岡潔at PHILO
岡潔 - 暇つぶし2ch100:考える名無しさん
13/07/18 NY:AN:NY.AN 0.net
>>93
カウント10000回突破したな。

101:考える名無しさん
13/07/26 NY:AN:NY.AN 0.net
春雨の曲 第4稿 1975年12月

造化(A+T)はみんなが懐かしさと喜びの世界に心を一つにして住めるようにしか生物を作っていない。
男性は皆、懐かしさの象徴である天の月読の尊(T+オリジナルのt1)に帰一せしめ、
女性は喜びの象徴である天照大神(A+オリジナルのa1)に帰一せしめることを目標にしているのである。

諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意により第十一識に行く(但し第十一識の抜き身は使い過ぎると早死にする)。
自浄其意さえ怠らなければ、善良な凡人は段々向上して
第七識から第八識、第八識から第九識、第九識から第十識、第十識から第十一識までは行ける。

102:考える名無しさん
13/07/26 NY:AN:NY.AN 0.net
この次は第十一識から第十二識に行くに自覚しながら行ったのであるが、
わたしは第十一識に入ったのは終戦の第二年(一九四六年)、
第十二識に行けば天照大神を見神できるのであるが、
見神したのは一九七三年の七月十五日頃である。
そうすると、実に二十七年かかっている。これは男女の別を取り去るのに時間がかかったのである。
わたしは男性である。だから男性のことはよくわかる。しかし、女性のことはよくわからない。
わたしは長い間こんな風であった。
こんな風であると云うことは男性と云う私がわたしに残っていたことになる。
それを除るのに二十七年もかかったのである。

つまり天照大神を見神する為には男女を超越しなければならない。これは容易には出来ない。
人はカチノー(カチカチの脳)になってしか天照大神のことを考えないからである。
天照大神を見神するには大神が死ぬほど好きでなければならぬ。
人は中核Kと外包Lとからなっている。
容易に大神が死ぬ程好きになれないのは、外包Lを脱ぎ捨てて中核Kだけになれないからである。
Lがカチカチにさせているのである。
これは男性の人に言ったのであるが、女性の人は天の月読の尊をお念じ申すのがよい。

103:考える名無しさん
13/07/26 NY:AN:NY.AN 0.net
第十二識まで行くことが出来ると男性ならばオリジナルのa1を、女性ならばオリジナルのt1を見神することが出来る。
そうすると、やがて造化の夢殿の初覚の間に入ることが出来る。この後これを認識し、自覚し、確認する。
自覚を確かめるのが確認である。

確認すれば帰趣の宮殿の内に入ることが出来る。
そうすると一応、男性ならば天の月読の尊(T+オリジナルのt1)に、
女性ならば天照大神(A+オリジナルのa1)に帰一したということができたことになる。

外の夢殿に入ると、使命を托されて人に生まれる。親を選ぶのは子である。
その度毎に向上していって、遂に内の夢殿に入り、生命の秘境(両性ある心そのものの世界)に帰趣するのである。

104:考える名無しさん
13/07/26 NY:AN:NY.AN 0.net
わたしの場合をお話しよう。
一九七三年に華厳第七門の見神をした。これについては前に述べた。これは天照大神の遠望である。
その後一年がかりで、うじのわきいらつこの尊の俤(おもかげ)、孝明天皇の俤、
弟橘媛の俤、明恵上人の俤、式子内親王の俤、樋口一葉の俤を見せていただいた。
そして翌一九七四年の七月十五日頃、二度目の見神をした。これは華厳第八門の見神である。
そしてその年の十二月八日に帰趣宮に行き、二尊が無自覚時代終わったことを宣言されるのを聞いた。

無自覚時代が終わったとは、神から人へという方向で諸事象が推移していたのが、
一九七四年の末に自覚時代に人の行くべき道は、人から神への方向であることが確認されたということである。
初度は体験、二度目は認識、三度目は自覚、四度目は自覚の確認即ち自覚の捨であって、ここに到って初めて実践できるのである。
そして(オリジナルt1―オリジナルa1)が四度目を踏み出すことが出来るようになったから、日本民族は自覚時代に入ったのである。

105:考える名無しさん
13/08/01 NY:AN:NY.AN 0.net
秋が来ると紅葉 1969年9月

※文章化したものもこれから書きますが、移動先のサイトの岡の肉声と合わせて読むことを勧めます。
URLリンク(www.youtube.com)

