岡潔at PHILO
岡潔 - 暇つぶし2ch400:考える名無しさん
14/10/29 19:56:40.31 0.net
アンカー消してるのはサーバーエラーを防ぐため。>>33ってあるのは消し忘れ。

岡の時代は旧制中学5年、旧制高校3年、旧帝国大学3年で最短23歳まで学生でいる必要があった。
四年制大学の場合は最短22歳で終了だから、いかに滅茶苦茶な教育に変わってしまっているかがわかる。

20歳頃に人間が一通り出来上がるのに、教養教育については現在では1年しかやらない大学が増えているため、
こうなったら思い切って既存の教養教育を半期に圧縮・削減し、残り半期は岡潔学のみにしたらいいと思う。

岡自身、講義は長時間やらず、1回の授業時間につき最低でも10分以上余らせる性格だったし(最初の5分しか授業しない日もあった)、
京大教育学部生指導時は三角法を15回の講義のうち3回しか行わなかった(しかも3日間の集中講義にしてしまった)。

ただし、現在では出席しない場合が考えられるので欠席の度に400字以上の作文を宿題にする。

旧制高校期にあたる教養教育期は時間の余裕を持つことが何よりも重要であると岡も言っているため、
岡潔学も10回で終わらせ、後は週休7日制なり自動車学校に行くなりさせた方がいい。
岡によるとアルバイトはあまり推奨しないとのこと。

本当は高校でも5教科以外の授業時間を少し流用して岡潔学をやった方が良いと思うが、
高校のカリキュラム編成はある意味大学以上に難しいため、ここでは触れない。

401:考える名無しさん
14/11/02 02:52:55.83 0.net
猫ひろし!
猫ひろし!
猫ひろし!
岡潔!
猫ひろし!
猫ひろし!
猫ひろし!

402:スネ夫
14/11/02 20:28:57.50 0.net
技術→7識
えぐい音・編曲・高速爆演→8識
ピッチ・ブレンド・クリアさ→9識
品格・まとまり・基礎基本→10識

403:考える名無しさん
14/11/02 20:38:43.53 0.net
「春雨の曲 第7稿 第2章 旅路の原型」より 第八識の文例

「おなかのすいた世界」
外国語学部二年 女子学生

「おきさき様、人民はパンがなくて飢えております。」「なぜお菓子を食べないのかしら。」
これは仏ルイ王朝の栄華をきわめて、革命


404:のギロチンで生涯を終えることになったマリーアントワネットの逸話だとされています。 この話を思い出したのは、スリランカ(セイロン)の女性首相であるバンダラナイケさんが 「ケーキづくりはやめて、パン増産につとめるべきである。」という命令を国中のパン製造業者に出したからです。 この国の慢性的な食糧不足は、今年はとりわけ深刻で、首相みずからが畑でクワをふるって家庭菜園には国が補助金を出しているということです。 「山イモや木の実を食べよう」と政府が訴えているということを聞いて、思わず戦時中の日本のことを連想してしまいました。



405:考える名無しさん
14/11/02 20:52:09.47 0.net
お隣りのインドも二年つづきの大干ばつになりそうだし、バングラディシュでは食糧不足のところに国土の四分の一が洪水にあって、
米作半減とまでいわれて、天の無情に泣いているということです。

人々は木の葉まで食べて飢えをしのいでいるというけれども、六百万人に今、刻一刻と餓死が迫っているそうで、
家畜はバタバタと倒れて、象の群れは水を求めて餓死し砂漠で大移動をはじめたといわれています。

この世界的な食糧不足の原因はというと、異常気象、人口増加などいろいろなことが言われていますが、
中には地球がゆっくりと氷河期にはいりつつあるためだ、などというような不気味な説までがあげられています。
氷河期が来るというようなわけではなくて、これは永い冬、そして冷たい夏の傾向が強くなるだろうという仮説なんだそうです。

406:考える名無しさん
14/11/02 21:03:57.19 0.net
とにかく、今年の世界の米作はというと、東南アジアの軒並みな減産がひびいて昨年の生産高の5%減というところになっていて、
ソ連の小麦は大凶作、そして中国の米作も雨不足でもって、この十年来はじめて前年の水準を下回るともいわれています。
食べすぎ、飲みすぎに悩んでいる私たち日本人が現在増えていると聞くのに、
海の外では人類の三分の二が毎年のように飢えに苦しんでいるということです。

日本人はこのような世界の現状を知っているのだろうか。
もっと現実の世界を見極めるべきではないだろうか。

407:考える名無しさん
14/11/02 21:17:07.23 0.net
此の作文の筆者は第八識にいる。
何故かと云うと、此の作文は世界の食糧不足のことを、女性らしく気の毒だと云う動機で書いたのであって、
だからこの作文が描かれている世界は第七識上層である。
かき方は実感がこもっている。
また結びの言葉は「現実の世界を見極めるべきだ」と云うのであるが、これは認識せよと云うことである。
実感がこもっているのも一々認識してかいているからである。認識するには一つ上の世界にいなければならない。
だから筆者は低くとも第八識にいる。
また若し第九識にいるならば「認識せよ」で文を終わる筈がない。だから第八識にいるのである。

前の第七識上層の文例と比較すると、云うことがハッキリしてるでしょう。これが認識です。

408:考える名無しさん
14/11/07 19:57:19.17 0.net
「春雨の曲 第7稿 第2章 旅路の原型」より 第九識の文例

「日本人の原点」
外国語学部二年 女子学生

約二千年を通じて出来あがった日本文化は外来技術の複雑なからみあいの上につくられたものである。
私たちがいま毎日生きている日常生活の場において私たちが使っている衣服、家具、住居、公共施設から文字、食事に至るまでは
ほとんどすべてが中国、ヨーロッパ、アメリカの技術を利用したものばかりである。
まさに〈雑種文化〉とよぶのにふさわしい。

409:考える名無しさん
14/11/07 20:04:05.75 0.net
しかし、私たちが取り入れ、使っているのはあくまで技術なのである。
文化のかたちとしては中国風、ヨーロッパ風、アメリカ風なのかもしれないが、
かたちの内容―すなわち私たち自身はどんな時代においても、あくまで日本人であった。

これは思想的状況においても同じではないだろうか。
日本人は技術とともに紹介される中国思想、仏教思想、ヨーロッパ思想、アメリカ思想を
すべて生きるための技術、考えるための技術としてのみ取り上げ、思想のかたちを身につけた。
技術は生きる方便であり、かたちは存在の形式でしかなかった。
新しい技術をつぎつぎ取り入れながら技術を使う主体としての人間、
日本人ほど歴史的に単一性を守り続けてきた民族はめずらしい。

410:考える名無しさん
14/11/07 20:16:59.46 0.net
ヨーロッパ人は、おのおの他民族の血をまじえている。だから国境を越えれば多民族の中にまぎれ込んでしまう。
いくつもの国語をもつ多民族国家もあるし、混血は日常茶飯事である。
だから政治亡命も可能だし、国境を越える者も迎える者も、国境や民族をそれほど神経質に考えない。
しかし、おのおのの文化は芸術から生活に至るまで実に厳と存在する。
政治的に犯されても我慢できるが、文化的に犯されることは許されない。

この文化と民族の矛盾した二重構造をとおして見ないと、私たちは私たち自身を理解することができない。
文化の雑種性だけ取り出すのもまちがいだし、民族の単一性だけを強調しても日本人を本当にとらえたことにはならない。
そして文化と民族の矛盾した二重構造をつなげるものが日本人の技術主義なのである。
技術を軸として、雑多な文化が取り入れられ、それが単一な民族によって操作される。

411:考える名無しさん
14/11/07 20:26:26.31 0.net
しかし、技術は本質的に情緒や感覚を否定するものであり、人間の本質を根本的にゆり動かす要素をもっている。
技術を使うのは、人間という主体であり、その主体によって営まれるのが文化である。
ということは、これらは相互に一本の線でつながり、技術が雑種の文化と単一の民族を結び、両者のバランスをとるということは成り立たない。

日本人の技術に対する感覚は、基本的に農耕生活から生まれたもので、受身の技術である。
とらえる技術ではなく、こなす技術であり、闘う技術ではなく、利用する技術である。

しかし、最も重要なことは地理的・生産的諸条件の中にあって、
それらの諸条件を生きぬいた日本人自身、技術を使う主体のあり方ではないだろうか。
日本人は外国からさまざまな技術を取り入れ、一つの時代から一つの時代へ一八〇度の転換を行ってきた。
だが、日本人という主体は少しも変わっていない。

412:考える名無しさん
14/11/07 20:40:03.83 0.net
日本人はしぶとい日本的主体性をもっていて、
新しいものに命をかけようとする真剣さもなければ、古いものを命がけで守ろうとする情熱もない。
新しいもの、古いものは自分の命ではなく、自分はすでに日本人として明白に生きている……あらためて命を問い直す必要はない。
これが日本人の心の底に定着している生き方ではないだろうか。
どんなに足を踏みはずしても、右から左へ、左から右へ急旋回しても、日本人であることへのある種の安心感があるのである。

