も別々のものとしない中観
どのような観方であれ、世界を切り取る際には死角が生じる。
空観といえども例外ではなく、その死角を埋めて相対的思惟を超えようとするもの。

964:考える名無しさん
19/08/20 00:44:41.38 0.net
空というのはemptyということだが、
その運用のされ方によって複雑に構造化してきた。
ブッダの「縁起」
・空
・一元的な空

龍樹の「空亦復空」
・空もまた空ぜられねばならない
・二元的な空

「一心三観」
・空と非空を合わせる空
・三元的な空

965:考える名無しさん
19/08/20 01:59:10.69 0.net
意図をどう扱うかという問題でしょう
意図が扱いにくいからといって、「恣意性の排除」によって、
あらかじめ意図を排除してしまうなら、
すべては、既に与えられている分類の構造に還元されることになる

966:考える名無しさん
19/08/20 02:06:31.41 0.net
構造主義が意図を排除しようとすること自体が、恣意性によって構造が
乱されることが意識されている証拠でしょう。機械的/自動的/無意識の
構造を見出そうとするのに、意図によって構造が改変されてしまうことを
認めるのは都合が悪い。それを認めると、分析する側が、コントロールする
手立てを失ってしまうことになる。だから、意図はなかったことにしましょう、
意図は、実は、裏から、意図しない与えられた構造によって規定されている
ことにしましょう、ということになる。しかし、意図は、構造的でも、
非構造的でもなく、構造化そのものなのです。

967:考える名無しさん
19/08/20 02:21:06.90 0.net
そこで、哲学は、いつでも「遅れてやって来て」、メタ言語的に表現の
妥当性を問い直すことになる。そこで問題にされているのは、意図が
どのように経験を構造化しているかでしょう。哲学的な言説によって
であれ、経験が、既存の表現によってうまく記述され尽くしていると
感じられる限り、哲学は必要ないが、そのような記述には、新たな経験
は、まったくかかわっていない。

968:考える名無しさん
19/08/20 18:20:34.29 0.net
《Que sais-je? 〔Que sçay-je?〕》「私に何が分るのか?」
そう自問することを忘れるべきではない。

969:考える名無しさん
19/08/20 22:20:14.83 0.net
ブラシエやメイヤスーの「絶滅」論も、
人間存在を超えるものや、世界に対する絶対的な畏怖という、
西洋の伝統の延長線上にあるものなんだろうと思う。

970:考える名無しさん
19/08/20 23:15:02.63 0.net
ひとりごとみたいなレスが多い妙なスレだな

971:考える名無しさん
19/08/20 23:32:57.39 0.net
暑い日が続いてるからね・・・・

972:考える名無しさん
19/08/20 23:42:14.13 0.net
ツイッターでやればいいのにね

973:考える名無しさん
19/08/20 23:58:51.66 0.net
別に一人で延々書くのもいいんだけど、ひとりごと調じゃなくて連続性のある講義調とかメモとかにしてほしい
断片的に考察が並んでるのが謎すぎる

974:考える名無しさん
19/08/21 05:28:54.96 0.net
中沢大好きおじさんはもう中沢には言及しないの?
東洋も二元論だって論破されたから話題逸らししてるの?

975:考える名無しさん
19/08/22 06:41:23.13 0.net
二項対立については、いつでも「思想」に落とし込まれてしまい、哲学的に
十分に考察されないから混乱している。

976:考える名無しさん
19/08/22 06:58:21.22 0.net
>>955は、誤爆だが、構造主義の重要な問題の核心に触れることになっている。
構造主義やポスト構造主義が流行したとき、「言語には差異しかない」という
ソシュールの引用が流行ったが、それにより、哲学的に考察することなしに、
つまり、メタ言語のレベルにおいて十分に表現の妥当性を検討することなしに、
二項対立の存在について語ることが構造主義やポスト構造主義を論じることに
なるという一般的な認識が定着してしまった。

977:考える名無しさん
19/08/22 07:21:21.67 0.net
だが、実のところ、問題は簡単だ。ここで言う「差異」とは、弁別的特徴の
ことであり、例えば、フランス語を知っているというのは、フランス語と
される言葉の表現において用いられる弁別的特徴が分り、使うことができる
ことである。それができなければ、たとえフランス語の辞書を丸暗記して
いて、発音や文法の記述を詳しく述べることができたとしても、フランス語
について豊富な知識を暗記していることにはなり、フランス語について
よく知っていることにはなるが、フランス語を知っていること、つまり、
フランス語が分ることにはならない。これは、ちょうど、或る人が、
いくらワインについて博識になっても、ブルゴーニュ産のワインと
オーストラリア産のワインを試飲して、その違いを判別することが
できないなら、その人はワインについてよく知っている人ではあっても、
「ワインを知る人(connaisseur)」であることにはならないのと同じ
ことだ。