106:考える名無しさん
13/08/01 NY:AN:NY.AN 0.net
秋が来ると紅葉します。それを木の葉が赤くなるから、秋が来たような気がするのである、と思う。
こんな風なのを物質主義というのです。
今の日本は、例えば教育は秋の気分を出そうとして、木に赤インキを注射してるようだと言えば、
本当にそんな風だという気がします。あんまりいろいろとおかしなものを注射すると木が枯れてしもう。
こういうのを物質主義というんです。
至るところ物質主義です。

物質主義は必然、個人主義を生みます。個人主義というのは五尺の体が自分だと思うのです。
物質主義というのは、感覚は厳然たる事実だし、感覚で分からないものは基礎にできないと、
そういう思想ですから。
五尺の体を自分だと思う、これが個人主義です。五尺の体を自分だと思う、�


107:サういう自分を小我という。 小さな我と書く。小我は迷いである。本当の自分を真我と呼ぶ。 小我の迷いを離れて、真我を自分だと悟れというのが仏教の教えです。 日本は明治までの1300年の間、非常にそれを勉強したんです。 それだのに、それから100年も経ちますと、ケロッと忘れてしまった。 日本の新憲法は五尺の体が自分だとなっています。 そんなこと分かり切ってて、いちいち書かなくても良いという書き振りです。 日本に十万も僧侶がいるのですが、「これは間違いである。小我といって迷いである。」という人は一人もいない。



108:考える名無しさん
13/08/01 NY:AN:NY.AN 0.net
個人主義は利己主義を生みます。どーしても利己主義を生む。
利己主義のうちでポジティブなもの、自分中心にしか考えたり行為したりしない人がある。
人の目にも付きますし、自分の目にも付く。
だから、まだ


109:良いのですが、消極的な、ネガティブな利己主義が困る。 自分と自分の周りの人達以外に対しては全く無関心である。それが困る。 今、日本は消極的な利己主義がほとんど行き渡ってしまっています。 だから個人の幸福は考えますが、国家などというものは少しも考えない。



110:考える名無しさん
13/08/01 NY:AN:NY.AN 0.net
ところが実際は、国家というものなしに個人の幸福などというものはあり得ないのです。
こんなこと猿だって知ってる。また世界の各国民は皆知ってる。知らぬは終戦後の日本だけです。
これに似た国民を求めますと、なかなか近いところにはない。
遡って、2000年近く遡りますと、一度ユダヤという国が滅びました。
あの滅亡直前のユダヤ国民が今の日本国民に酷似しています。
だから今の日本国民は民主的だなどと思ったらとんでもない、ユダヤ的というべきです。
個人の幸福あるを知って、国あるを知らんのをユダヤ的というのです。
民主的とは言いません、そんなこと不可能ですから。
ところで、何故、こういう事態に立ち至ったか。それを一番初めから詳しく申しましょう。

※なお、岡は昭和への遺書>>72で、アインシュタインを輩出できたのはユダヤ民族の歴史が古いからである、
 とも述べています。日本民族はそれ以上に歴史が古いわけですから、言わずもがなとなるわけです。

111:考える名無しさん
13/08/01 NY:AN:NY.AN 0.net
人には心が二つあるんです。
心理学が対象としている心を第一の心ということにしますと、この第一の心は前頭葉に宿っている。
この心は私というものを入れなければ全然動かない。
その代わり、いったん私というものを入れると、笑いカワセミのようにうるさい。
私は嬉しい、私は悲しい、私は愛する、私は憎む、私は意欲すると、こういう心。
また、この心は意識を通さなければ分かりません。それからこの心は、心理学者は知らないでしょうが、
前頭葉に宿っているというのは中心が前頭葉にあるという意味で、広がって物質的自然界全体を覆うています。
物質的自然界というのは自然科学が対象にしている自然です。
人は生まれて何時頃からそんな風になるかと言いますと、
第四年目にはそうなり始めて、小学校へ行くまでにはそうなります。
それで自然科学者は、初めに(第七識に)時間空間というものがあって、一切のものはその中にあるとしか思えないのです。
しかし、この心は物質的自然界全体を覆うていますが、それから外には出ていません。
ギリシャ人や欧米人はこの心以外知らないのです。