すなわち、日本人の原点は技術でも思想でもなく、ごく単純な事実、
自分はなによりも日本人であり、日本人以外の何ものでもない、という点であろう。
そしてもう少しつけ加えるなら日本人の原点は日本人の体質の中に、そして体質を形成している意識の中に、
意識を具体的に示すイメージの展開に見られるのである。

413:考える名無しさん
14/11/07 20:47:04.10 0.net
作文はここまでです。

これは日本人と云うもの(第七識上層)を対象にしてよく其の本質を把んでいます。そしてこう云っています。

「日本人の原点はごく単純な事実、自分は何よりも日本人であり、日本人以外の何ものでもないと云う点であろう」

名言です。この文章は自覚の典型です。

414:考える名無しさん
14/11/07 21:20:22.16 0.net
然し第十識ではありません。若し第十識だったら本質を確認します
(第七識上層で体験即ち初覚、第八識で認識、第九識で自覚、第十識で自覚の確認即ち自覚の捨そして天上界の体験即ち初覚)。
認識者がですが、日本人とは云わず語らずの中に
「真情」だけがエッセンシャル、(最大の不�


415:ヵィである技術を始めとして)他は皆トゥリビアルと思っている人達のことであるとわかります。 ここでは前の文章及び此の文章を筆者がどんな風な書き方で書くと、こう云う文章が現像(写真の言葉)されるかと云うその仕方を云ったのですが、 そうして現像された絵を見ますと、前者は第十識の遠景、これは中景になっています。 この見分け方の方、本当は速いのですが、みなさんは遠景、中景が充分よくわかっておいでにならないかも知れませんから、 逆にこの好個の二例によって遠景、中景とはどう云う意味かを知って下さい。 第八識から第九識に行くには認識(遠景的なもの――カス)を捨てればよいのです。 第九識から第十識に行くには自覚(中景的なもの)を捨てればよいのです。 今現にそこにおれば、自覚なんかいらないでしょう。 認識が何故カスかと云えば、言葉で一々あれは富士山だと云っているようなものだからです。 エッセンシャルは生きて流れていますから言葉では云えません。 川床は云えても流れそのものは云えないようなものです。 (帰郷してみて。これはまぎれもなく感受(α₁⁰の分身)の芽生えである。)



416:考える名無しさん
14/11/14 22:05:19.93 0.net
「春雨の曲 第7稿 第2章 旅路の原型」より 第十識の文例

「最大の愛」
経済学部一年 男子学生

人類を救うものは、お金でも宗教でもない。それは愛である。ぼくは其の愛を母に見た。

三歳の時母はぼくの家に来た。つまり義母である。
最初に母に言った言葉は、今でもよく覚えているが、おふろに入る前にぼくの裸に触った時の冷たいと言った言葉であった。
母の手はあまりにも冷た過ぎた。
ある日小学校から帰ってくると母は泣いていた。
どうやら父と喧嘩をしたらしかった。其の原因がわからないまゝ時は流れた。
両親の喧嘩は母が父と結婚した三日目からであった。時には毎日のようにやっていたこともあった。

417:考える名無しさん
14/11/14 22:25:49.75 0.net
一度大きな喧嘩をしたことがあった。ぼくが学校から帰ると母は頭に手をのせていた。
其の時の白い包帯がいやに不気味に見えた。
母はくやしそうと言うか、寂しそうのほうがあたっているかもしれないが、そんな顔をして泣いていた。
ぼくは母のひざの上にひかれた。ぼくには暴力をふるっている父のほうが絶対悪いと思った。
しかし以前からのこんなにもひどい喧嘩の理由はぼくには全くわからなかった。
それはあまりの単純さと非人間的な所にあるのだったから、ぼくたち三人兄弟(姉二人)もきっとそうだったに違いないからだ。
父ばかりが悪かったのではない。ぼくも母にはずいぶん迷惑をかけた。すべての面であった。
今から思えばどうしてあんなにまで母に対して、種々言わねばならなかったのか自分でも不思議でたまらない。

今は特に母に対しては父もぼくも深く反省しなければいけない。
ぼくは反省し母にはどのように御詫びしたらよいか、たいへん悩んでいる。
父は反省などしたことがない。
今でも喧嘩は続いている。もう既に十七年になるのに、父は自分勝手なことばかりしている。

我が家は農業だから特に母は父を仕事に出した後仕事に追われる毎日だった。町にもほとんど母は出られなかった。
たまに外出する時は母はいつも僕を連れて歩いた。
だからこそ餘計に母の愛がぼくのからだに伝わった。言葉ではなく膚と膚のふれ合いがあった。
でも子供を連れると用事もそれだけ多くなるのに!
母は自分の汚名をぼくにわからせたかったのだ、きっと心では泣いていたのだ。

418:考える名無しさん
14/11/14 22:52:52.70 0.net
何故こんなにしてまでも母は離婚しなかったのか。母はまず第一に子供のことを考えたからであった。
まだ僕は小さかったからせめて一人前になるまではと考えた。
これが愛と云うものである。
親子だからと人は言うかもしれないが実の母でもこうは出来なか


419:った。 今の母は実の母以上の最高の母である。 キッドと云う映画の中でチャップリンが言いたかったことは、実の親でなくともりっぱに親以上になることが出来るのだ、がテーマであった。 ぼくも其の通りだと思う。 愛は決して楽しいものではない。 愛は非常な苦しみや、痛みを必ず伴う。 其れのない愛は愛ではない。 今の世の中は言葉で氾濫し過ぎている。愛は報酬を望まないの言葉がぴったりである。



420:考える名無しさん
14/11/14 23:13:59.33 0.net
最も美しい愛を母に見た。これが人類を救う最良の策だと思う。これしかないと思う。
そんな家庭にもかゝわらず、小さく弱い人間であるぼくだけど、ここまで育ててくれた母、根本は母の愛にあった。
母は今ぼくを頼りにしている。
思えば母に初めて出会ったあの日の冷たい手というものが口では言えないくらいの愛を暗示していたのかもしれない。

母と云う人を又其の愛を小さいながら何かの形で残したかった。それだけである。

421:考える名無しさん
14/11/21 05:42:03.36 0.net
「春雨の曲 第7稿 第2章 旅路の原型」より 第十一識の文例

「詩の心と絵の心」
経済学部一年 女子学生

詩は言うまでもなく言葉の芸術である。
私はここで現代詩だけでなく、和歌や俳句さらに散文にひそむ広い意味での「詩の心」を考えている。
ところで絵はデッサンと色彩の芸術である。
だから詩と絵とはまったく別の世界といっていいが、しかし絵のなかにも「詩の心」を感ずる場合はいくらでもあるだろう。
画家自身もそうだ。言葉は直接使わないにしても、心の中には必ず「つぶやき」というものをもっているに違いない。
自分にはこれこれの感情、あるいは思想を訴えたいことを心の中で「つぶやいて」いる訳で、
それは言葉とはならず、色彩やデッサンとなってあらわれるけれど、
私にはその「つぶやき」を詩の心と呼びたいのである。

422:考える名無しさん
14/11/21 06:01:53.87 0.net
私はいま与謝蕪村のことを思い出している。
芭蕉とならんで江戸時代の有名な俳人だが、両者の間には八十九年ほどの開きがある。
時代の差だけでなく、芭蕉と蕪村の作品のあいだにも、本質的と言ってもいいほどの風格の差がある。
蕪村は俳人であるとともに画家であり、そのどちらにも流れている「詩の心」を語りたい。
蕪村の代表作「普我追悼曲」と題する一編で、
蕪村が貧しい漂泊の旅を続けていた青年時代に親しかった早見普我の死を悼んで作った作品である。
これは俳句ではない。しかし彼の名を伏せてこのまま出したら、西欧の詩の影響を受けた明治の新体詩と思う人が多いだろう。
今から二百数十年も前に、こんな新しい作品を生んだのは不思議なことだ。
こうした作品はこれ一編だけだが、蕪村の感覚がどんなにみずみずしく、また豊かで多面的な才能を持っていたかがわかるであろう。
芭蕉の句を読んだ人は、そこに求道の強いきびしい生き方を真っ先に感ずるに違いない。また言葉の洗練度や風格においても実に高雅である。
蕪村は一生の間芭蕉を尊敬していたが、彼の句を見ると、はるかに「遊び」が多く、気軽に即興的に歌い捨てたと言ったものが多い。
こうした境地はむろん芭蕉にもあるけれど、蕪村になると、「俗」の中にのんびりとあぐらをかいたというふうで、
そこに苦しさとか、芸術上の権威めいたものは感じさせない。
「とかく句は磊落なるを好しとす」(新花摘)と自分で言っているように、句の態度は芭蕉に比べると、ずっとざっくばらんである。

