17/12/23 11:50:10.44 0.net
先日、とある哲学家のツイッターで「意志的に悪を選んだ時期がある、合理的であれば行為にはさほど差がでない、しかし気分には多少の差が出る」という言説を読んだ
例えば節税で寄付控除を狙って行う行為と
純粋に人を助けたくて行う寄付は
行為において大差はないが、気分において確かに異なる
また、社会においては現実的な問題から悪を行い善をなす、みたいなことはザラな気がする
これは世の中には良い嘘と悪い嘘があり、その差異が利他的か、利己的か、で別れることにも似ている
キリスト教の行為義認や信仰義認を思い出すが、「悪を狡猾さを含んだ賢慮と捉えるとそれに従う時に現場で生きている感触がする」と彼は言う
一方で、「善は現場の問題を棚上げした気楽さがある」とも語る
それらは「戦略の違いだ」と語る
それもわかる気がする
その文脈においては、結局は善しかないじゃないか、悪は善の一つの戦略でしかないじゃないか、という気分になる
戦略のタイムスパンを数万年規模のマクロな視点から眺める時に、悪の本来の姿が見えてくるのではないか
進化が犠牲で成り立っていることを思い出した
それも気分の違いなのかもしれまい