112:考える名無しさん
13/08/01 NY:AN:NY.AN 0.net
ところが本当は、人には第二の心があります。この心は頭頂葉(唯識論を深く掘り下げると後頭葉)に宿っている。
この心は無私の心です。無私とは私がない。
無私の心であるというのは、私を入れようとしても入れることができない、そういう意味です。
また、この心の分かり方は意識を通しません、じかに分かる。
この心は頭頂葉に宿ってるというのは、中心が頭頂葉だという意味ですが、
広がって肉体の全体に及び、外に出て物質的自然界全体に及び、
更にその外に出て空間の無いところにまで広がっています。
現在、過去、未来を問わず、およそ時のあるところにはこの心がある。
そういう第二の心がある。欧米人はこの心があるということを知らないのです。

こういう話しますと、貴方々、あまり信じられないような気がするでしょう。
それは欧米の思想、何よりも自然科学を過信しているからです。
この自然科学過信をここで打ち破っておかなければ、今のようなこと言っても、それから出発したのでは聞いてもらえない。

113:考える名無しさん
13/08/01 NY:AN:NY.AN 0.net
近頃、物理学者が素粒子を電子顕微鏡で見た。
そうすると素粒子は生まれてきてはすぐにまた消えて行ってる。
これは、物質は生じたり滅したりしないものだという古来の観念を破っています。
古来の観念は既に破れてしまっている。
古来考えてきたように、生じたり滅したりしないような物質というものはないのです。
しかし、それよりも不思議なのは、何しろ物理学者は初めに時間空間というものがあるとして考えて行ってる。
然る


114:に素粒子は生まれてきては消えて行ってる。 素粒子は一体どこから生まれてきて、どこへ消えて行ってるのだろうか。 今、物理学者の先端の人達は茫然自失してるも同じこと。 どうすればごまかせるだろうかと思って、工夫するだろうと思いますが、自然科学は初めから間違っている。 今、その間違いがやっと分かる所まで来たんです。 しかし、間違っているとはなかなか気づかないかもしれません。



115:考える名無しさん
13/08/02 NY:AN:NY.AN 0.net
>>100 感覚は厳然たる事実、これは大事です。

感覚的に感じたことを表現するこれ気持ちいいね。

116:考える名無しさん
13/08/02 NY:AN:NY.AN 0.net
物を観て、その物を用いていた人の経験を観ることこれ大事。

117:考える名無しさん
13/08/03 NY:AN:NY.AN 0.net
ニュートンの「絶対時間」やアインシュタインの「相対時間」は第七識にあるんだよね。
だから今の物理界で盛んに探されているダークマターは第八識にある。幽霊も大体はここにいる。
ベルクソンやサン=テグジュペリ、道元や岡潔が重視した「時」は七、八、九、十を超えて第十一識にある。

もっともほとんど宗教の世界だから、岡の遺族や研究会としては
岡を教祖化させないように非常に警戒して目立たない活動してるよね。

創価学会や統一教会、幸福の科学なんかももう少し全体主義色を薄めればいいんだけどなあ。
物質主義に対抗するための存在としては正論を言ってることも多いんだから。

118:考える名無しさん
13/08/05 NY:AN:NY.AN 0.net
春雨の曲 第8稿 1978年7月(未完で絶筆)

日本民族の旅路については、極く大体の荒筋しかまだ確認出来ていません。
これを詳しく認識的に調べることは、人の「からだ」を身に着けたままでは無理です。
だからこれは来世以後に於て詳しく調べます。
そうすれば兎角論議の種になりがちな「日本歴史」もはっきりわかる筈です。

私が今書いている「春雨の曲」の稿は第八稿です。
これに先立つ七つの原稿は書き上げては反故にし、書き上げては反故にしたのです。
反故を作るために書き上げたようなものですが、そうすることによって、
云わば足台を積み重ねることによって段々上の方に手が届くようにしていったのであって、
認識的に大宇宙の実相を研究するには、私に対しては此の漸近法が一番よい方法だと思っています。

119:考える名無しさん
13/08/05 NY:AN:NY.AN 0.net
春雨の曲 第7稿 1978年9月

そういう日の夕刻、わたしは奈良のまちから帰って来て新薬師寺の角を曲ると、
一見人の世の人のように見える天衆が群れていて、
ある者は隣人のように田の畔に立ってわたしを出迎え、
或るものは旅人のように、すれ違いざま、或は追い抜きざまわたしに無声の声をかけた。
挨拶の言葉のこころはわかっても意味がわからないのは、
或はすれ違っても触れられないのは、
わたしがまだ外の夢殿にいたからである。
わたしとこれらの天衆とは同じ空間にいながら別の世界に住んでいるのである。