423:考える名無しさん
14/11/21 06:27:39.12 0.net
蕪村は生きていたころ、俳人としてより画家として有名であったと云われるが、しかし私は俳画のなかの代表作をあげてみたい。
「又平」という作品である。この絵の上方に、「又平に逢うや御室の花ざかり」という一句がしるしてある。
京都の御室(おむろ)の桜は有名だが、その花見で酒に酔いながらふらふら歩いているうちに、又平に出会ったという平凡な句だが、
この場合は句と絵とが実に見事にとけあっている。詩の心と絵の心のざっくばらんなつきあいと言ってもいいだろう。
これが蕪村のおもしろさである。赤い頭巾をずれ落ちそうにかぶり、片肌をぬいで右足をあげ、実に人が好さそうに、気持ち良く酔った姿である。
酒を入れたひょうたんは道の上にころがっている。
赤頭巾の赤い色と衣服の黒さと、どちらも単純な色彩だが、それがうまく調和し、また又平の酔い姿と、ひょうたんの位地もほどよくバランスが取れている。
即興的に歌い、即興的に描いたものだが、俳画の特徴を典型的に示した作品である。
この即興にはむろん画家としての年期が入っている。軽妙でなんとなくハイカラである。そして気品もある。
決して悪ふざけてはいない。しかも、これ程誰にでも親しみ深く訴えかける絵は少ないだろう。
つまり「人なつこさ」がここにもあるということだ。

424:考える名無しさん
14/11/21 06:59:30.26 0.net
もう一つ私が心ひかれる、「雪夜万家」と題する絵がある。場所は京都であろう。
背景の山々も人家の屋根も、一面雪におおわれて真っ白である。
人家の所々に灯が見える。空は一面の暗黒で、そこから雪が降って来る有様が描かれている。
此の空の描き方が実に素晴らしい。水墨を大胆にたらしこみ、暗黒の空の重苦しい感じを深く出している。
全体として沈んだような、憂鬱な作品だがここに蕪村の見逃しえない特徴がある。
彼の句は気軽で即興的だと云ったが、其の底に生涯に渡って憂鬱な詩心を持続させたことを忘れてはなるまい。
父母の名も家柄も不明、早く両親と財産を失い、十八~九才のころから江戸に出て画と俳句を学んだと推測されているだけである。
若い時から放浪者であった。
だからこそ萩原朔太郎が「郷愁の詩人」と呼んだように、自分の故郷への思慕を常に歌った人であった。
放浪しながら彼は幻のふるさとを探し求めていたと言ってよかろう。
こうした心情を念頭に置いてこの絵をみると、どこかに底知れぬ寂しさの漂っていることに気付く。
家々は深い雪の下にひっそりとしている。所々に灯は見えるが、それが一層雪の夜更けの寂しさを云えているようだ。
雪の夜道をおそらく旅人としての蕪村はあてもなくさまよい歩いたのかもしれない。
実際の写生というよりも、そのときの孤独な心の告白といったほうが良さそうだ。
同時に、同じ心からさきの「又平」のような、「賑やか」もあらわれたのではなかろうか。
「冬の部」の中に、「雪夜万家」に関係のあるような句がある。
その俳句がこの絵に直接関係があるかどうかわからないが、
この句の心を、あとで描いたのかもしれないし、あるいは逆に絵のあとで、ふとうかんだ一句かもしれない。

425:考える名無しさん
14/11/24 14:21:11.22 0.net
「春雨の曲 第7稿 第2章 旅路の原型」より 第十二識の文例

「御所人形哀話」
法学部一年 女子学生

京都には現在五十余の尼寺が各地に散在していると聞きます。
そして、誰もが想像している通り、そこで暮らす尼僧たちは俗世がどう変わろうと、喧噪を離れた小さな世界の中で、
朝な夕なに経を読み、庭の掃除に精出し、托鉢(たくはつ)に励むという、つつましやかな生活を几帳面に守り通しているのです。
この寂寥とした雰囲気の中に潜む尼僧の生活のすがすがしさに魅かれて京の尼寺を訪れる人は後を絶


426:ちません。 しかし私たちの尼僧に対する想像が確かであったと納得した後で、 私たちは、その境内を流れる清楚な空気の中に、一条の悲しさを感じてしまうのです。 特にそれが尼寺の中でも「比丘尼御所」と呼ばれる門跡寺であったならば、その感慨もひとしおのように思われます。 一体この悲しさは何なのでしょうか。 ほかの尼寺に比べ一段と格式が高いように思われる比丘尼御所とは、どのような物語を秘めた尼寺なのでしょうか。



427:考える名無しさん
14/11/24 14:36:10.68 0.net
足利幕府以来明治維新に至るまで、将軍家は一貫して皇位継承者以外の皇族はすべて寺に入れるという強行政策を採って来ましたから、
皇女たちは生まれながらにして全員尼僧になるという悲劇の宿命を背負わされていたのです。
この将軍家の措置により御所のある京都には皇女たちの入寺だけを目的とした尼寺が必要となりました。
一般庶民の信仰のための寺院とは区別され、特別の意味を持って建立(こんりゅう)された寺が、今も比丘尼御所と呼ばれる尼寺だったのです。
昔の話ですが、皇室など高貴な身分の家では、自分の子供を手許に置いて育てるということがなかったらしいのです。
その意味では育つ場所が御所であろうと尼寺であろうと、皇女たちには同じことであったかもしれません。
彼女たちは何人もの付き人が付き、大袈裟に言うと、箸のあげおろしまであれやこれやと世話を焼いてもらっていたのですから、
入寺した皇女たちが生活に困るというようなことはなかったはずと考えられます。

428:考える名無しさん
14/11/24 14:51:48.08 0.net
しかし尼になるということは、女を捨てることです。
皇女たちは、女として成長する以前に、最早女を捨てなければならない運命だったのです。
彼女等は悟りを開いて、あるいは世の無常なるを知って、尼僧の道を歩き始めたわけではなかったのです。
生活の苦労がないということは、逆に見れば生きる喜びがないということです。
彼女たちには、「なぜ自分は今ここにいるのか、これから自分はどうなっていくだろう?」
という疑問を持つ餘裕さえ与えられていなかったのではないでしょうか。
美しく仕上げられているにもかかわらず、どこかに寂しさをたたえた庭園や薄暗い回廊などといった小さな世界だけが、
彼女たちにゆるされた生涯を生きる場所だったのです。
比丘尼御所の澄んだ空気の中に、ある種の気怠さのようなものが潜んでいるとしたら、
きっとそれは皇女たちがフッともらしたであろう溜息のせいかもしれません。
どんなに世の中にきらびやかな物があろうとも、入寺した皇女たちにとって、それは手の届かない別世界のものだったのです。
例えそれが四方を囲む一枚の薄い土壁によって隔てられただけのものであっても。

429:考える名無しさん
14/11/24 15:00:35.85 0.net
では皇女たちには全く楽しみがなかったのでしょうか。いいえ、そうではありません。
彼女たちには、あるささやかな楽しみがあったのです。
それは、幼い皇女のために雛祭りの度に御所から送られてくる人形でした。
幼くして仏門に入らなければならなかった娘たちを忍んで、彼女等の親は可憐な人形を贈ったのです。
これが御所人形といわれるもので、江戸時代はこのような贈り物が頻繁に行われていたようです。
親たちは人形を贈るということに、娘たちに対する一種の「罪滅ぼし」の念を込めていたのかもしれません。

430:考える名無しさん
14/11/24 15:08:10.93 0.net
贈られて来た人形たちは、あるときは皇女の愛くるしい顔にまねて、あるときは遊び相手として幼い男子の顔にまねて作られていたのです。
周囲が大人ばかりの尼寺にあって、この人形たちが皇女等にとって真の友達になっていったのは言うまでもないことです。

ほかに楽しみのない閉ざされた小世界の中にあって、皇女たちの人形に対する愛情は時として異常と思われるものがあったそうです。
朝起きてから夜寝るまで、彼女たちは片時もこの人形を放すことなく、あたかも己の分身であるかのように慈しんだのです。

431:考える名無しさん
14/11/24 15:18:28.02 0.net
人形と話をしたり、着物を着替えさせたりということはたわいないままごとといえばそれまでですが、
生涯を通して人形を人形としてではなく、命ある人間のようにして遊ばねばならなかったという話に痛切な「哀」を感じてしまうのです。
人形たちが愛らしければ愛らしいほど、手垢ですすけた古い御所人形の顔から、皇女たちの孤独を思ってしまうのです。

432:考える名無しさん
14/11/24 15:47:06.83 0.net
天上界の三識を比べてみますと、第十識は天上界の体験即ち初覚、第十一識は認識、第十二識は自覚です。
初覚は脊髄神経系を使い、認識は脳神経系を使い、自覚と確認とは共に植物神経系を使うのですが、
自覚は第十一識と第十二識との境界上の世界から第十識を見、確認は第十二識から第十識を見るのです。
前者を「悟」と云い後者を「覚」と云います。
向上するには得たる所を捨てることです。
初覚を捨てるとは認識したもの以外はまだ知らぬとするのです。
からだでわかり、からだで憶え込ませたものを皆捨てるのです。

初覚を捨て、認識を捨て、悟を捨てると実相界(第十三識以上)へ行けます。

此の女性の文は第十一識と第十二識との境界上の世界―これが日本文化の世界ですが、
ここに籠って書いたものです。春の泉の揮々と湧き出て流れてやまぬ趣があります。
一寸平家物語のようです。楽器ならば琵琶。

(帰郷して、地上界は物質的、天上界は眼が二重の薄膜で蔽われている。実相界は尚一重の薄膜、無相界即ち第十六識以上とは相が無いのではない。
相は眼の曇りであると知って、眼をぬぐってじかに見ることである。)

