24/08/11 13:27:38.94 0.net
>彼は、鏡の前に立ち、自分の皺の寄った顔をぼうっと見つめ、それから再び机に向かって腰かけた。問題は、この場合、そもそも金がまだ役に立つのかどうかだ、と彼は思った。金と、金で手に入るものすべて、休暇、旅行、距離、そういったものがもはや何も意味をもたない状況があるのではないだろうか。
869:考える名無しさん
24/08/11 13:28:54.41 0.net
Distanza ×
Distanz 〇
870:考える名無しさん
24/08/11 13:35:15.33 0.net
この小説は、こんな感じでならドイツ語初心者の私でも一応(誤訳や解釈の誤りを含むにせよ)最後まで訳せるような平易な表現で構成されている。
871:考える名無しさん
24/08/11 19:08:01.13 0.net
年取って、せこせこ貯めたお金は医療費に全部取られて終了だろう。
ワクチンで自然免疫破壊しているから、そのパターンで終わりやすい。俺はノーワクだから、少し違うかもだが
872:考える名無しさん
24/08/11 22:16:49.52 0.net
検索しても誰もそれを指摘しているのが見当たらないが、シェイクスピアの『ジョン王の生と死』(The Life and Death of King John)という作品においては、"begot"ということばが作品の中心と言えるほど重要な役割を果たしているのではないかと私には強く疑われる。
現時点では、私はまだ、この作品の全体的な構成を大まかにであれ理解したとすらいえず、登場人物の役割が互いにどう関係しているのかも把握できないまま、表面的に台詞にざっと目を通しただけである。
しかし、台詞のなかで"begot"という言葉が目立って強調されているだけでなく、わざわざ固有名として"Lord Bigot"という人物まで登場させており、それ以外の台詞にも"begot"という表現と密接に結びついてたものが重要な役割を果たしているという印象を私は受ける。
www.shakespeareandhistory.com/lord-bigot.php
873:考える名無しさん
24/08/12 01:12:07.56 0.net
これを英語を母語とする人々を相手に指摘しても、おそらく、「"King John"は、王位継承の正統性の争いを主題にしているのだから、"true begot"(嫡子)と"misbegotten"(非嫡子)の対比が台詞において中心的な重要性を帯びるのは当たり前ではないか」という反応しか返ってこないのではないかと思う。
しかし、私がここで"begot"ということばがこの劇の台詞において中心的な役割を担っていると指摘するとき、私はそのようなことを問題にしているのではない。
そうではなく、私が日本語の「みどり(嬰)ご(児)」を「み(身)ど(獲)りご(児)」であり、「みどり(緑)ご(児)」でもあるとメタ言語的に説明したとおり、シェイクスピアも"begot"が表現として伝へようとする「意識の働き」として意識的に(つまり、メタ意識のレベルで)捉へ返して、その捉へ返しを台詞において十全に活用して展開しているのではないかと指摘しているのである。
874:時折り
24/08/12 08:30:17.69 0.net
ひと(人)は、こと(言/事)あ(或/在/有)るごと(如)に、表現をすり替えることにより、本来分かりやすいはずのことをわざわざ分かりにくくする。
例えば、»Sein und Zeit«は、日本語として考へるなら、本来、「存在と時間」ではなく、「臨在と時(とき)」、あるひは、「を(折/居)りととき(時)」である。
つまり、みづから(身づ柄/自ら)が時宜よろしく「を(折/居)りを見る」べく「はからふ」ように刻まれるはずの「人(仁/任/認)性」としての「とき(時)」を、ひと(人/一)の統治支配により、みづから(身づ柄/自ら)がどのようにか「を(折/居)りあ(合/遇)ひ」をつけようとする「人(仁/任/認)性」の働きに、
「あらか(予)め/あ(或/在/有)らかじ(占)め『存在』するもの」としての「ひと(人/一)のただ(只/正)しさ」という正当化(justification)を優先させてしまうのである。
875:考える名無しさん
24/08/12 08:39:47.03 0.net
言ひ換へるなら、"time management"により、支配関係の一方向性を造り出すのである。
例えば、「言い換える」と自動変換される表記を「言ひ換へる」という表記に変更する手間だけでも、それによりみづから(身づ柄/自ら)にとっても「を(折)りあ(悪)しく」なることを余儀なくされる。
876:考える名無しさん
24/08/12 09:10:37.33 0.net