120:考える名無しさん
13/08/07 NY:AN:NY.AN 0.net
葦牙会発足 質問編 1968年12月

(岡潔)
あのね、民族にとって、国民にとって一番恐ろしいのは男女問題です。
それ一つだけで十分滅びる。アテネがそう。今のチベットも民族浄化で危ない。
親を選ぶのは子なんです。就中、男女の交わりの時に、その性に合ったところへ行って生まれる。
だから、できるだけ気品の高い交わりをしてもらわないと大変困る。
そうするとね、日本の今の男女の交わりはひどく乱れている。享楽の具と考えている。
これじゃ目茶。それで、生後八ヵ月で立つという子が非常に多い。牛や馬に非常に近い。
私、おじけ震ってる。これは船の底に穴が空いたようなもの。どんどん悪い水が入って来る!
正常には十五ヵ月で立つんですが、それを八ヵ月って半分ですもの。
八ヵ月で立つっていうのに医者は平然としてる。馬鹿は仕様ない。非常に心配なんです。

121:考える名無しさん
13/08/07 NY:AN:NY.AN 0.net
(司会)



122:謫冾烽ナすね、教育の一番の問題はまあ男女の問題であるということを、 岡先生もこの間おっしゃったことを憶えております。 (岡潔) あのう、共産主義者ねえ、どうやって学生や一般大衆を引き入れたかっていうと、 「踊って、歌って、恋をして」っちゅうて引き入れたんです。仕様のない奴等だ! しかも「恋をして」っていうのが尋常一様の恋じゃないんです。 本当にあんなん皆明るみに出して、親達に教えてやらないといかん。 あのねぇ、日本の共産主義は、他国の共産主義よりもずっとひどいですよ! 実にひどいバイキンだ!あんな下等な宗教に感染するくらいなら、滅んだ方がはるかにマシです!知性も何もないもの!!



123:考える名無しさん
13/08/07 NY:AN:NY.AN 0.net
(質問)
今はね、日本はすごく何か、落ち着きがないというんですか、
若い世代がどんどん都会へ行く気持ちである。
それに対する戦後の日本というのは、これは日本ではない、アメリカだと思うんですけど、
そういうことに対してはどうお考えですか。

(岡潔)
ともかく今、都市へ出て行きたがる奴は馬鹿です。(笑)
大体、地方に残ってます。良い日本は。何と思って都市に住みたいのかわからん。
まあ、都市に住まなきゃあ労働できないという人達も出て来てることは確かです。
で、こういう人達が都市で生き甲斐を感じて生きるようにしてあげるにはどうすればよいか、
有識者は考えていかないといけないんです。
それくらい都市に住みながら、生き甲斐を感じて生きるということは難しいのである。
また、子供を地方で育てるのは簡単ですが、都市で良く育てようと思ったらひどく難しいんです。
だから次の代を本当に担う人は、それは地方から出るでしょう。
都市からはひどく出にくい。酒の肴に良いようなのが都市から出るんです。(笑)

ともかく都市で住みたいっていう奴は馬鹿です!
僕の親族の片付いてる家がある。それで、こんな東京なんかで住まないで、
田舎へ行って家建てるかマンションに住むかしなさいっていったら、
都落ちするのが嫌だっていって、到頭東京へ家建ててしまった。(笑)馬鹿な奴!
教育と産業が上手くいってないんですね。

124:考える名無しさん
13/08/07 NY:AN:NY.AN 0.net
嬰児に学ぶ 1969年10月

(司会)
どうもありがとうございます。それでは時間の関係で、もう一問だけお受けいたします。
ただ誤解のないように申し上げますが、青年会議所は本日は先生の個性を、
非常に明日からの我々の為に必要だと思ってお招きした訳でございます。
ですから一般論にうんと時間を費やすということは先生のご健康もありますので、
もう一問で終らせて頂きたいと思います。如何でしょうか。もう一問、お受けいたします。どんな質問でも・・・。

(岡潔)
あのう、今の大学紛争ね。大学が早く潰れてくれたら、本当の大学を作るのになあと思ってる。
西洋の大学は早く潰れてくれたら、日本の本当の大学を作るのになあと思ってる。(拍手)
だから西洋文明の崩壊だと言ってる!

