岡潔at PHILO
岡潔 - 暇つぶし2ch450:考える名無しさん
14/12/13 01:49:34.64 0.net
草薙剣(天叢雲剣)の歴史

初代―→素戔嗚尊が大蛇の尻尾から取り出し、焼津で霊験を顕し、熱田神宮で祀るが所在不明。
二代目→安徳天皇入水により所在不明。
三代目→伊勢神宮が神のお告げで京都へ奉納、宮中に現存。

古事記の第一次国産みは杜撰。
安徳天皇入水が第二次国産みの始まりで、1974年3月で概ね仕上がり、2011年3月で完了した。
天月読尊の分身が要所要所で働いてくれた結果。

451:第十三識は岡も言うように長過ぎるので今日明日で分割投稿予定
14/12/18 20:15:38.52 0.net
「春雨の曲 第7稿 第2章 旅路の原型」より 第十三識の文例

「人間をつくったもの」
法学部二年 男子学生

人間は与えられたものを生かすことは出来るが、与えられていないものを生かすことは出来ない。
人間は生長することは出来るかも知れないが、それは生長するように出来ているからで、
そう出来ていなければそれまでです。
我々がいろいろのものを見たり聞いたり経験したりすることが出来るのもそういう風に我々がつくられているからで、
つくられていなければそれまでです。
私は髪の毛や爪に神経がないので切っても痛くなく、又血がないので切っても血が出ない。しかしそれはそうつくられているからです。
我々がものを食いたいのも、又何か飲みたいのも、
又生きたい、死にたくないと言うのも我々がそうつくられているからです。

452:考える名無しさん
14/12/18 20:37:37.12 0.net
人によって好き嫌いが違う。それもある所まで矯正することが出来ることもありますが、それもそうつくられているからです。

我々は自分の力では味覚、嗅覚さえつくることは出来ないのです。
我等は与えられているのを当然と思い過ぎている。
又それは本当のことのわかる人から見たら当然に過ぎないかも知れないが、我々はまるでそれを自分で持っているような気でいます。

しかし一寸反省してみれば、我々はつくられたままに生きているに過ぎない。
そして泣いたり笑ったり悲しんだりするのも、そうつくられているからに過ぎない。

こう考える時、我々は自分達をつくってくれたものは少なくとも我々自身は中々微妙につくられているということを感じるであろう。

我々の味覚にしても、実に複雑な味を感じることが出来るように出来ている。
それは生きることに必要以上である。
飢えた時は食を撰ばずと言う。我々が生きるためだけに味覚が与えられていたのなら、もっと味覚は簡単でいい、
味覚が複雑であるということは、我々の生活をぜいたくにさせ、面倒にするかもしれない。
だが味覚が与えられている以上、出来るだけの良いものが食いたいと思うのは人情である。
そして人間は自分に許された力でその人情を満たそうとする。
かくて料理が進歩する外に、農作物や家畜の改良、果樹などの改善が行われる。

453:今日はここでおやすみなさい
14/12/18 21:05:08.39 0.net
この欲望を満たすための人間の努力は昔から今日までに大したものであったろう。
そして人間の食えるものをあらゆる山から、谷から、川から、海から………とることに骨惜しみをしなかった。
それは生きるためでもあった。
しかしそれ以上でもあった。

自分は人間に複雑な味覚が与えられていることが人間にとって幸であるか不幸であるか知らない。
しかし人間がそうつくられている以上、うまいものを食う喜びを、まずいものを食うことより求めたがるのは人情と思う。
そしてそれは自然である。其処に人間の罪悪も生まれるが、努力も生まれる。
そして正しい方法で、人間により甘いものを食わせることを考え出し、またつくり出したものを自分は讃美しようと思う。
そして自分の理想的な世の中においては、人間の健康を害しない、又他人を不幸にしない方法で、
誰もがうまいものを食えなければならないと思っている。
固い言葉で言えば良心に恥じずに兄弟姉妹と喜び合って甘いものの食える世の中�


454:ナあることが、 理想的な世の中の一つの条件と思う。それは最大の条件でないにしろ。 又自分は人間に与えられている味覚につき、視覚につき、聴覚につき、触覚についても同じことが言えるであろう。 元より我等は同一刺激には飽きる。しかし我等はより美しい調和を求める。 元より我等は生きなければならない。又生長しなければならない。 動きのとれない調和では困る。それは生長する調和でなければならぬ。 そして我等の勇気を眠らすものではなく呼びさますものでなければならない。



455:考える名無しさん
14/12/19 22:11:36.45 0.net
理想の社会は、人々が退屈する社会であってはならない。
人々が生き生きする社会でなければならない。
美しい音楽、美しい画、彫刻、建築、美しい都市、それ等は人間の本能を不健全に刺激するものであってはならない。
それらは、人間を本当に生き生きさせる喜びと、勇気を与えるものでなければならない。
我等の楽園は遊ぶにも適した所であろうが、更に生きるのに適した所でなければならない。
部分と全体が生きなければならない。
其処に調和せる美が生まれる。
そして我等に与えられた複雑な感覚が、それによって嬉しく呼びさまされる。
そして生きた喜びを我等はその時感じる。
又そう感じるように我等の感覚を生かしてくれるものに対して我等は本当に美という感じを持つのである。

つまり我等が美を生み出すのは、その喜びを本当に味わいたいからである。我等がそうつくられているからである。

456:考える名無しさん
14/12/19 22:25:19.91 0.net
人間は何を愛さなければならないか、何を讃美しなければならないか、何によって生き甲斐を得なければならないか、
それは人間がつくられたままにすなおに愛せるものを愛し、讃美できるものを讃美し、生き甲斐を得られる時に生き甲斐を感じれば良い。
それは理屈ではない事実である。

しかし我等は其処に人間をつくったものの意志を見ることが出来る。
人間をつくったものは人間に何を嫌わせようとしているか、
人間にどんな世界をつくらせたがっているか、
人間がどう生きることを欲しているか。
それを我等は我等のつくられ方によって知ることができるのだ。

我等はとにかく長生きしたい。死にたくない。それはそうつくられているからです。
そして其の為に必要なものが与えられている。
我等は生きる目的は知らないでも生きたいと思うことは我等をつくったものの意志で悪いことではなく、
むしろ我等はすべての人が長生きすることを望むべきである。

457:考える名無しさん
14/12/19 22:50:11.37 0.net
我等は美を愛するように出来ている。
それは美を地上に生むことを我等をつくったものが望んでいるから、と見ることができる。

この世に不幸なことが起こる。そして人間はまだ完全には生きられない。悲惨なことが起こりやすい。
我等はそれを喜ばない。どうかしてそれから助かりたく思う。それもそうつくられているからである。

我等をつくったものは一方自分だけでも生きたい気を強く持たせ、自分の生命に執着させ過ぎているように見える。
しかしこの世に悲惨なことがあり、生存するために非常な闘争が必要である間、
人間が一方そうつくられているのはやむを得なかったのである。
愛するものが死ぬように他人の死を一々感じるようにつくられたら、
我等はこの世に泣きに来、又自殺しに来たに過ぎなくなる。

其処から色々の不幸が起こりうるが、
それは人間がまだ生きる為に闘争しなければならない時代の本能で、
皆が助け合って始めて気持ち良く生きて行ける時代が来たら、
今我等の世間に存在する残忍性は段々姿を隠すであろう。
それは我等をつくったものの意志を知るものの等しく認める所である。

458:考える名無しさん
14/12/19 23:12:58.25 0.net
何故かというとそれ等の本能が生かされる時我等の心を淋しくし、人間に生まれたことに喜びを失うようにできているから、
人間が人間に生まれたことを本当に喜びたく思う時、人類にとって自己を傷つける傾向のある本能は、
すなわち人間同志の闘争的本能は、消えて行かなければならない運命を持っている。
今はまだ人類が全面的に自覚を得ていない時で、自覚を得た人はごく少数きり無く、
他は自分が死ぬか相手が死ぬかという境に追い込まれつつあるので、
個人の内にある自己保存�


459:フ本能が、同じく自己の内にある人類的本能と衝突することが避けられず、 自分の心がそのために調和がとれず、其処に自暴自棄な態度が生まれるのである。 自分の心に平静が保てない時、その人は落ち着きが無く、殺伐になるのはやむを得ない。 さらに、自分の仕事を持たず、人類のために役立つ製作的な、あるいは建設的な仕事を持たないものは 適帰する所を失うのはやむを得ないと思う。 然しそれは病的現象であって、人間をつくったものは、そんな状態に人間が落ち着くことを好まないことはわかり切っている。 人間をつくったものが人間を落ち着けたがっている世界、それはすべての川が入りたがって流れていく海のような世界、 それは我等の理想とする世界であって、我等は其処へ達する為に働くことを、 我等のつくったものによって命ぜられているのである。



460:考える名無しさん
14/12/19 23:35:42.62 0.net
それはいつ達せられるかわからない。しかし其処に達するまで、我等は本当の意味では落ち着けないであろう。
だがそれを目指している間、我等の内に希望が湧くように我等は又つくられている。

それがあればこそ我等は自分の一生で達せられるとは思わないでも、
一方落ち着いて大いなる希望を持ちながらその日その日を努力して、
足もとを忘れずに一歩ずつ進んでいくのである。
そして後戻りする必要も無いのである。
我等をつくったものの意志を内に感じるものは、
内心の要求をのみ無上のものとする。
其処に神の意志を奨励を認める。
歴史や現実はどうであろうと、目指す所は忘れない。そしてその為に静かに土台をつくることが出来る。
どんな嵐の中でも思想の混乱している時でも、それを貫いて我等を導くものは、
我等をつくったものの意志である。我等の内に生まれる内心の欲求である。
これを感じないものは遂に目的を忘れて、嵐に巻き込まれる。
我等をつくったものの意志を尊重しなければならない。

461:考える名無しさん
14/12/20 00:05:46.78 0.net
もの二つ、三つ組合せてつくるに非ず、黄金を打ち延べたるようにてありたし 芭蕉

10識の10という数字は非常に意味深な数字で、統計学が成立する理由は何でも10で区切れるから。
真情がいかに大きな意味を持つかわかる。

13という数字はちょっと不可思議な数字。
旧制三高寮歌である「逍遥の歌」「紅萌ゆる」の作詞者は13識にいる。
12識は13識に上がるのは非常に大変で、
岡自身13識から眺めると、今回の人類の旅路は星を移らないで済むかもしれないと言っている。

それにしても、星を移るっていうのを映像化したFF13のナンバリングタイトルが13だったというのは因縁はあるかもね。
11識を使い過ぎると早く死ぬっていうのもこのゲームの中で映像化されてるし。

462:考える名無しさん
14/12/20 00:07:01.38 0.net
12識は じゃなくて 12識から

463:考える名無しさん
14/12/23 23:50:06.00 0.net
「春雨の曲 第7稿 第2章 旅路の原型」より 第十四識の文例

「私と子供の本」
外国語学部一年 女子学生

本屋に入れば一時間も二時間もウロウロしている私ですが、近頃またその時間が延長し始めています。
あの狭い本屋のどこをウロウロしているのかと言えば、ほんの小さなコーナーなのですが、
そこはもう時間や空間を超越したファンタジーの世界なのです。
ワッといろんな色が飛び込んで来る絵本のコーナーとずらりと並んだ童話のコーナーは、
私に一大変革を持ち込んだのです。
何か私に無限の世界が広がったような気がします。

464:考える名無しさん
14/12/24 00:04:08.88 0.net
こうなる機会を作ってくれたのは、絵本「木」(堀文子作)でした。
本との出会いというのは、こういう事なのでしょうか。「木」は、それまでの絵本に対する私の概念を見事に打ち砕きました。
日本画家で知られていた堀文子さんの絵は、一頁一頁の絵でもって私に感動を与えました。芸術なのでした。
作者が全力投球で、真�


465:浮ノ絵本と向かい合っているのが感じられました。 私がそれまで知っていた絵本を見る時、何か窮屈な思いに駆られるのです。 大人から見下されているような。 例えば、こんな絵本があります。 お風呂の入り方とか服の着方とか、ある主人公がこうなったのはこういう悪い事をしたからなのよとかいった教訓めいた本です。 私は今ではそういう類の物を目にした時、腹立たしくなるのです。 どうしてそんなことまで絵本の題材にしなくてはいけないのか。 絵本には、もっともっと重要な子供たちへの役割がある。そんな日常的なことは、母親が実際に教えたら良いことではないか。 私の大事なファンタジーの世界を汚さないで下さいと言いたくなるのです。



466:考える名無しさん
14/12/24 00:27:06.07 0.net
絵本の重要な役割……これをここで私は考えていきたいと思います。

多く大人は、子供に本を読む時には必ず何かを学び取らせる事を欲します。
そしてその何かの無い本は遠ざけて、何かの有る本だけを与えようとします。
小学校の頃夏休みの宿題で何とか課題図書とか称して、無理に読まされ、感想文を書かされたことを思い出します。
あの時は、随分しんどい思いをしました。
大人は、大人の既成概念の枠で子供たちを囲もうとしているようです。
子供たちのエネルギッシュな心を拘束するのは、自分のような大人の状態に高めよう(?)とする事と思い込み、満足し、
子供たちに対して優越感に浸っているなんてなんとも滑稽ではありませんか。
子供の世界は無限であると思います。
自由な創造力とトンチンカンと残酷(それは生の心から欲される結果)とのびのびした楽しさとの世界にそんな枠をはめ込もうとするのは不自然です。
私が子供の本に魅せられてしまったのは、その無限の世界故です。
そこから何かを学び取るとかいうようなものではなくて、文句無く理屈無しで楽しめ、遊べるのです。
そこでは、もう本を読む時の長年の私の癖である本から何かを学び取ろうと身構える事は無意味なような気がします。

こんな風に私に考えさせて来た私の出会った絵本や童話を紹介し、その際気付いた事も少し書いておきたいと思います。
絵本と童話との出会いは驚きとの出会いです。
そしてその驚きは、その本一冊一冊で種類を異にします。

467:考える名無しさん
14/12/24 00:50:36.47 0.net
絵本では、先ず堀文子さんの「木」が最初に書いたように新鮮な驚きでした。
これはまず、初体験とでも言うべきものです。
そして、最高のお気に入り、「おしゃべりなたまごやき」(寺村輝夫文、長新太絵)があります。
内容は窮屈そうににわとり小屋にひしめくにわとりを可哀想に思った心やさしい王様は、彼等を放してやります。
城中は大騒ぎ。犯人は誰だと探し回る家来たちをよそに、王様は自分が犯人と知っている一匹のにわとりに「誰にもいうなよ」と命令するのです。
ところが、夕食にそのにわとりの卵で作った目玉焼きが出て来て、
それを食べると王様の口の中から「誰にもいうなよ」という言葉が飛び出して来るのです。
何てナンセンス。何て愛すべき王様。そしてこの長新太の絵のきれいな色といったらないのです。
ここまで言って来てふと思うのは、子供ではない自分のひとりよがりの自己満足ではないかという事です。
子供にも、果たしてそんな風に受け入れられるのかと言えなくもありません。
けれど私は、受け取り方は違っても子供は子供なりにこの素晴らしい絵本を楽しんでいると信じたいのです。
昔見た日本昔ばなしやディズニーの可愛い動物たちを時折静かに思い起こすのは、
やはりその時の印象が私の心の中の隅っこに静かに眠っていたとは言えないでしょうか。
そういう印象の種を持たなかった大人たちに、今素晴らしい絵本を


468:読んでもらっても、種の無い心に芽がふくかしらと考えてしまうのです。 その他、ソビエトの画家ヤーノシュの「おばけリンゴ」などの外国絵本もその創造性において、嬉しい絵本でした。



469:考える名無しさん
14/12/24 01:19:08.69 0.net
童話では、私が涙をポロポロ流して読んだ「木かげの森の小人たち」(いぬいとみこ)は、絶対に忘れられないものの一つです。
鋭い反戦の内容を持ちながら、私たちに小人は日本のやさしい心を持つ誰かの保護のもとに今も生きているとふんわりした気持ちを思い起こさせます。
それは、あの小人たちの命を繋ぐ空色のコップの象徴的な鮮やかな印象から起こるのです。
童話ではありませんが、稲垣足穂の「一千一秒物語」はとびきり上等の私への贈物のように思えました。
クールなナンセンスと硬質な光りのきらめきは、新しい大きな発見でした。
文集の少年愛のイメージも好きです。とにかく私はタルちゃんの新奇な世界に参ってしまったのです。