この掲示板の自動表示広告や9割以上麻痺したような動作を含め、あらゆる場面で折り悪しくなるように仕組むことは極めて容易なのである。
877:考える名無しさん
24/08/12 10:16:19.05 0.net
"Die jungen Rebellen"としてドイツ語訳されているMárai Sándorの小説の原題、"A Zendülők"で検索してみると、この作品についてのハンガリー語のWikipediaサイトがヒットする。
無論、私は、ハンガリー語は読めないので、自動翻訳にかけると、この小説が発表された当時、1930年のハンガリー国内での書評を読むことができるサイトへのリンクが貼られている。
そこで、そのサイトをGoogle翻訳の機能で英語と日本語に自動翻訳してもらうと、英語でも日本語でもそれなりに理解できる文章となって表示される。
これは、一時代前ではとても考えられなかった、サイエンス・フィクションのような技術の進歩であるとさえ感じられる。
しかし、では、それを読むことにどのような意味があるか考えてみると、そこに書かれている内容に誤りはないとしても、極めて凡庸であり、評論されている小説をわざわざ読んでみようと感じるような興味は湧いてこないだろう。
それは、例えば、シェイクスピアの劇、"King John"のあらすじのまとめと、それを紹介するために台詞の一部を現代英語の訳で示されたとしても、それが英国の王位継承の争いについての劇であるということが分かるだけで、なぜわざわざそんなものに関心を持つ必要があるのか不明となるのと同じことだ。
作品は、その表現に触れることで、みづから(身づ柄/自ら)の気づきとして意識の働きに変化が生じ、それをメタ意識のレベルで捉へ返そうとすることで、みづから(身づ柄/自ら)が生きることにおける折り合ひのつけ方に変化が生じる。
ところが、自動翻訳/現代語訳は、そのように「みづから(身づ柄/自ら)の気づきとして意識の働きに変化が生じる」ことを節約してしまうのである。
だから、それにより、容易に読むことができるようになった表現は、それがうまく自動翻訳/現代語訳されている限りで、既に分かり切った凡庸なものでしかなく、そもそもそれを読む必要性の感じられないものとなってしまうのだ。
hu.wikipedia.org/wiki/Zendülők
URLリンク(epa.oszk.hu)
878:考える名無しさん
24/08/13 08:13:48.18 0.net
歳時(とき)から時祷(時間)へ
Menschenfeindlich
German source: Michael Beer
Gegen mich selber in Haß entbrannt,
Von vielen gemieden, von allen verkannt,
So sitz' ich den lieben, den sonnigen Tag
Und lausche des Herzens unwilligem Schlag.
So sitz' ich bei Mondes vertraulichem Schein
Und starr' in die leuchtende Nacht hinein,
Allein, allein, allein!
Nie gönnt mein Herz der Liebe Raum!
Ich hasse die Wirklichkeit, hasse den Traum,
Den Sommer, den Winter, die Frühlingszeit,
Was gestern ich haßte, das hass' ich auch heut;
So sitz' ich bei Mondes vertraulichem Schein
Und starr' in die leuchtende Nacht hinein,
Allein, allein, allein!
879:考える名無しさん
24/08/13 08:27:05.74 0.net
歳時記に記される「とき(時)」、歌に詠まれる「とき(時)」が、時計の「時間」ではないことは、誰にでも容易に分かるだろう。
それがどのような原理によるにせよ、本来、時宜のよさ、折り合ひのよさを「はからふための目安」として考案された時計の「時間」を「とき」に優先させることは、みづから(身づ柄/自ら)が時宜よく生きることに、折り合ひをつけるための便宜上の目安に過ぎない
暫定的な単位/周期である「ひと(人/一)」を先立てようとする倒錯である。
880:考える名無しさん
24/08/13 08:36:55.22 0.net
>对敌人的仁慈就是对人民的残忍。〔主〕=敵に対する情け深さは人民に対する残酷である.
