18/11/04 12:34:20.10 0.net
デカルトが「我思う、ゆえに我あり」と、
疑い得ない自意識を見つけたが、
その自意識の解体に取り組んだのがブッダやポストモダン。
龍樹の「空亦復空(空を空する)」や
ジュナイドの「ファナーのファナー(消滅の消滅)」の頃には既に、
そうした「自己解体する自意識の解体」という二重の抹消へと推し進められた。
西洋でそれに近いのは、アドルノの否定弁証法。
デリダやハイデガーの抹消や解体には、もう一つ上の審級が設けられなければならない。
ジャン=リュック・ナンシーは「主体の後に誰が来るのか?」と問うたし、
ブラシエの「絶滅」やメイヤスーの「祖先以前性」は、力技で飛び越えた。
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