「たんぽゝのお酒」(レイ・ブラッドベリ)は、奇妙で詩的な少年の夏の日の世界でもって私をころりとさせてしまいました。
「まっぷたつの子爵」(イタロ・カルヴィーノ)は、大人の心臓をドッキリさせてしまう。
子供にはユーモラスでちょっと怖さがあって、とファンタジーの世界に満ちているのですが。
現実社会への批判の鋭さに、この本は現実感を持って私たちに迫って来るのです。
しかしその影に隠れる作者の暖かい心が感じられ、ホッとしました。
「僕の村」(ジャン・コー)のナンセンスは、とびきり上等のフランス風センスを心得ていました。

470:考える名無しさん
14/12/24 01:25:18.61 0.net
谷川俊太郎の「ことばあそび」というのがあります。
自由自在に何の意味も特別持たず言葉を操るそのナンセンスに私は、好きな詩人であるだけに感動しました。
そこに子供たちが無心に遊ぶ姿を見たのです。
ナンセンスと言えば「地下鉄のザジ」(レーモン・クノー)も、大人の味は強いとはいえ枠を超えた面白さを持っていました。

471:考える名無しさん
14/12/24 01:31:16.00 0.net
そして宮沢賢治の童話はいつ読んでも新鮮ですし、
「ピーターパンとウェンディ」を読む時のあの緊張感も薄れてはいません。
近頃では、読んだり見たりするだけでは飽き足らず、自分でも書いたりするのです。
他の人の創造の世界に遊ぶことは、いろいろな新しい発見があってそれは楽しいのですが、
自分だけの自分が生み出すファンタジーの世界に遊びたいという気持ちが強くなって来ているのです。
それはやはり創造の楽しみでしょう。
絵本や童話の子供たちへの大事な役割とは、この創造ということだと思います。
子供は、大人の既成概念の枠にはめられる前に、創造の世界に生きて自分の内に眠るあらゆる可能性を知らなくてはいけないと思うのです。

472:考える名無しさん
14/12/24 01:38:28.06 0.net
そうすることの出来なかった私は、現実世界に生きてきて、
その中の周囲のいろいろな事に気を配りながら常識的、習慣的、義務的人間になってしまった自分にウンザリし、
今更枠を壊したいという願いを子供の本に向けているというわけです。

今度本屋に立ち寄る時も、又ふらふらと児童書のコーナーに吸い寄せられるでしょう。

今日はどんなびっくりする本に出会えるだろうかと。

473:考える名無しさん
14/12/26 05:01:59.65 0.net
「春雨の曲 第7稿 第2章 旅路の原型」より 第十五識の文例(其の一)

「子供は天才」
経済学部二年 女子学生

子供の世界を静かに観察する事から始めよう。

子供は元気に遊びたわむれる。子供は遊びの世界に生きるのである。
女の子供は、ままごと遊びに明け暮れする。子供はきまって親を百貨店へひっぱり出してゆく。
そして、そこでままごと遊びの道具などを買わせようとするのである。

おもちゃ売場へ行くと驚かされる。そのおもちゃの種類のおびただしい事、何でもあ�


474:驕B



475:考える名無しさん
14/12/26 05:16:39.72 0.net
ところで、それを眺めていると、大人の世界が、一つの売場に完全に集約されているような感じを受けるのである。
子供が手にして選ぶ色々なおもちゃを見ていると、自分までもが、おもちゃ売場の一隅に小さくならべられた人形の様に感ぜられてくる。

子供が、あれやこれやと手にしているおもちゃを見ていると、
テレビ、ラジオ、ガスレンジ、洗濯機といった高級品から食器セットまでの家庭用品、自動車、電車、汽車まで……。
人形はと手に取れば、ミルクを飲み、おしっこもするといった具合である。