433:考える名無しさん
14/11/28 21:53:34.27 0.net
「岡潔集 第1巻」より 対話/全か無か(石原慎太郎)

石原:私は科学というものが非常に幼稚なものだと常々思ってましたが、
現代数学のああいうものの捕え方、考え方は、ある意味では宗教の一番かんじんなところに触れていると思いました。

岡:地上(第七識上層)に数学があって法界(第九識)にその実体があるからです。
実体を見て(第十識)私たち日本人は胡蘭成氏の言う悟り識でやっているのですが、
西洋人は潜在識でやるから、影しか見えない。
それで複雑なものを取り扱うほど偉いと思うらしい。
ところが、ものの複雑さの処理法における、人の知の限界は、きわめて低い。
それで次々に行き詰まらせていくのです。
何度もそうしながら生き延びてきたのですが、今度こそ全面的に行き詰まらせてしまったらしい。
もう西洋人だけではやれないでしょう。
西洋の文化は、インスピレーション型であり一年生の草花のように一度花咲けばそれきりなのです。
西洋文化の季節はもう過ぎたのです。

434:考える名無しさん
14/11/28 22:09:02.09 0.net
石原:そうでしょうね。どうもそのときに東洋人というのは、
非常に行き詰まった西洋の合理主義、科学全般に大きな示唆を与え得るといわれておりますが、
日本人の場合には、ついにいまや西洋主義の私生児みたいになってしまっておりませんか。

岡:ほんとうですよ。西洋文明とはどういうものかを明治のころまでの日本人はよく知ってたけど、
その第一感を百年の間にけろっと忘れてしまったらしい。
どうしてこんなことになるんだろうと思って考えました。
日本はこれまで有形の文化に接したことが四回あります。
支那の文化。もうちょっと遅れてインド文化。それからヨーロッパ文化。そしてアメリカ文化。
日本の文化は無形の文化です。四度とも、初めて接した有形の文化をいともやすやすと取り入れている。
これは、各人がきわめて的確にその中核を把握することができるからです。これが情操判断(情的純粋直観)です。
日本人は情操判断がよくできるから、取り入れるときはよいのですが、しばらくその文化のなかにいるうちに、
すっかりだらしがなくなってまねのためのまねしかしなくなる。
これはなぜかといいますと、西洋の文明は内容は感情です。そ�


435:フ感情に溺れてしまう。 そうしたら、もう情操は働かないのです。なぜかというと、感情を入れると純粋な情操ではなくなるからです。 感情の色どりというのは、必ずなにがしかの意味で自分というものを入れるから、強い色どりになる。 だから、それにひかれるわけです。 しかし、純粋な情操は自分というものの入れられないものです。 だから感情の水のなかでは情操判断は働かないのです。



436:考える名無しさん
14/11/28 22:17:10.59 0.net
岡:理性といってますが、感情のはいらんような理性判断をやってごらんなさい。
できません。これも広義の感情判断です。
ところで欧米人は自分の感情のなかにいるのですけれど、日本人はたとえばいまはアメリカ人の感情のなかにいるのです。
アメリカ生まれのマイホーム主義に迷い込んでいるのです。
だからいちいちまねをする以外には身動きもできないのです。

石原:そういう一方的に受け身な文明の態度というものは、どうも日本人の習慣になってしまいましたね。

岡:だから、日本人は男のようなもので、有形の文化は女のようなもので、すぐ女に溺れてしまうのです。
少し慎まなければいけませんね。今度こそはね。

437:考える名無しさん
14/11/28 22:35:55.83 0.net
岡:石原さんは、近ごろ、生死の問題を考えておられますね。

石原:考えますね。

岡:人からのヒントはおきらいですか。

石原:そんなことないですよ。

岡:これ、ヒントじゃありません。あなたは当然、信長がお好きです。
それだったら、信長の死生観をご存知でしょう。
信長はいつも先頭に立って“死ねや、死ねや”といって攻めたのです。
そうやられたら相手はかなわぬ。
だから、自分は最初からNothingなのです。残っているのは、Allかどうかということだけなのです。
そんなやり方でしたね。

石原:私自身の卑俗な話になりますが、今年、選挙に出ましたが(1968年参院選、初陣で当選)、
その準備にかかったときに、生まれて初めて大病をしました。

岡:肝炎ですか。

石原:はい。

438:考える名無しさん
14/11/28 22:44:58.22 0.net
石原:大病をして、遅すぎる変化が来ました。
政治に参加するには、選挙という煩わしい方法をとらなくてはならないでしょう。
病気をした矢先ですので医者は反対しました。
私のそのときの心境は、やはり信長の“死ねや、死ねや”でしたね。

岡:それでいいのですよ。

石原:ところが終わってみると、忽然として、神仏の加護に対する、畏敬の念が沸いてきましたね。
それはそれで、非常にいいと私は思いました。

岡:いい体験をなさいましたね。“死ねや、死ねや”というのが西洋人にはないのです。

439:考える名無しさん
14/11/28 22:59:33.16 0.net
石原:動かないもののなかに、動くものを見るということは、西洋人にはできないですね。
たとえば、音楽に対する概念は、東洋と西洋は全く違いますね。
西洋の音楽は、何か二つくっつかなかったら音楽にならないと申しますが、
日本人は梵鐘(ぼんしょう)の音でもなんでも、一つの音のなかに、音楽を感じますでしょう。
あのような発想を日本人は体質的に持っていたのですが、このごろ、忘れちゃいましたですね。

岡:明治以前までならね。いま、わかっている人は少ないでしょうね。
なにしろ、ことばが変わると、だんだん忘れるものらしいですね。
もうこの辺で思い出さないと、ほんとうに忘れてしまいはせんかと思います。

石原:すべての面で、責任感というものもなくなりましたですね。
愛国心ということばを持ち出さないにしても。

岡:責任感なんてものが、自由がない者にありますか。

石原:ないですね。

岡:責任がかからないか、ということだけです。責任逃れといいますか。

石原:責任の回避に対してだけ情熱的で、責任の遂行ということに情熱的じゃないですよ。

岡:そうすると、もう自由を持った人じゃないですね。
我執はいけませんが、自分の肩に荷を負いたい、というのがなくなったら、それはもうだめですよ。

440:考える名無しさん
14/11/28 23:15:45.33 O.net
石原:長い歴史の上では、国家というものは敗戦体験だってするのが当然でしょう。

岡:一度は体験しなきゃわからんです。
あれはただ一度の体験です。
日本はあれによって大人になった。

石原:私もそう思います。
生娘(きむすめ)が


441:男と初めて寝た経験をしたのと同じです。女の一生とすればあたりまえのことです。 ところが、日本はそれで痛がって尼寺へはいってしまって出て来ないのです。 たとえば、核の問題について考えますと、実に愚かですね。 核アレルギーというより、核に関しては無知でしかない。 日本は、核武装はすべきではありませんが、原子力産業は絶対に開発すべきです。 岡:核武装も核開発も同じことでしょう。 石原:そうです。実は同じに近い。一枚の紙の裏表みたいなものです。 だが、それをはがして考えようとすることが愚かなのです。 どうして原子力の平和的な効用に重点をおいて考えないのでしょうか。 原子力産業の時代がきているではありませんか。



442:考える名無しさん
14/11/28 23:25:53.16 0.net
石原:日本人一般には、既成の社会秩序が簡単に崩れるわけはないと、たかをくくる楽天性がありますね。
その性癖は全学連の騒擾(そうじょう)にも認められます。
暴れる全学連も、見ている学生や市民も心の奥底では日本の秩序なんか簡単には変わるわけはないと思っている。
全学連は世論と八百長の取引しながら暴れている。
“死ねや、死ねや”じゃないのですね。
本物の闘士なら、死刑の覚悟で行動する。
ところが、つかまっても釈放されるだろう、騒ぎを起こしても社会は変わらないだろう、というのが実状です。
警察の取締りは慎重ですが、政府の態度はいっこう煮えきらず、責任のなすり合いの状態です。
でも日本という船は揺れながらも沈みそうにありません。ふしぎな国です。

岡:こんな国ないですねえ。だから、私、神々の国だと思うのです。
神々が働いてるから滅ばないのでしょうね。

443:考える名無しさん
14/11/28 23:37:18.48 0.net
石原:船について、私は切実に感じていることがあるのです。
私は船乗りです。小さな船ですが嵐の中でもレースに行きます。
やはり人間の原初は海であったせいか、海に乗り出すと、水に対する生理的な憧れを持つとともに、不安も覚えます。
水に向かうと、勇気が湧いてきたり、若さがよみがえってきます。
また、極限状況がしばしば、シケという形で迫ってきます。
遭難ぎりぎりの危険に直面すると、八人とか十人のクルー各自の友情、責任、献身、理解が、
それこそ国民全体が歴史の変動時点に対処するように、
その瞬間ごとに、完璧な形で現れてこないと、船もろとも全員が死滅しかねない一瞬があるのです。
おのおの異なった個人なのですが、私は一度にだれもかも好きになってしまうのです。

岡:なるほど、なるほど。よくわかります。その気持、いまの日本人にどうしても必要です。
きょうは、全くさわやかないいお話をしていただいて、嬉しゅうございました。
ありがとうございました。