(司会)
はい、最後のご質問があれば受けますが。
それでは一応、時間が参りましたので打ち切らせて頂きます。どうもありがとうございました。(拍手)

125:考える名無しさん
13/08/07 NY:AN:NY.AN 0.net
>>113 春宵十話より、岡は都会の子供より田舎の子供のほうが
動物性がないと書いてありました。

都会のオフィス街ではみんながおんなじように歩かないと
疲れてヨボヨボ歩くと、変な風にあつかわれる・・
こんな世界で育った人間がどんなことをできるのか。

それなら田舎で、地方都市の車出勤の場所でなくて
年よりは年寄りなりにゆっくり稲を刈ったり

若者は若者なりに、・・・
バイクの音や変な花火がうるさいだろうが俗物めが。

126:考える名無しさん
13/08/07 NY:AN:NY.AN 0.net
地震や災害に備えるでも、大事なのは一日一日の歩く息を吸う
それが昔の人間に対して誇れるレベルなのか。

歩きながら都会の「みんなが一緒におんなじように歩く」

それから抜け出すには自然を観ながら。
値札が付いていない世界にいけるか??
値札が付いていない自然を観て楽しめるか??

127:考える名無しさん
13/08/08 NY:AN:NY.AN 0.net
>>115-116
これはもう仕様も無いことだからね。
進歩の問題として、人類の今の現状は邪智世間智を使わなくても生活できるようにはできていない。
ただし超長期的には使わなくても良い社会を創らなくてはいけないのは事実。
ちなみに欧米諸国は前頭葉主体の社会のままでも
近年は相当に妄智分別智や真智無差別智を重視するようになってきてはいるね。
岡自身も「欧米人は日本人に進化しなくても、日本人によって啓蒙されれば相当に生活態度が変わる。」って
言ってるしな。現にロシアのプーチンの愛読書は国家の品格だったと思うよ。公式には発表していないが。

128:考える名無しさん
13/08/09 NY:AN:NY.AN 0.net
age

129:考える名無しさん
13/08/16 NY:AN:NY.AN 0.net
岡潔:三島由紀夫は偉い人だと思います。日本の現状が非常に心配だとみたのも当たっているし、天皇制が
大事だと思ったのも正しいし、それに割腹自殺ということは勇気がなければ出来ないことだし、それをやって
みせているし、本当に偉い人だと思います。

Q(編集部):百年逆戻りした思想だと言う人もありますが、それは全然当たっていないと言われるのですか?

岡潔:間違ってるんですね。西洋かぶれして。戦後、とくに間違っている。個人主義、民主主義、それも
間違った個人主義、民主主義なんかを、不滅の真理かのように思いこんでしまっている。
ジャーナリストなんかにそんな人が多いですね。若い人には、割合、感銘を与えているようです。
かなり影響はあったと思います。

岡潔「蘆牙」より

130:考える名無しさん
13/08/16 NY:AN:NY.AN 0.net
東海林さだお「岡潔センセイと議論する」

ボクは数学と聞いただけで、数々のいまわしい思い出が、頭をよぎるのである。
解析Ⅰ、解析Ⅱ、幾何、ああ思い出してもセンリツが背中を走る。
数学の授業が始まって終るまでの、あの重苦しい、長い長い灰色の時間よ。
試験の答案をもらうとき、女生徒に見られぬように、パッと引ったくり、すばやく折りたたみ、
卑屈な笑い浮かべて、教壇から自分の机に戻る足どりの重さよ。
考えてみれば、ボクは、あのころから女のコにモテなかったなァ、
と思い出は、よくない方へ、よくない方へと拡がるばかり。
岡先生は、こともあろうにその数学の先生なのである。
考えれば考えるほど身がすくむ。
編集部の人の話によると、今回は、数学の話ではないという。
岡先生の近況は、数学から離れ、
荒廃する日本の行く末を案じて自宅に道場を建てられ、念仏三昧の毎日を送っておられるという。
今回は、岡先生が、どんなふうに日本の行く末を案じておられるのか、
また、次代のにない手である若者をどうお考えになっておられるのか、
そこのところを、ボクが、若者の代表としてうけたまわってくるという趣向だという。
それではということで、早速、編集の人と二人で岡先生の住む奈良へ電話をかける。