978:考える名無しさん
19/08/22 07:36:34.96 0.net
「言葉の意味とはその用法である」と一般に言われるが、「言葉を使う」とは、
「弁別的特徴を構造化することができる」ことである。それができなければ、
いくら大きな声で盛んに音声を発していたとしても、その声は「意味を成さない」
のである。だから、日本の古典文学においても、下衆の発する音声は、
しばしば、「言葉」としてではなく、「さえづり」として認識されている。

979:考える名無しさん
19/08/22 07:39:04.86 0.net
構造主義やポスト構造主義として「二項対立の存在について語ること」は、
「意味を成している」のか?

980:考える名無しさん
19/08/22 09:00:49.95 0.net
「違いが分る」ようになるために必要なのは、「身をもって知る」ことであり、
つまりは、経験することである。経験するとは、自らの振舞ひの効果が感じられる
ような状況に自らを置くことだ。それなしに、いくら知識を蓄積したところで、
「違いが分る」ようにはならない。

981:考える名無しさん
19/08/22 09:10:21.94 0.net
学校教育は、豊かな経験の可能性を提供する場となっているのか。
むしろ、家畜として生きることを「身をもって知る」場となっているのではないか。

982:考える名無しさん
19/08/22 11:38:57.06 0.net
「さえづり」× 「さへづり」○

983:考える名無しさん
19/08/23 00:18:17.94 0.net
>>963
> >>955は、誤爆だが
『エセー』なんて手に取ったことあるのかい?

984:考える名無しさん
19/08/23 00:19:06.24 0.net
“わたしはなにを知っているのか?(ク・セ・ジュ)”
“もっとも知られていないものこそが、神々の列に加えられるのにはもっとも適している”
― モンテーニュ 『エセー』

985:考える名無しさん
19/08/23 01:15:54.96 0.net
Je ne sais pas.

986:エポケーとはどのようなことか?
19/08/23 01:28:58.60 0.net
検索してみた
URLリンク(new.gisc.org)
In 1576, the French essayist, Michel de Montaigne chose as his
maxim of skepticism1 the question “Que sçay-je?” [What do I know?],
which he had set on a personal medallion together with the Greek word
epokhe [I hold back, or I reserve judgment],

987:考える名無しさん
19/08/23 01:30:29.65 0.net
How does he [Man] know, by the force of his intelligence,
the secret internal stirrings of animals? By what comparison between
them and us does he infer the stupidity that he attributes
to them? When I play with my cat who knows if I am not a pastime
to her more than she is to me? We entertain each other with
reciprocal monkey tricks. If I have my time to begin or to refuse,
so has she hers. (Book II, chap. 12, p. 401)

988:考える名無しさん
19/08/23 02:03:19.30 0.net
>『エセー』なんて手に取ったことあるのかい?
手に取ってみて、適当に開いてみました。なにか関係しそうなことが
書いてあるようです。何を言おうとしているのでしょうか?
Tout ce qui se cognoist, il se cognoist sans doubte par la faculte du
cognoissant: [...] Or toute cognoissance s'achemine en nous par
les sens, ce sont nos maitres: [...] La science commence par eux,
et resout en eux. p.624

989:考える名無しさん
19/08/23 02:04:49.58 0.net
誤:et resout en eux
正:et se resout en eux

990:考える名無しさん
19/08/23 02:07:34.36 0.net
>>971
あなたの博識は役に立っていますか?

991:考える名無しさん
19/08/23 02:24:09.15 0.net
社会で真っ当な人物として暮らしたかったら、作中の登場人物に対しては、
終始違和感しか感じない筈だが、これが常人から並外れて論理的な向きである場合は、
それほど間違っていないというようなことなのかな?