444:次世代の党支持者
14/12/06 06:15:28.79 0.net
林修、日本エレキテル連合に「ジンクスに振り回されないで!」とエール(マイナビニュース)

バラエティー番組『林先生の痛快!生きざま大辞典 2時間SP』(TBS系 12月10日 19:56~21:56)の収録が4日、東京・赤坂の同局で行われ、
予備校講師でタレントの林修と吉田明世TBSアナウンサーが臨んだ。

同番組は、今年4月から深夜枠で放送しているバラエティー番組『林先生の痛快!生きざま大辞典』(毎週火曜 23:53~24:38)のスペシャル版。
特番となる今回は放送枠をゴールデンに移し、MCを務


445:める林修が、 羽生善治をも虜にしたチェスの天才・ボビ・フイッシャーや世界一IQが高いマリリン・ボス・サバント、 日本が世界に誇る数学者の岡潔など国内外の天才を紹介するというもの。 進行役としてお馴染みの吉田明世アナが登場するほか、豪華なゲストも出演する。



446:次世代の党支持者
14/12/06 06:17:16.62 0.net
この日は同番組の収録が行われ、収録の合間に報道陣の取材に応じた林と吉田アナ。
林は収録の手応えを「バッチリですね。面白いところだけで、どうやって編集するのか心配なぐらいです」と自信を覗かせて
「本当に中身が濃い2時間で独特の新しい面白さが伝えられると思います。特に今日は芸達者なゲストさんが多いので助けてもらいました。
どちらかと言うと、僕が攻める方で吉田さんがほのぼのとした瞬間で癒してくれる。
今日は上手にやってくれました」と吉田アナをはじめ共演者に感謝。
番組については「やっぱり本当にすごい人は数多くないが、いるということを改めて認識させられました。
でも天才だから我々とかけ離れているんじゃなく、天才だからこそ人生のヒントがたくさんあるんです。
天才の生き様を紹介しますが、見ている方に自分の生き方を見直すきっかけになれば嬉しいですね」とアピールした。

そんな林をレギュラー番組から間近で見ている吉田アナは
「林先生は天才ですよ。林先生の説明力や説得力には毎回驚かされます。
時間がない中、たくさんの人の生き様を頭に入れてプレゼンするわけですから。私だったら絶対に無理です!」と賞賛すると、
林は照れながらも「俺は天才じゃない!芸人さんには勝てないですよ。本を読んで情報を整理して話をするのは僕の得意分野なだけですから」と否定し、
吉田アナに「TBSのこれからを担うホープとして物凄い番組に出ていますから、
身体に気をつけて健康管理だけしっかりして楽しく参加していただければ十分です」と気遣う場面も。
また、新語・流行語大賞(2013年に「今でしょ!」で年間大賞を受賞)の先輩として
先日「ダメよ~ダメダメ」で年間大賞を受賞した日本エレキテル連合に「芸人さんが獲ると翌年消えるジンクスを気にされていますが、
本当にそんなものに振り回されないで面白いネタを見せてください!」とエールを送り、
「今でしょ?僕はそろそろ消しておかないと(笑)」と苦笑いを浮かべていた。

447:考える名無しさん
14/12/06 06:34:41.27 0.net
「日本民族の危機 葦牙よ萌え上がれ!」の出版って西村眞悟や藤井厳喜に支援されてたのな。

448:考える名無しさん
14/12/08 18:50:29.90 0.net
堯は国つ神(国津神)、舜は天つ神(天津神)。王道政治と祭政一致の違いはここにある。

岡潔最晩年の座談集である聴雨録によると、国つ神は9識以下の神、天つ神は10識以上の神。
有形文化は国つ神の文化で、無形文化である日本文化は天つ神の文化。

応神天皇以後の日本は外国の物真似ばかりしているから、
雄略天皇の時代に朝鮮の信仰に影響されて
伊勢神宮の外宮は天つ神である天月読尊ではなく国つ神である豊受大神を祀ることになってしまった。

古事記は聖徳太子が法隆寺夢殿で造化の再放送を見たことにより遺されたもの。大化の改新のために文字化が遅れた。
しかし聖徳太子は国つ神しか見えなかったから、日本神


449:話は不完全な形でしか伝わっていない。 明治天皇は明治神宮に祀られて初めて国つ神から天つ神になった。



450:考える名無しさん
14/12/13 01:49:34.64 0.net
草薙剣(天叢雲剣)の歴史

初代―→素戔嗚尊が大蛇の尻尾から取り出し、焼津で霊験を顕し、熱田神宮で祀るが所在不明。
二代目→安徳天皇入水により所在不明。
三代目→伊勢神宮が神のお告げで京都へ奉納、宮中に現存。

古事記の第一次国産みは杜撰。
安徳天皇入水が第二次国産みの始まりで、1974年3月で概ね仕上がり、2011年3月で完了した。
天月読尊の分身が要所要所で働いてくれた結果。

451:第十三識は岡も言うように長過ぎるので今日明日で分割投稿予定
14/12/18 20:15:38.52 0.net
「春雨の曲 第7稿 第2章 旅路の原型」より 第十三識の文例

「人間をつくったもの」
法学部二年 男子学生

人間は与えられたものを生かすことは出来るが、与えられていないものを生かすことは出来ない。
人間は生長することは出来るかも知れないが、それは生長するように出来ているからで、
そう出来ていなければそれまでです。
我々がいろいろのものを見たり聞いたり経験したりすることが出来るのもそういう風に我々がつくられているからで、
つくられていなければそれまでです。
私は髪の毛や爪に神経がないので切っても痛くなく、又血がないので切っても血が出ない。しかしそれはそうつくられているからです。
我々がものを食いたいのも、又何か飲みたいのも、
又生きたい、死にたくないと言うのも我々がそうつくられているからです。

452:考える名無しさん
14/12/18 20:37:37.12 0.net
人によって好き嫌いが違う。それもある所まで矯正することが出来ることもありますが、それもそうつくられているからです。

我々は自分の力では味覚、嗅覚さえつくることは出来ないのです。
我等は与えられているのを当然と思い過ぎている。
又それは本当のことのわかる人から見たら当然に過ぎないかも知れないが、我々はまるでそれを自分で持っているような気でいます。

しかし一寸反省してみれば、我々はつくられたままに生きているに過ぎない。
そして泣いたり笑ったり悲しんだりするのも、そうつくられているからに過ぎない。

こう考える時、我々は自分達をつくってくれたものは少なくとも我々自身は中々微妙につくられているということを感じるであろう。

我々の味覚にしても、実に複雑な味を感じることが出来るように出来ている。
それは生きることに必要以上である。
飢えた時は食を撰ばずと言う。我々が生きるためだけに味覚が与えられていたのなら、もっと味覚は簡単でいい、
味覚が複雑であるということは、我々の生活をぜいたくにさせ、面倒にするかもしれない。
だが味覚が与えられている以上、出来るだけの良いものが食いたいと思うのは人情である。
そして人間は自分に許された力でその人情を満たそうとする。
かくて料理が進歩する外に、農作物や家畜の改良、果樹などの改善が行われる。

453:今日はここでおやすみなさい
14/12/18 21:05:08.39 0.net
この欲望を満たすための人間の努力は昔から今日までに大したものであったろう。
そして人間の食えるものをあらゆる山から、谷から、川から、海から………とることに骨惜しみをしなかった。
それは生きるためでもあった。
しかしそれ以上でもあった。

自分は人間に複雑な味覚が与えられていることが人間にとって幸であるか不幸であるか知らない。
しかし人間がそうつくられている以上、うまいものを食う喜びを、まずいものを食うことより求めたがるのは人情と思う。
そしてそれは自然である。其処に人間の罪悪も生まれるが、努力も生まれる。
そして正しい方法で、人間により甘いものを食わせることを考え出し、またつくり出したものを自分は讃美しようと思う。
そして自分の理想的な世の中においては、人間の健康を害しない、又他人を不幸にしない方法で、
誰もがうまいものを食えなければならないと思っている。
固い言葉で言えば良心に恥じずに兄弟姉妹と喜び合って甘いものの食える世の中�


454:ナあることが、 理想的な世の中の一つの条件と思う。それは最大の条件でないにしろ。 又自分は人間に与えられている味覚につき、視覚につき、聴覚につき、触覚についても同じことが言えるであろう。 元より我等は同一刺激には飽きる。しかし我等はより美しい調和を求める。 元より我等は生きなければならない。又生長しなければならない。 動きのとれない調和では困る。それは生長する調和でなければならぬ。 そして我等の勇気を眠らすものではなく呼びさますものでなければならない。



455:考える名無しさん
14/12/19 22:11:36.45 0.net
理想の社会は、人々が退屈する社会であってはならない。
人々が生き生きする社会でなければならない。
美しい音楽、美しい画、彫刻、建築、美しい都市、それ等は人間の本能を不健全に刺激するものであってはならない。
それらは、人間を本当に生き生きさせる喜びと、勇気を与えるものでなければならない。
我等の楽園は遊ぶにも適した所であろうが、更に生きるのに適した所でなければならない。
部分と全体が生きなければならない。
其処に調和せる美が生まれる。
そして我等に与えられた複雑な感覚が、それによって嬉しく呼びさまされる。
そして生きた喜びを我等はその時感じる。
又そう感じるように我等の感覚を生かしてくれるものに対して我等は本当に美という感じを持つのである。