131:考える名無しさん
13/08/16 NY:AN:NY.AN 0.net
「もしもし、こちら文芸春秋の浸画讀本の者ですが、今回、『にっぼん拝見』という企画で、
東海林という浸画家が、ぜひ先生にお目にかかって、お話うかがわせていただきたいわけなのですが」
「なに?漫画家が?わたしに?……なぜ漫画家がわたしに会う必要があるのです。
漫画家はふざけて書くから会いません。会いたくありません」
「そこを、ぜひなんとか……」
「日本はいま、どういう時だと思いますか?」
「……」日本は、どういう時かと聞かれ、一瞬ちんもく。チト待てよ、たとえば安保の……
「では、さようなら」
ガチャン。
いったい、なにがどうなったのか、ボクは呆然と受話器を見つめるばかり。
だが現代のマスコミというものは、こんなことぐらいで、ひるむものではないのである。
とにかく奈良まで行きましよう、行けば行ったでなんとかなりますよ、ということになってしまうのである。

132:考える名無しさん
13/08/16 NY:AN:NY.AN 0.net
一月の奈良は、氷るように寒い。
奈良の山を背負った田ンボの中に、岡先生の新居が見えてきた。
文化勲章受賞当時、六畳二間の文化勲章と騒がれた家を引きはらって、
二年ほど前に建てられた白壁の大きな家である。敷地も二百坪はあると思われる。
このへん、坪いくらぐらいするだろうと、俗塵にまみれた漫画家は考える。
ともすれば、ひるむ心にムチ打ち、玄関のベルを押す。
たぶん、お嬢さんと思われる人が出て来て用件を聞き、「しばらくお待ちください」といって引っ込む。
家の中で協議が行なわれているのであろう。緊張の十分。
そして、「お会いするそうです。お上がりください」といわれたときは、
うれしさと、緊張のあまり足がもつれ、よろめくように座敷にころげこんだ。

浸画家といっても、漫画界では一流の、人品いやしからぬ紳士が、ゆったり現われると思いきや、
ヘンなアンチャンみたいのが、赤い背広着てドタドタところげこんできたのであるから、先生としても、さぞビックリされたことと思う。
だが先生は、優しい瞳をして、静かにすわっておられた。
蓬髪、痩躯、鶴のように痩せた、という表現そのままに、先生はキチンと正座されている。ボクも座ぶとんの上にキチンと正座する。
「わたしとしては、漫画家には会いたくないが、東京からわざわざおいでになられたのであるから、
わたしの最近の心境のようなものでしたらお話ししましょう」
といわれる。
早速、メモ帳出してキッとかまえたが、ボクはここ数年、正座というものをしたことがない。
一分とたたないうちに、足がしびれてくる。
足もしびれるが、ボクのズボンは安物なので、ヒザが抜けてしまわないか、それも心配である。シワだって寄る。

133:考える名無しさん
13/08/16 NY:AN:NY.AN 0.net
先生のお話は、まず日本の防衛論から始まった。
先生のお話は、急に飛躍したり、前後がつながらないことが多いが、
これは、先生の頭脳が、通常人の約二万七千倍も速く回転するせいであると思われる。(この二万七千倍については後述する)
「エー日本は兵力の放棄をうたっておりますが、相手の国が(兵力を)放棄するかどうかを考えていません。
(これでは)いったいどうなりますか」
「そして民族の団結心がない。国を愛していない。みんな自己主張ばかりしています。
そしてみな、物質中心の考え方しかしない。こんな状態が続けば国は亡びます」
「あのォ安保条約に関して先生は……」
「今いうよ」
「ハハーッ」
「安保は存続させるべきです。日本のこんにちの繁栄は、安保があって(米軍に)守ってもらっているからこそ、こうなったのです。
もしこれを放棄して、米国が日本から去れば、中共は必ず攻めてきます。これは自明です。今の日本人は、こんなことさえもわからないのです」
「ハハーッ」
「そして日本は、今や、亡国直前のユダヤと同じです。みんな、儲けることしか考えない。
そして団結心がない。そして国を愛するという気持ちがない。日本は亡びます、十中八九亡びます」
「ハハーッ。亡びます……と」

134:考える名無しさん
13/08/16 NY:AN:NY.AN 0.net
ここからお請は情緒の問題に急転換する。
お話のあいだ中、ずっと体は左右に揺れ続け、ハイライトを口