992:考える名無しさん
19/08/23 07:13:54.43 0.net
あなたの言葉を聞いていると、脳がすっきりときれいに洗われる気がします

993:考える名無しさん
19/08/23 07:34:37.67 0.net
>>971
こう問い直してみてもいいのではないでしょうか。
モンテーニュは、 “Que sçay-je?”という言葉を、自分の知識の量が
不足していると感じていたので、《Je demeure incertain.》という意味の
ギリシア語と一緒に記して、座右の銘としたのでしょうか。

994:考える名無しさん
19/08/23 20:58:34.52 0.net
次スレ
ポスト現代思想、ポスト・ポスト構造主義総合スレ3
スレリンク(philo板)

995:Que sais-je?
19/08/24 08:24:31.68 0.net
懐疑主義とは、実際には疑ってもいないことを疑っているふりをして
みせることではない。「不確かさに留まる」ことは、分っているのに
分らないふりをすることではない。
分ろうとする意志が働くためには、まずは、現状で自分には分って
いないことに気付くことができなければならないのである。
ところが、いくら思いを巡らせてみても、自分にどのようなことが
分っていないのか気付くことはできない。分っていないことに
気付かせてくれるのは、経験だけなのである。

996:Que sais-je?
19/08/24 08:42:37.50 0.net
経験によって、現状では自分には分っていないことに気付き、その状況
を受け入れることによって初めて、分ろうとすることになる。
しかし、乏しい知識に劣等感を抱いている人々も、逆に自らの豊富な知識
を誇りに思っている人々も、その多くは、分らないという状況を受け入れる
ことができない。なぜなら、それらの人々にとって、世界は、知っている
ことと、知らないことだけから成立しており、分らないことは、たとえ、
他人には関係している可能性があるとしても、自分には無関係のことである
と即断するからである。自分に知らないことがあることは、自らの知識
の量を誇りに思っている人々でも知っているが、分らないという状況を
受け入れたままでいることは、それが自分の知性が劣っていることを
示しているように感じられて、耐えることができないのである。
だが、愚かさとは、まさに、そのように、自分には分らない状況に
耐えることができず、分らないものは自分には無関係であるとする即断
にある。知性は、分らない現状を自覚して判断を保留しながら、
分ろうとして手がかりを求めることを続けることによって磨かれる。
それが「不確かさに留まりつづけること」であり、そうすること
によってしか、知性を磨く機会は得られないのだ。

997:考える名無しさん
19/08/24 09:12:08.56 0.net
技能を身に付けさせる訓練をするのに、訓練を受ける側は、「まだ何も分らない
のだから黙って言われたことに従え」というのは、それが、既に技能を身に付けた
指導者のまねをするように導かれる限りで正しい。訓練を受ける側は、まねを
しようとしてもうまくいかない経験を繰り返し、なぜうまく行かないのか、
うまく行く人のやり方とどこに違いがあり、どうすればうまく行くようになる
のかを自ら探究することになるからだ。しかし、指導する側が、模倣されるべき
技能の実践的な効果を示すことができず、ただ単に指示に忠実に従うことが
評価され、指示に従わないことが罰せられるだけなら、それは、それが
どのような名目/建前で行われるにせよ、技能を身に付けさせるための訓練
ではなく、服従のための訓練となる。

998:考える名無しさん
19/08/24 13:53:19.70 0.net
階層化した社会においてのみ成立し、運営されてきた学校という教育制度
で実際に行われているのは、生きるのに必要な技能を身に付けさせるための
教育なのか?「教(をし)ふ」という表現が意味するのは、声によって導く
ことであるはずだが、命令と禁止と褒美と罰によって服従する習慣を身に
付けさせることは、躾(しつけ)であって、技能を教えることではない。
調教された馬や犬やイルカなどの動物は芸をやってみせるが、芸を仕込ま
れた動物は、調教する人によって技能を教えてもらっているわけではなく、
自ら発達させることのできる技能を服従において発揮しているだけである。
ヒト以外の動物を見ても、生きる技能は、取り残されないように親について
いこうとすること、親が餌を獲るのを真似すること、子供同士で遊ぶこと
などで身に付けている。生殖のパートナーを獲得しようとする競い合いで
技能を磨き、高める場合もあるだろう。しかし、命令や禁止に服従すること
で自らが生きるための技能を磨くような動物種が存在するだろうか?
従順に服従する習慣を身に付けることが、人と人に飼われる動物の場合
においてのみ、生きる技能を身に付けるための「教育」と見なされると
するなら、これはとても奇妙なことではないだろうか。

999:考える名無しさん
19/08/24 22:28:56.51 0.net
『モンテーニュとエセー(文庫クセジュ)』 ロベール・オーロット (1992)

1000:考える名無しさん
19/08/24 23:53:51.66 0.net
どこらか読んでもいい随筆集なのだから、どの巻からでも(または1巻本の
場合には、どのページからでも)直接に読めばいいのでは。前提として
何か専門知識を要求するような本ではない。