実際の話、おしっこもまともに出来ず、又言えもしない子供が、そういった人形を手にしたいらしく買ってくれとせがむのである。
ご飯もまだひとりで食べられない子供が、食器セットを手にしたがる。
ガスレンジもスパークが出るような本物まがいのが欲しいらしく、おねだりを言い、あげくのはては、だだをこねるのである。

一、二歳頃までのおもちゃは、視覚的要素だけを考慮に入れて作られているらしいが、それらに満足している期間は、はたしてどれほどだろう。
見ているとものの一年もたたない間に、どんどんこわし始める。
破壊するのだから、子供には満足を与えていないことになる。

もう子供は一足とびに、ままごと遊びの道具を欲しがるようになる。
まだ子供だから、身体は十分機能的に動き得ないのに、観念的には、十分発達した機能的動きの中で遊ぼうとする。
要するに、視覚とか聴覚だけを部分的に満足させてくれるおもちゃでは満足できなくなってくるらしい。
それがどうも子供が盛んにままごと遊びの道具をせがむ理由らしい。

476:考える名無しさん
14/12/26 05:33:00.86 0.net
さて、たまたま、このままごと遊びの道具を首尾よく手に入れた時、
子供はこれで、どのように楽しく遊ぶか、しばらくこれを眺めることにしよう。

例えば、台所用具一式を幸いにも子供が手に入れたとしよう。どうするだろう。

ガスレンジには鍋をかけ、食器をならべ、お台所仕事がはじまる。

ところが、ここで異様な動作が行われている事に気がつく。

それは何か、と言うと彼女達は、きまってそのままごと遊びの主人公になろうとする、という事である。
例えば、隣から友だちを呼んで来て、お客様としてすわらせる。
すなわち、自分が料理をしてご馳走する立場に立とうとする。
お客様がいないとまことにご機嫌が悪く、うっかりすると見ている大人までがひっぱり込まれてしまう。
そしてとんでもない、むなしいご馳走にあずかるはめにさえなる。
ご馳走の中身が、そこらにある草である場合もあり、或いは、紙片かも知れない。
ある時には、何もない事もある。寒い時は暖かそうに、暑い時は冷たくして出される。
子供は、よちよちしながらも、かいがいしく立ち回るのである。
うっかりして大人が、そのままごと遊びの主人公にでもなろうものなら、大変なことになる。

477:考える名無しさん
14/12/26 05:55:52.05 0.net
次々と彼女達によって展開されていく生活環境は、驚くべき事に、全くもって大人のそれであるということである。
たまたま、そこに相手役をつとめる人間がいないとすると、さっそく選ばれ、御相伴役(ごしょうばんやく)を仰せつかるのが人形である。

この人形には、最上級の敬語と愛情が、注がれる。
彼女は、この無言のお客様のご機嫌を損じないように、八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍を続ける。
ミルクもコーヒーもパンも、時には、あまり口にもしないようなものまでがご馳走される。

人形は無言だが、彼女はしゃべり続ける。しかも驚くべき事に、その言葉遣いが異常なほどに大人びてくる。
最上級の敬語というのがそれであり、言葉のデリケートなニュアンスも案外間違えない。
動作のジェスチャーも機微にふれている。
平素は坐れもしないのに、


478:きちんと無理をして坐る。 歩き方はと見れば、きまって花嫁の真似をする。 人形に対する態度は、友達としてではなく、母親が子供に対するがごとく、 彼女自身がおしっこを言うのを忘れていても、人形のおしっこをさせる事だけは忘れない。 まことに、さまざまな世界をここに構成する。 その世界の主人公になることによって……。



479:考える名無しさん
14/12/26 06:22:24.69 0.net
ところが、ここへ母親でも帰って来たとしよう。
そして、たまたま美味しいお菓子でも買ってきたとすると、もう彼女の性格は一変してしまうのである。
ままごと遊びの主人公は、どこかへ行ってしまう。
性格が変わるといったものではなくして、彼女自身の場を変えてしまうのだ。
遊びの世界の主人公が、母親のふところにその場を転換せしめてしまう。
即ち、母親と自分という関係において自分を意識した時にはもはや、ままごと遊びの主催者ではなくなってしまい、
母親のふところに、即ち母親の世界の一隅に、だだっ子として位置づけられてしまう。