つまり我等が美を生み出すのは、その喜びを本当に味わいたいからである。我等がそうつくられているからである。

456:考える名無しさん
14/12/19 22:25:19.91 0.net
人間は何を愛さなければならないか、何を讃美しなければならないか、何によって生き甲斐を得なければならないか、
それは人間がつくられたままにすなおに愛せるものを愛し、讃美できるものを讃美し、生き甲斐を得られる時に生き甲斐を感じれば良い。
それは理屈ではない事実である。

しかし我等は其処に人間をつくったものの意志を見ることが出来る。
人間をつくったものは人間に何を嫌わせようとしているか、
人間にどんな世界をつくらせたがっているか、
人間がどう生きることを欲しているか。
それを我等は我等のつくられ方によって知ることができるのだ。

我等はとにかく長生きしたい。死にたくない。それはそうつくられているからです。
そして其の為に必要なものが与えられている。
我等は生きる目的は知らないでも生きたいと思うことは我等をつくったものの意志で悪いことではなく、
むしろ我等はすべての人が長生きすることを望むべきである。

457:考える名無しさん
14/12/19 22:50:11.37 0.net
我等は美を愛するように出来ている。
それは美を地上に生むことを我等をつくったものが望んでいるから、と見ることができる。

この世に不幸なことが起こる。そして人間はまだ完全には生きられない。悲惨なことが起こりやすい。
我等はそれを喜ばない。どうかしてそれから助かりたく思う。それもそうつくられているからである。

我等をつくったものは一方自分だけでも生きたい気を強く持たせ、自分の生命に執着させ過ぎているように見える。
しかしこの世に悲惨なことがあり、生存するために非常な闘争が必要である間、
人間が一方そうつくられているのはやむを得なかったのである。
愛するものが死ぬように他人の死を一々感じるようにつくられたら、
我等はこの世に泣きに来、又自殺しに来たに過ぎなくなる。

其処から色々の不幸が起こりうるが、
それは人間がまだ生きる為に闘争しなければならない時代の本能で、
皆が助け合って始めて気持ち良く生きて行ける時代が来たら、
今我等の世間に存在する残忍性は段々姿を隠すであろう。
それは我等をつくったものの意志を知るものの等しく認める所である。

458:考える名無しさん
14/12/19 23:12:58.25 0.net
何故かというとそれ等の本能が生かされる時我等の心を淋しくし、人間に生まれたことに喜びを失うようにできているから、
人間が人間に生まれたことを本当に喜びたく思う時、人類にとって自己を傷つける傾向のある本能は、
すなわち人間同志の闘争的本能は、消えて行かなければならない運命を持っている。
今はまだ人類が全面的に自覚を得ていない時で、自覚を得た人はごく少数きり無く、
他は自分が死ぬか相手が死ぬかという境に追い込まれつつあるので、
個人の内にある自己保存�


459:フ本能が、同じく自己の内にある人類的本能と衝突することが避けられず、 自分の心がそのために調和がとれず、其処に自暴自棄な態度が生まれるのである。 自分の心に平静が保てない時、その人は落ち着きが無く、殺伐になるのはやむを得ない。 さらに、自分の仕事を持たず、人類のために役立つ製作的な、あるいは建設的な仕事を持たないものは 適帰する所を失うのはやむを得ないと思う。 然しそれは病的現象であって、人間をつくったものは、そんな状態に人間が落ち着くことを好まないことはわかり切っている。 人間をつくったものが人間を落ち着けたがっている世界、それはすべての川が入りたがって流れていく海のような世界、 それは我等の理想とする世界であって、我等は其処へ達する為に働くことを、 我等のつくったものによって命ぜられているのである。



460:考える名無しさん
14/12/19 23:35:42.62 0.net
それはいつ達せられるかわからない。しかし其処に達するまで、我等は本当の意味では落ち着けないであろう。
だがそれを目指している間、我等の内に希望が湧くように我等は又つくられている。

それがあればこそ我等は自分の一生で達せられるとは思わないでも、
一方落ち着いて大いなる希望を持ちながらその日その日を努力して、
足もとを忘れずに一歩ずつ進んでいくのである。
そして後戻りする必要も無いのである。
我等をつくったものの意志を内に感じるものは、
内心の要求をのみ無上のものとする。
其処に神の意志を奨励を認める。
歴史や現実はどうであろうと、目指す所は忘れない。そしてその為に静かに土台をつくることが出来る。
どんな嵐の中でも思想の混乱している時でも、それを貫いて我等を導くものは、
我等をつくったものの意志である。我等の内に生まれる内心の欲求である。
これを感じないものは遂に目的を忘れて、嵐に巻き込まれる。
我等をつくったものの意志を尊重しなければならない。

461:考える名無しさん
14/12/20 00:05:46.78 0.net
もの二つ、三つ組合せてつくるに非ず、黄金を打ち延べたるようにてありたし 芭蕉

10識の10という数字は非常に意味深な数字で、統計学が成立する理由は何でも10で区切れるから。
真情がいかに大きな意味を持つかわかる。

13という数字はちょっと不可思議な数字。
旧制三高寮歌である「逍遥の歌」「紅萌ゆる」の作詞者は13識にいる。
12識は13識に上がるのは非常に大変で、
岡自身13識から眺めると、今回の人類の旅路は星を移らないで済むかもしれないと言っている。

それにしても、星を移るっていうのを映像化したFF13のナンバリングタイトルが13だったというのは因縁はあるかもね。
11識を使い過ぎると早く死ぬっていうのもこのゲームの中で映像化されてるし。

462:考える名無しさん
14/12/20 00:07:01.38 0.net
12識は じゃなくて 12識から

463:考える名無しさん
14/12/23 23:50:06.00 0.net
「春雨の曲 第7稿 第2章 旅路の原型」より 第十四識の文例

「私と子供の本」
外国語学部一年 女子学生

本屋に入れば一時間も二時間もウロウロしている私ですが、近頃またその時間が延長し始めています。
あの狭い本屋のどこをウロウロしているのかと言えば、ほんの小さなコーナーなのですが、
そこはもう時間や空間を超越したファンタジーの世界なのです。
ワッといろんな色が飛び込んで来る絵本のコーナーとずらりと並んだ童話のコーナーは、
私に一大変革を持ち込んだのです。
何か私に無限の世界が広がったような気がします。

464:考える名無しさん
14/12/24 00:04:08.88 0.net
こうなる機会を作ってくれたのは、絵本「木」(堀文子作)でした。
本との出会いというのは、こういう事なのでしょうか。「木」は、それまでの絵本に対する私の概念を見事に打ち砕きました。
日本画家で知られていた堀文子さんの絵は、一頁一頁の絵でもって私に感動を与えました。芸術なのでした。
作者が全力投球で、真�


465:浮ノ絵本と向かい合っているのが感じられました。 私がそれまで知っていた絵本を見る時、何か窮屈な思いに駆られるのです。 大人から見下されているような。 例えば、こんな絵本があります。 お風呂の入り方とか服の着方とか、ある主人公がこうなったのはこういう悪い事をしたからなのよとかいった教訓めいた本です。 私は今ではそういう類の物を目にした時、腹立たしくなるのです。 どうしてそんなことまで絵本の題材にしなくてはいけないのか。 絵本には、もっともっと重要な子供たちへの役割がある。そんな日常的なことは、母親が実際に教えたら良いことではないか。 私の大事なファンタジーの世界を汚さないで下さいと言いたくなるのです。



466:考える名無しさん
14/12/24 00:27:06.07 0.net
絵本の重要な役割……これをここで私は考えていきたいと思います。

多く大人は、子供に本を読む時には必ず何かを学び取らせる事を欲します。
そしてその何かの無い本は遠ざけて、何かの有る本だけを与えようとします。
小学校の頃夏休みの宿題で何とか課題図書とか称して、無理に読まされ、感想文を書かされたことを思い出します。
あの時は、随分しんどい思いをしました。
大人は、大人の既成概念の枠で子供たちを囲もうとしているようです。
子供たちのエネルギッシュな心を拘束するのは、自分のような大人の状態に高めよう(?)とする事と思い込み、満足し、
子供たちに対して優越感に浸っているなんてなんとも滑稽ではありませんか。
子供の世界は無限であると思います。
自由な創造力とトンチンカンと残酷(それは生の心から欲される結果)とのびのびした楽しさとの世界にそんな枠をはめ込もうとするのは不自然です。
私が子供の本に魅せられてしまったのは、その無限の世界故です。
そこから何かを学び取るとかいうようなものではなくて、文句無く理屈無しで楽しめ、遊べるのです。
そこでは、もう本を読む時の長年の私の癖である本から何かを学び取ろうと身構える事は無意味なような気がします。

こんな風に私に考えさせて来た私の出会った絵本や童話を紹介し、その際気付いた事も少し書いておきたいと思います。
絵本と童話との出会いは驚きとの出会いです。
そしてその驚きは、その本一冊一冊で種類を異にします。