cjjc.weblio.jp/content/仁慈
不寛容に不寛容で応じることも、無慈悲に無慈悲で応えることも不毛である。
できるのは、不寛容には、その不寛容が、無慈悲には、その無慈悲がただそのまま返るようにうまくフィードバックを働かせてやることだけである。
さもなければ、「人事」は、「仁慈」によるものではなく、「人材管理」/"human resource management"として「ひと(人)事(ごと)」に化してしまう。
881:考える名無しさん
24/08/13 08:38:31.28 0.net
折り合ひをつけるための便宜上の目安に過ぎない暫定的な単位/周期である「ひと(人/一)」を先立てようとする倒錯である。
882:考える名無しさん
24/08/13 08:46:15.78 0.net
こうして、本来、誰にでも容易に分かるはずでありながら、皆が口を噤んでいることについて、わざわざ言語化して敢へて口に出すことこそが、哲学/人文学の本当の役割である。
883:考える名無しさん
24/08/13 09:03:52.04 0.net
誰でにでも容易に分かるはずのことなら、なぜ敢へてそれを口に出す必要があるのか。
それは、さもなければ、不寛容と無慈悲が、「ひと(人/一)を尊重する」という正当化の名目の下に大手を振ってまか(罷)り通るようになるからである。
884:考える名無しさん
24/08/13 11:57:45.41 0.net
みづから(身づ柄/自ら)が折り合ひをつけながらよりよく生きようとする取組みに対して、「ひと(人/一)」を優先的に尊重するよう強制することは、»menschenfeindlich«である。
たとえ、その「ひと(人/一)」が、「国民」や「人民」、「世界市民」、あるいは「人類」であったとしてもである。
885:考える名無しさん
24/08/15 12:22:06.30 0.net
Márai Sándorの小説、"A Zendülők"は、英語では、"The Rebels"として、中国語では、『反叛者』として、ドイツ語では、»Die jungen Rebellen«として訳されているが、
その題名(日本語に訳すなら『反逆者たち』となるだろう)やあらすじとして紹介される内容が想起させるのとは、相当にかけ離れた語りにより構成されたている。
あらすじとして説明するなら、これは、間もなく兵役に就いて戦争の前線に送られることになる数人の若者が徒党を組んで引き落とす出来事の顛末を、物語の中心人物であるアーベルの視点から描いたものであり、その「反逆者たち」が反逆するのは、
権威の象徴としての父親たちの世代が代表する「大人たちの世界」ということになるが、そもそも、この物語には、反逆の対象となるような「大人たち」は一切登場しない。
アーベルの父親からして不在であり、母親は現在のアーベルには、姉としてイメージされるような若いうちに他界している。
叔母はやさしく、アーベルのことを大切に思っているものの、外部の世界に対して保護者として頼りになるような存在ではなく、そのための能力も権威も持ち合わせていない。
若者が徒党を組んで実行する「反逆行為」も、「大人の世界」の決まり事を無視する、意識的に退行的な「子供の遊び」であり、上の世代に対する若者の反逆というよりは、「大人の世界の意味不明さ」を受け容れることのできない若者の「少年時代の世界への退避」という性質を帯びている。
実際、徒党を組む仲間には、アーベルの友人の兄も加わるが、この友人の兄は、既に兵役を経験済みであるものの、戦地で片腕を失って軍務を解かれて帰ってきており、「大人の世界」に入ることに失敗して、少年世界への退行として弟の仲間たちと行動をともにしている。
この小説では、「浄化」という概念が、アーベルの語りを物語として構成する鍵となっており、確かに、その物語は「悲劇的」と呼べるような結末を迎えるが、その「浄化」は「カタルシス」として作用するようなものではなく、その出来事の結末は、現実には何も「浄化」しない。
886:考える名無しさん
24/08/15 12:23:17.21 0.net
構成されたている ×
構成されている 〇
887:考える名無しさん
24/08/15 16:14:10.26 0.net
test
888:考える名無しさん
24/08/15 23:35:26.43 0.net
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