1001:考える名無しさん
19/08/25 16:53:12.85 0.net
意味は既にあってそれを解読するという作者中心の読み方から意味が主体の中で生成されていく読み方(作者の死)に変わっていく
文化を言語的構造とパラレルに捉え文化を言語学的方法によって分析する
そうすることで文化はロゴスとして順序立てられたものとして秩序立ったものとして捉えられる
そこでは主体は秩序を再生産する一部品に成り下がり主体としての地位を失う
しかし文化も言語もロゴスではないし秩序立てることはできない
つまり文化や言語それ自体がそして文化や言語に隷属していると思われる主体がロゴスを秩序を破壊し新たなものを生み出していく力を内包している
では文化を言語的に捉えることができないのであればいかに捉えるべきか
そこで身体性が出てくる
しかし身体性は概念である
そして身体性の痕跡を表すには言語を用いなければならない
身体性によっては言語から逃れることができない
言語は順序立てられていなければつまりロゴスでなければ理解ができない

1002:考える名無しさん
19/08/25 17:11:55.64 0.net
宗教
過去(創造と歴史)と未来(終末や来世)とのつながりから現在を理解しようとする
科学
過去(原因)とのつながりから現在(結果)を理解しようとする
科学に未来を組み込むことは可能だろうか

1003:考える名無しさん
19/08/25 21:02:00.53 0.net
>>989
とりあえず、ハイデガーでも読んでみればいいんじゃない?

1004:考える名無しさん
19/08/29 01:24:36.19 0.net
言語以外の記号の分析というのもあるよ。
身体性ということであれば、
ロラン・バルトのファッションや、内田樹の武道とか。

1005:考える名無しさん
19/08/29 01:26:50.41 0.net
(1)言語の意味作用を中心としたソシュールの記号学
(2)言語以外の意味作用も対象にしたパースの記号論
ドゥルーズ=ガタリからメイヤスーにかけての流れの中で注力されているのは、1から2への転換だね(>>225)。

1006:考える名無しさん
19/08/29 01:28:35.34 0.net
>>272の中で分けられている「自然と文化(脳内過程、象徴過程)」というのは、
人類学というより記号論的な問題系。
言語以前の動物の生命過程や生物過程にも、記号過程(動物の体の模様や>>544のようなこと)はある。
敷衍して、生物記号論や地球環境記号論という話にまで発展した。

1007:考える名無しさん
19/08/29 01:29:47.76 0.net
スマホのインターフェイスなんかはアフォーダンス(生態心理学と情報科学)の具体的な成功例。

1008:考える名無しさん
19/08/29 01:30:28.84 0.net
>>733は、
デジタルメディアを通して展開される東のデリダ論と、石田のメディオロジー論。
心理学、現象学、記号論などに残された課題をアップデートし切っている。

1009:考える名無しさん
19/08/29 01:31:39.44 0.net
メディオロジー関連
・レジス・ドブレ 『レジス・ドブレ著作選 1-3』 NTT出版 (1999-2001)
・ダニエル・ブーニュー 『コミュニケーション学講義 メディオロジーから情報社会』 書籍工房早山 (2010)     
解説
・『現代思想2000年7月号 特集=メディオロジー』
・『フランス現代思想史 - 構造主義からデリダ以後へ』 岡本裕一朗、中公新書 (2015)

1010:考える名無しさん
19/08/29 01:33:12.15 0.net
メディオロジーは、キリスト教やマルクス主義の言説分析なども対象にしている。
“私はつまり、高度な社会的機能を伝達作用の技術的構造とのかかわりにおいて扱う学問を「メディオロジー」と呼んでいるのだ。
 人間集団(宗教、イデオロギー、文学、芸術など)の象徴活動と、その組織形態、そして痕跡を捉え、保管し、流通させるその様態との間に、できるならば検証可能な相関関係をケース・バイ・ケースで論証すること、それを私は「メディオロジー的方法」と呼んでいる。”
― レジス・ドブレ 『レジス・ドブレ著作選 1 メディオロジー宣言』 NTT出版 (1999)

1011:考える名無しさん
19/08/29 01:36:44.27 0.net
この辺りが、ポスト構造主義からポスト・ポスト構造主義への過渡期。

1012:考える名無しさん
19/08/29 03:54:11.17 0.net
郵便的 誤配的 解体的

1013:考える名無しさん
19/08/29 04:43:38.06 0.net
せっかく目を閉じていてあげたのに
キスもしないで出ていくのね

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