467:考える名無しさん
14/12/24 00:50:36.47 0.net
絵本では、先ず堀文子さんの「木」が最初に書いたように新鮮な驚きでした。
これはまず、初体験とでも言うべきものです。
そして、最高のお気に入り、「おしゃべりなたまごやき」(寺村輝夫文、長新太絵)があります。
内容は窮屈そうににわとり小屋にひしめくにわとりを可哀想に思った心やさしい王様は、彼等を放してやります。
城中は大騒ぎ。犯人は誰だと探し回る家来たちをよそに、王様は自分が犯人と知っている一匹のにわとりに「誰にもいうなよ」と命令するのです。
ところが、夕食にそのにわとりの卵で作った目玉焼きが出て来て、
それを食べると王様の口の中から「誰にもいうなよ」という言葉が飛び出して来るのです。
何てナンセンス。何て愛すべき王様。そしてこの長新太の絵のきれいな色といったらないのです。
ここまで言って来てふと思うのは、子供ではない自分のひとりよがりの自己満足ではないかという事です。
子供にも、果たしてそんな風に受け入れられるのかと言えなくもありません。
けれど私は、受け取り方は違っても子供は子供なりにこの素晴らしい絵本を楽しんでいると信じたいのです。
昔見た日本昔ばなしやディズニーの可愛い動物たちを時折静かに思い起こすのは、
やはりその時の印象が私の心の中の隅っこに静かに眠っていたとは言えないでしょうか。
そういう印象の種を持たなかった大人たちに、今素晴らしい絵本を


468:読んでもらっても、種の無い心に芽がふくかしらと考えてしまうのです。 その他、ソビエトの画家ヤーノシュの「おばけリンゴ」などの外国絵本もその創造性において、嬉しい絵本でした。



469:考える名無しさん
14/12/24 01:19:08.69 0.net
童話では、私が涙をポロポロ流して読んだ「木かげの森の小人たち」(いぬいとみこ)は、絶対に忘れられないものの一つです。
鋭い反戦の内容を持ちながら、私たちに小人は日本のやさしい心を持つ誰かの保護のもとに今も生きているとふんわりした気持ちを思い起こさせます。
それは、あの小人たちの命を繋ぐ空色のコップの象徴的な鮮やかな印象から起こるのです。
童話ではありませんが、稲垣足穂の「一千一秒物語」はとびきり上等の私への贈物のように思えました。
クールなナンセンスと硬質な光りのきらめきは、新しい大きな発見でした。
文集の少年愛のイメージも好きです。とにかく私はタルちゃんの新奇な世界に参ってしまったのです。

「たんぽゝのお酒」(レイ・ブラッドベリ)は、奇妙で詩的な少年の夏の日の世界でもって私をころりとさせてしまいました。
「まっぷたつの子爵」(イタロ・カルヴィーノ)は、大人の心臓をドッキリさせてしまう。
子供にはユーモラスでちょっと怖さがあって、とファンタジーの世界に満ちているのですが。
現実社会への批判の鋭さに、この本は現実感を持って私たちに迫って来るのです。
しかしその影に隠れる作者の暖かい心が感じられ、ホッとしました。
「僕の村」(ジャン・コー)のナンセンスは、とびきり上等のフランス風センスを心得ていました。

470:考える名無しさん
14/12/24 01:25:18.61 0.net
谷川俊太郎の「ことばあそび」というのがあります。
自由自在に何の意味も特別持たず言葉を操るそのナンセンスに私は、好きな詩人であるだけに感動しました。
そこに子供たちが無心に遊ぶ姿を見たのです。
ナンセンスと言えば「地下鉄のザジ」(レーモン・クノー)も、大人の味は強いとはいえ枠を超えた面白さを持っていました。

471:考える名無しさん
14/12/24 01:31:16.00 0.net
そして宮沢賢治の童話はいつ読んでも新鮮ですし、
「ピーターパンとウェンディ」を読む時のあの緊張感も薄れてはいません。
近頃では、読んだり見たりするだけでは飽き足らず、自分でも書いたりするのです。
他の人の創造の世界に遊ぶことは、いろいろな新しい発見があってそれは楽しいのですが、
自分だけの自分が生み出すファンタジーの世界に遊びたいという気持ちが強くなって来ているのです。
それはやはり創造の楽しみでしょう。
絵本や童話の子供たちへの大事な役割とは、この創造ということだと思います。
子供は、大人の既成概念の枠にはめられる前に、創造の世界に生きて自分の内に眠るあらゆる可能性を知らなくてはいけないと思うのです。

472:考える名無しさん
14/12/24 01:38:28.06 0.net
そうすることの出来なかった私は、現実世界に生きてきて、
その中の周囲のいろいろな事に気を配りながら常識的、習慣的、義務的人間になってしまった自分にウンザリし、
今更枠を壊したいという願いを子供の本に向けているというわけです。

今度本屋に立ち寄る時も、又ふらふらと児童書のコーナーに吸い寄せられるでしょう。

今日はどんなびっくりする本に出会えるだろうかと。

473:考える名無しさん
14/12/26 05:01:59.65 0.net
「春雨の曲 第7稿 第2章 旅路の原型」より 第十五識の文例(其の一)

「子供は天才」
経済学部二年 女子学生

子供の世界を静かに観察する事から始めよう。

子供は元気に遊びたわむれる。子供は遊びの世界に生きるのである。
女の子供は、ままごと遊びに明け暮れする。子供はきまって親を百貨店へひっぱり出してゆく。
そして、そこでままごと遊びの道具などを買わせようとするのである。

おもちゃ売場へ行くと驚かされる。そのおもちゃの種類のおびただしい事、何でもあ�


474:驕B



475:考える名無しさん
14/12/26 05:16:39.72 0.net
ところで、それを眺めていると、大人の世界が、一つの売場に完全に集約されているような感じを受けるのである。
子供が手にして選ぶ色々なおもちゃを見ていると、自分までもが、おもちゃ売場の一隅に小さくならべられた人形の様に感ぜられてくる。

子供が、あれやこれやと手にしているおもちゃを見ていると、
テレビ、ラジオ、ガスレンジ、洗濯機といった高級品から食器セットまでの家庭用品、自動車、電車、汽車まで……。
人形はと手に取れば、ミルクを飲み、おしっこもするといった具合である。

実際の話、おしっこもまともに出来ず、又言えもしない子供が、そういった人形を手にしたいらしく買ってくれとせがむのである。
ご飯もまだひとりで食べられない子供が、食器セットを手にしたがる。
ガスレンジもスパークが出るような本物まがいのが欲しいらしく、おねだりを言い、あげくのはては、だだをこねるのである。

一、二歳頃までのおもちゃは、視覚的要素だけを考慮に入れて作られているらしいが、それらに満足している期間は、はたしてどれほどだろう。
見ているとものの一年もたたない間に、どんどんこわし始める。
破壊するのだから、子供には満足を与えていないことになる。

もう子供は一足とびに、ままごと遊びの道具を欲しがるようになる。
まだ子供だから、身体は十分機能的に動き得ないのに、観念的には、十分発達した機能的動きの中で遊ぼうとする。
要するに、視覚とか聴覚だけを部分的に満足させてくれるおもちゃでは満足できなくなってくるらしい。
それがどうも子供が盛んにままごと遊びの道具をせがむ理由らしい。

476:考える名無しさん
14/12/26 05:33:00.86 0.net
さて、たまたま、このままごと遊びの道具を首尾よく手に入れた時、
子供はこれで、どのように楽しく遊ぶか、しばらくこれを眺めることにしよう。

例えば、台所用具一式を幸いにも子供が手に入れたとしよう。どうするだろう。

ガスレンジには鍋をかけ、食器をならべ、お台所仕事がはじまる。

ところが、ここで異様な動作が行われている事に気がつく。

それは何か、と言うと彼女達は、きまってそのままごと遊びの主人公になろうとする、という事である。
例えば、隣から友だちを呼んで来て、お客様としてすわらせる。
すなわち、自分が料理をしてご馳走する立場に立とうとする。
お客様がいないとまことにご機嫌が悪く、うっかりすると見ている大人までがひっぱり込まれてしまう。
そしてとんでもない、むなしいご馳走にあずかるはめにさえなる。
ご馳走の中身が、そこらにある草である場合もあり、或いは、紙片かも知れない。
ある時には、何もない事もある。寒い時は暖かそうに、暑い時は冷たくして出される。
子供は、よちよちしながらも、かいがいしく立ち回るのである。
うっかりして大人が、そのままごと遊びの主人公にでもなろうものなら、大変なことになる。

477:考える名無しさん
14/12/26 05:55:52.05 0.net
次々と彼女達によって展開されていく生活環境は、驚くべき事に、全くもって大人のそれであるということである。
たまたま、そこに相手役をつとめる人間がいないとすると、さっそく選ばれ、御相伴役(ごしょうばんやく)を仰せつかるのが人形である。

この人形には、最上級の敬語と愛情が、注がれる。
彼女は、この無言のお客様のご機嫌を損じないように、八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍を続ける。
ミルクもコーヒーもパンも、時には、あまり口にもしないようなものまでがご馳走される。

人形は無言だが、彼女はしゃべり続ける。しかも驚くべき事に、その言葉遣いが異常なほどに大人びてくる。
最上級の敬語というのがそれであり、言葉のデリケートなニュアンスも案外間違えない。
動作のジェスチャーも機微にふれている。
平素は坐れもしないのに、