本能的にはっきり自覚しているかどうか、それはわからない。
しかし、言葉、態度、行動は一変してしまう。
大人びた言葉は、一言もはかないし、大人の真似ごとの挨拶でもって母親を迎えたりは絶対にしない。
ままごと遊びの時には、玄関に手をつき、お客を招じ入れる格好を何回も何回も繰り返しておきながら、
それはもう、けろりと忘れてしまっている。
人形にもったいぶってミルクを飲ませ、あやしたり寝かせたりした事も忘れてしまって、母親の胸に飛びつく。
こんな全人間的な変革が瞬時に行われる。

480:考える名無しさん
14/12/26 06:29:26.68 0.net
このような変革の為に、子供は何らの苦労もしないらしく、又そんなに変革した事も意識しないようだ。
もしも大人が、大人の世界で、こんな大きな性格変化をしたら、いったいどんなものだろう。

狂人呼ばわりされても仕方がないだろう。

子供たちは、別に狂人ではない。こんなに鮮やかな世界の転回をやすやすとやってのけ、後はまことに春風駘蕩たるものである。

実に天才の名にふさわしい。

481:考える名無しさん
15/01/03 18:23:09.02 0.net
「春雨の曲 第7稿 第2章 旅路の原型」より 第十五識の文例(其の二)

「ならの小川」
外国語学部二年 女子学生

風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける

風がそよそよと楢の葉をそよがす音がする。
そんな、ならの小川のあたりの夕暮れは、涼しくて、もうすっかり秋らしいのであるが、
その小川で行われている六月ばらいの行事だけが、今日がまだ夏のうちである証拠なのだなあ。
と歌の意味は大体このようなものである。

482:考える名無しさん
15/01/03 18:33:37.39 0.net
「みそぎ」は夏の行事であり、川原で身についたけがれや罪をはらい除く神事で、
ここは六月晦日に行われる「六月ばらい」であって、それをもって「夏のしるし」と確認している。
六月晦日は暦の上では夏の最後の日。すでに秋との交替は始まっている。
現にまわりの情景には、もう夏らしきものはなく、上の句がそれを語っている。
肌に感じる風にしろ、「風にそよぐ楢」の葉の音にしろ、小川の流れにしろ、ましてや、夕暮れ時はすべて涼気を感じさせるもの、
秋である。

483:考える名無しさん
15/01/03 18:41:44.97 0.net
作者、藤原家隆がこの歌を詠んだのは、今からおよそ八百年余りも昔のこと、
当時の人々は、この行事をどのように感じていたのであろうか。
凌ぎやすい初秋を待ちこがれている人々は、早くから秋の気配をさがし求めていたであろうが、
この行事を切り目に、いよいよ明日からは秋だと思う、そのよろこびと共に、
かえって去って行く夏にも何かなごり惜しいものを感じたのではないだろうか。
生理的に感ずる季節感を大切にする一方、暦による精神的な季節感によって強く支配されてもいたようである。
自然界にみる四季の変化に敏感ではあったが、ふんぎりをつけるのは、やはり暦によったのだった。

484:考える名無しさん
15/01/03 18:54:13.13 0.net
さて、長々と歌についての説明を書いたが、何故、私がこの歌を選んだかというと、それは歌の中にある「ならの小川」にある。
この「ならの小川」というのは、実は上賀茂神社の境内を流れている「御手洗川」のことである。
それを私は、今年のお正月まで全く知らずにいた。
元旦に久しぶりに小倉百人一首の本を見ていて、初めて気がついたのである。
山口県から京都へ来て、ここ、上賀茂に下宿して、毎日、神社のそばを通り、その川を渡って大学へ通っていたのである。
今までは何とも思っていなかった、この一つの歌が非常に身近に感じられた。
そして、また京都の街の歴史の古さを一層深く感じさせられたのである。
今は冬、寒々とした上賀茂神社の境内を流れているこの小川は、
今もまだ一点のくもりもない程に澄き通り、
私の身も心もすべて洗い流してくれそうである。

485:考える名無しさん
15/01/03 19:14:23.67 0.net
わたしが確認の旅路の第十二識にいた時、或る日不思議な情景を見た。
わたしの部屋のわたしの机の上に非常に大勢(千人位)の小さな人が真っ四角に整列している。
と見ると、其のn人が合一して少し大きな人になった。人数は1/nに減った。
この合一を繰り返して見る見る減って行き、到々大分大きな一人の人になって消えた。

わたしは第十五識の個人の主宰者はワンサイクルτ₁-α₁だが、
第十四識に下ると30サイクルズの合議制となり、
第十三識になれば30²サイクルズの合議制となり……
第七識上層になれば30⁸サイクルズの合議できまるようになっていると思う。

第十五識、第十四識、第十三識を見ると如何にもそれがよくわかる。

486:考える名無しさん
15/01/03 19:30:44.22 0.net
※第十三識で30の2乗、第七識上層で30の8乗です。失礼しました。

第十五識の第二例は一昨年の作文であって、此の人だけはもう自覚の旅路に入っている。

第十五識は二例ともそれでよいが、第十四識は口数が多すぎる。
第十三識は其の上理屈が入り、それにくど過ぎる。

第十五識を天(あめ)なるこころだけとすると、第十四識、第十三識と、段々土(つち)の要素が餘計入って行くのである。

第十二識-第十五識(其の一)を並べて見ると、こう云う感じである。

第十一識と第十二識との境界上の世界に「悟」の実がむすぶと、
造化はその種を第十二識と云う畑に蒔き、芽が出れば第十三識に移して育て、これを時機をみて第十四識に移して花を開かせる。
その香りと云うエキスだけを取り出したのが第十五識である。

第十五識の第二文例は、認識の旅路を終えて一度ふるさとの生命の源流で浴し、それから自覚の旅路についたのだろう。
この水浴の印象を御手洗川の上に再現したのだろう。
実に名文であって、少しも人工の跡がない。

(帰郷してみて、第十二識以上は皆よく書けている。既に個性が見られる。
第十五識の第二文例は絶品である。人の世に於ける文の最高峰であろう。)

487:考える名無しさん
15/01/03 19:46:53.22 0.net
「春雨の曲 第7稿 第5章 無明、生死、染色体」より 最終段落

フリーセックス時代は真に恐るべきものなのであって、
且つてアテネはこれによって繁栄の絶頂から滅亡まで僅か百五十年位で亡びたのである。
日本の現状はそれよりも更にひどいと思うから、此の儘推移すれば百二十年位で日本は名も知らぬ土人の島と化し終わるであろう。
学生の自由作文によって見れば、今でも日本人の半ばは、実質的には異邦人である。
日本民族の日本民族たる所以のものは女性が主になって守るべきである。
造化は女性をそう造


488:っているのだと云う証拠として、染色体のお話をしたのである。 女性が率先してフリーセックス時代を謳歌するようになっては日本はもうおしまいである。 今年の自由作文にお嫁があるだろうかと云って心配していた男の学生がいて作文は名文であった。同感である。     ―― 完 ――



489:考える名無しさん
15/03/05 23:28:46.10
建物の中にこもりきりではなくて、

自然を散歩しながら学問をすることが出来る大学はどこにあるのですか?

490:考える名無しさん
15/03/16 05:04:28.46
授業中に、ケータイ、スマホをいじくって、テストは過去問のコピーを暗記

そんな学生と一緒にいると学問をする心が死んでしまいます。

自然を歩きながら、ホタルを見ながら学問をさせてくれる大学はどこにあるのですか?

491:考える名無しさん
15/03/22 09:36:37.50 0.net
保守

492:考える名無しさん
15/04/24 21:21:14.53 0.net
岡潔聴雨録bot
URLリンク(twitter.com)

493:考える名無しさん
15/06/11 09:11:41.22 0.net
人から聞いた話

ある若い数学者が、学会で講演をして終了後の質疑応答のとき、最前列で聴いていた岡先生がスックと立ち上がって講演者を指差し

「君の研究は180度方向が違っている、正しい方向は••••」

という。みんながハラハラしながら聞いていると

「あっちだー」

と振り返って後ろの出口を指差したという。

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