478:きちんと無理をして坐る。 歩き方はと見れば、きまって花嫁の真似をする。 人形に対する態度は、友達としてではなく、母親が子供に対するがごとく、 彼女自身がおしっこを言うのを忘れていても、人形のおしっこをさせる事だけは忘れない。 まことに、さまざまな世界をここに構成する。 その世界の主人公になることによって……。



479:考える名無しさん
14/12/26 06:22:24.69 0.net
ところが、ここへ母親でも帰って来たとしよう。
そして、たまたま美味しいお菓子でも買ってきたとすると、もう彼女の性格は一変してしまうのである。
ままごと遊びの主人公は、どこかへ行ってしまう。
性格が変わるといったものではなくして、彼女自身の場を変えてしまうのだ。
遊びの世界の主人公が、母親のふところにその場を転換せしめてしまう。
即ち、母親と自分という関係において自分を意識した時にはもはや、ままごと遊びの主催者ではなくなってしまい、
母親のふところに、即ち母親の世界の一隅に、だだっ子として位置づけられてしまう。

本能的にはっきり自覚しているかどうか、それはわからない。
しかし、言葉、態度、行動は一変してしまう。
大人びた言葉は、一言もはかないし、大人の真似ごとの挨拶でもって母親を迎えたりは絶対にしない。
ままごと遊びの時には、玄関に手をつき、お客を招じ入れる格好を何回も何回も繰り返しておきながら、
それはもう、けろりと忘れてしまっている。
人形にもったいぶってミルクを飲ませ、あやしたり寝かせたりした事も忘れてしまって、母親の胸に飛びつく。
こんな全人間的な変革が瞬時に行われる。

480:考える名無しさん
14/12/26 06:29:26.68 0.net
このような変革の為に、子供は何らの苦労もしないらしく、又そんなに変革した事も意識しないようだ。
もしも大人が、大人の世界で、こんな大きな性格変化をしたら、いったいどんなものだろう。

狂人呼ばわりされても仕方がないだろう。

子供たちは、別に狂人ではない。こんなに鮮やかな世界の転回をやすやすとやってのけ、後はまことに春風駘蕩たるものである。

実に天才の名にふさわしい。

481:考える名無しさん
15/01/03 18:23:09.02 0.net
「春雨の曲 第7稿 第2章 旅路の原型」より 第十五識の文例(其の二)

「ならの小川」
外国語学部二年 女子学生

風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける

風がそよそよと楢の葉をそよがす音がする。
そんな、ならの小川のあたりの夕暮れは、涼しくて、もうすっかり秋らしいのであるが、
その小川で行われている六月ばらいの行事だけが、今日がまだ夏のうちである証拠なのだなあ。
と歌の意味は大体このようなものである。

482:考える名無しさん
15/01/03 18:33:37.39 0.net
「みそぎ」は夏の行事であり、川原で身についたけがれや罪をはらい除く神事で、
ここは六月晦日に行われる「六月ばらい」であって、それをもって「夏のしるし」と確認している。
六月晦日は暦の上では夏の最後の日。すでに秋との交替は始まっている。
現にまわりの情景には、もう夏らしきものはなく、上の句がそれを語っている。
肌に感じる風にしろ、「風にそよぐ楢」の葉の音にしろ、小川の流れにしろ、ましてや、夕暮れ時はすべて涼気を感じさせるもの、
秋である。

483:考える名無しさん
15/01/03 18:41:44.97 0.net
作者、藤原家隆がこの歌を詠んだのは、今からおよそ八百年余りも昔のこと、
当時の人々は、この行事をどのように感じていたのであろうか。
凌ぎやすい初秋を待ちこがれている人々は、早くから秋の気配をさがし求めていたであろうが、
この行事を切り目に、いよいよ明日からは秋だと思う、そのよろこびと共に、
かえって去って行く夏にも何かなごり惜しいものを感じたのではないだろうか。
生理的に感ずる季節感を大切にする一方、暦による精神的な季節感によって強く支配されてもいたようである。
自然界にみる四季の変化に敏感ではあったが、ふんぎりをつけるのは、やはり暦によったのだった。

484:考える名無しさん
15/01/03 18:54:13.13 0.net
さて、長々と歌についての説明を書いたが、何故、私がこの歌を選んだかというと、それは歌の中にある「ならの小川」にある。
この「ならの小川」というのは、実は上賀茂神社の境内を流れている「御手洗川」のことである。
それを私は、今年のお正月まで全く知らずにいた。
元旦に久しぶりに小倉百人一首の本を見ていて、初めて気がついたのである。
山口県から京都へ来て、ここ、上賀茂に下宿して、毎日、神社のそばを通り、その川を渡って大学へ通っていたのである。
今までは何とも思っていなかった、この一つの歌が非常に身近に感じられた。
そして、また京都の街の歴史の古さを一層深く感じさせられたのである。
今は冬、寒々とした上賀茂神社の境内を流れているこの小川は、
今もまだ一点のくもりもない程に澄き通り、
私の身も心もすべて洗い流してくれそうである。

485:考える名無しさん
15/01/03 19:14:23.67 0.net
わたしが確認の旅路の第十二識にいた時、或る日不思議な情景を見た。
わたしの部屋のわたしの机の上に非常に大勢(千人位)の小さな人が真っ四角に整列している。
と見ると、其のn人が合一して少し大きな人になった。人数は1/nに減った。
この合一を繰り返して見る見る減って行き、到々大分大きな一人の人になって消えた。

わたしは第十五識の個人の主宰者はワンサイクルτ₁-α₁だが、
第十四識に下ると30サイクルズの合議制となり、
第十三識になれば30²サイクルズの合議制となり……
第七識上層になれば30⁸サイクルズの合議できまるようになっていると思う。

第十五識、第十四識、第十三識を見ると如何にもそれがよくわかる。

486:考える名無しさん
15/01/03 19:30:44.22 0.net
※第十三識で30の2乗、第七識上層で30の8乗です。失礼しました。

第十五識の第二例は一昨年の作文であって、此の人だけはもう自覚の旅路に入っている。

第十五識は二例ともそれでよいが、第十四識は口数が多すぎる。
第十三識は其の上理屈が入り、それにくど過ぎる。

第十五識を天(あめ)なるこころだけとすると、第十四識、第十三識と、段々土(つち)の要素が餘計入って行くのである。

第十二識-第十五識(其の一)を並べて見ると、こう云う感じである。

第十一識と第十二識との境界上の世界に「悟」の実がむすぶと、
造化はその種を第十二識と云う畑に蒔き、芽が出れば第十三識に移して育て、これを時機をみて第十四識に移して花を開かせる。
その香りと云うエキスだけを取り出したのが第十五識である。

第十五識の第二文例は、認識の旅路を終えて一度ふるさとの生命の源流で浴し、それから自覚の旅路についたのだろう。
この水浴の印象を御手洗川の上に再現したのだろう。
実に名文であって、少しも人工の跡がない。

(帰郷してみて、第十二識以上は皆よく書けている。既に個性が見られる。
第十五識の第二文例は絶品である。人の世に於ける文の最高峰であろう。)

487:考える名無しさん
15/01/03 19:46:53.22 0.net
「春雨の曲 第7稿 第5章 無明、生死、染色体」より 最終段落

フリーセックス時代は真に恐るべきものなのであって、
且つてアテネはこれによって繁栄の絶頂から滅亡まで僅か百五十年位で亡びたのである。
日本の現状はそれよりも更にひどいと思うから、此の儘推移すれば百二十年位で日本は名も知らぬ土人の島と化し終わるであろう。
学生の自由作文によって見れば、今でも日本人の半ばは、実質的には異邦人である。
日本民族の日本民族たる所以のものは女性が主になって守るべきである。
造化は女性をそう造


488:っているのだと云う証拠として、染色体のお話をしたのである。 女性が率先してフリーセックス時代を謳歌するようになっては日本はもうおしまいである。 今年の自由作文にお嫁があるだろうかと云って心配していた男の学生がいて作文は名文であった。同感である。     ―― 完 ――



489:考える名無しさん
15/03/05 23:28:46.10
建物の中にこもりきりではなくて、

自然を散歩しながら学問をすることが出来る大学はどこにあるのですか?

490:考える名無しさん
15/03/16 05:04:28.46
授業中に、ケータイ、スマホをいじくって、テストは過去問のコピーを暗記

そんな学生と一緒にいると学問をする心が死んでしまいます。

自然を歩きながら、ホタルを見ながら学問をさせてくれる大学はどこにあるのですか?

491:考える名無しさん
15/03/22 09:36:37.50 0.net
保守

492:考える名無しさん
15/04/24 21:21:14.53 0.net
岡潔聴雨録bot
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493:考える名無しさん
15/06/11 09:11:41.22 0.net
人から聞いた話

ある若い数学者が、学会で講演をして終了後の質疑応答のとき、最前列で聴いていた岡先生がスックと立ち上がって講演者を指差し

「君の研究は180度方向が違っている、正しい方向は••••」

という。みんながハラハラしながら聞いていると

「あっちだー」

と振り返って後ろの出口を指差したという。

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