135:にくわえるが、火はつけない。 つけないでまたテーブルに置く、またくわえるということをくり返す。 「情緒の元は、すべて頭頂葉にあります」 ボクの足のシビレは限界に来たが、先生は決して、「おたいらに」といってくださらない。 やむなく、先生のスキをみて、ソロソロとヒザをくずしにかかる。 「最近の人間は頭頂葉を使わずに、前頭葉ばかり使っています。 自然科学的なものの考えの元は前頭葉にあります。西洋人は前頭葉ばかり使ってきました。だから物質第一主義となったのです」 この頭頂葉という言葉は、先生のお好きな言葉であるらしく、じつにヒンパンにお話の中に出てくる。 そして「頭頂葉」といわれるたびに頭のテッペンをバシッとたたかれる。 そのありさまは、ほんとにバシッという感じで、先生の腕時計が、そのたびに、カチャカチャと音を立てるほどなのである。 「日本人は、大型景気に浮かれ、借金をしてどんどん設備投資をしています。 借金だから利子を払わなくてはいけません。ですからそのうち、大量倒産時代が必ずやってきます。 そのとき日本人は団結心がないからたちまち亡びてしまいます。それもみな、情緒というものを忘れてしまったからです。 それは、頭頂葉(バシッ、カチャカチャ)を使うことをしないからです」 そうして先生は「国が亡びるのを座視するに忍びず」その対策を、本に書いたり、人にいったりしてきたのであるが誰もわかってくれない。 「日本人は情操を解するただ一つの秀れた国民です。もともと頭頂葉(パシッ、カチャカチャ)の発達した国民です。 それがいつのまにか、こんなことになってしまった。情けないことです。日本はもうすぐ亡びます」 話が佳境にはいり、熱してくると、体の揺れも激しくなり、「頭頂葉」の出てくる頻度も激しくなり、 当然、頭をたたかれる回数も多くなる。バシッ、カチャカチャも多くなる。 しかし、あんなに頭をたたかれては、頭頂葉のために、よくないのではないだろうか。 あるいは、ああして頭頂葉を鍛えておられるのだろうか。



136:考える名無しさん
13/08/16 NY:AN:NY.AN 0.net
お茶が出、コーヒーが出て、話はどんどん発展する。
「とにかく日本は、いま、亡国寸前です。亡びるのは自明ですから、それまであなたは漫画でも書いていなさい」
「ハイ。そうします」
 お茶を飲みすぎて、ボクの膀胱は、ついに満タンになってしまった。
「あのォ、おトイレは」
「だいたい今の人間は自然科学を重視しすぎます。自然科学で、人間はなにを知りえたでしょうか。
たとえば、今私は坐っている。立とうと思う。そうするとすぐ立てる。これもまた不思議なことです。
全身四百いくつの筋肉が統一的に働いたから立てたのです。
なぜこんなことができるのか。自然科学はなにひとつ教えてくれません」
膀胱をしっかり押さえつけ、シビレる足をなでつつお話を拝聴する。
「今、全学連が騒いでいますが、先生としては……」
「あんなことをしてもなんの役にも立ちません。すべて物質中心主義、自然科学過信がまねいた結果です」
「あのォ、宇宙開発が今盛んに……」
「いくら物質を科学しても、何も得られません。ムダなことです。
宇宙を開発しても人間は幸福になりません。大切なのは心です」

137:考える名無しさん
13/08/16 NY:AN:NY.AN 0.net
「最近の女性は……」
「最近の女性は、あれはいったいなんですか。性欲まる出しにして尻ふりダンスなどしておる。
まったく情操の世界から逸脱しておる。セックスは種の保存のために必要です。
仏教では親が子を生むのではなく、子が親を選ぶのだといいます。
ですから男女のまじわりは気高く行なわねばなりません」
セックスについて語るのに「気高く」という表現が使われたのでボクは一瞬息をのむ。
「最近の若者の無知ぶりはひどい。わたしはせんだってある女子大生の知力をはかってみましたところ、
わたしの二万七千分の一しかありませんでした。そして最近になって、もう一度はかってみましたら、
さらに、そのときの三十分の一になっていました。これはじつに、合計百万分の一ということで�


138:キ」 (略) 「日本の最近の男女の乱れぶりは亡びる前のアテネに似ています」 先生はここで急に声をひそめ、 「日本の共産主義の若いものは、『歌って踊って恋をして』の方針でやっているらしい。 わたしが最近、親しい僧侶から聞いた話では、 男たちが、若い女性を輪姦して、それで女が喜びを知って共産主義に走るということをしているらしい。 これは、私が相当の地位にある僧侶から聞いた語だから、ウソではないでしょう」 ボクは岡先生の口から輪姦という言葉がとび出してきたのでびっくりしてしまった。 そして、老いたる高名な僧侶と先生が、ヒソヒソと輪姦の話をなさっている場面を、思わず想像してしまったのである。 「それにしても」と先生は続ける。「こんなことをして、ほんとうに日本はどうなるのでしょう。 まちがいなく亡国寸前の姿です。日本はまもなく亡びます。十中八九亡びます」と、 おいとまを告げて玄関に出たわれわれに、さらに先生はこう続けられたのである。 玄関で靴をはく間もボクの心は深い憂いに沈んでいた。どうやら日本はまもなく滅びるらしいのである。 本当に日本はどうなるのだろうか。この非常のときに、漫画など書いてていいのだろうか。 不安が次第につのり、胸がいっぱいになり、ぼくはヨロメくように玄関から退出したのである。(略)



139:考える名無しさん
13/08/16 NY:AN:NY.AN O.net
「岡潔センセイと議論する」より 解説(野坂昭如)

岡潔へのインタビュー、というよりその形を借りて、
老先生を肴にした文章/名にし負う狷介孤高偏屈独断の人物を相手に、
その周辺をとびはねているだけの如くみえて、
余人の誰も描き出せなかった岡の人物像を、見事、浮び上らせたのだ。

140:考える名無しさん
13/08/27 NY:AN:NY.AN 0.net
秋が来ると紅葉>>99-105の続き

※今回も音源がありますので、良かったらどうぞ。
URLリンク(www.youtube.com)

141:考える名無しさん
13/08/27 NY:AN:NY.AN 0.net
「家付き、カー付き、ババ抜き」という諺がある。
これは確かにもとはアメリカです。
ところがそれを徹底的にやったんです。
徹底的にやって、とうとう赤ちゃん殺しちまったでしょう。
こういうのがアメリカ色ですね。そうでしょう。
あれはまあ大体、女性じゃないか。
それに相当する日本色っていったら、こんなんがある。

142:考える名無しさん
13/08/27 NY:AN:NY.AN 0.net
平安も末の頃、鳥羽上皇の北面の武士に源渡というのがあった。
これが宮中に仕えて卑しい勤めをしている袈裟というのをもらった。
袈裟は輝くような美貌で、心ばえも優に優しかった。それで夫婦仲はいたって睦まじかった。
ところが同じ北面の武士に遠藤盛遠というのがおった。
これがふと袈裟を見初めて、命懸けで言い寄った。
で、袈裟はこんな風になったら、事態はこうなったら、つまりそんな者にここまで思い込まれたら、
これは貞操を守るために自分の命を捨てなきゃ仕方がない、そう思った。
実際、袈裟が命を捨てなかったら、盛遠は夫の渡を殺しかねない。
もう、かなわんのです。あんな者に見初められたら。
それで夫の留守の夜を見計らって、そして、今夜、主人を風呂に入れて早く寝させつけておくから、
手探りで髪を触って濡れているのを感じたら、一刀のもとに首を打ち落としてくれ、
その後でなければお心に従うことができぬ、そう書き送った。
それで盛遠がその通りにして月明りに透かして見ますと、あろうことかそれは袈裟の首だった。

143:考える名無しさん
13/08/27 NY:AN:NY.AN 0.net
で、袈裟が貞操を守るために命を捨てたという評判は京の街々に伝わった。
そうすると京の街々で貞操をひさいで暮らしを立てていた大勢の哀れな女性達は、
袈裟の葬式の日に長い葬列を作って、そして街外れの田舎まで遠い道を墓場まで送り届けた。
こういう話があります。

※別な講演では岡は袈裟のことを天照大神の分身である、とも発言しています。

144:考える名無しさん
13/08/27 NY:AN:NY.AN 0.net
袈裟のような死に方は、頭頂葉の心が自分だと分かっている人でなきゃあできないんです。
頭頂葉の心が自分だと分かってる人を目覚めた人というんですが、そういう人でなければできないんです。
ところが袈裟はその死によって、どういうことをしたかというと、大勢の哀れな女性達に、
全く虚無に陥っていた哀れな女性達に、人生には尊ぶべきもののあることを教えた。
即ち、生きる望みを与えた。これが日本色なんです。

菊池寛に「袈裟と盛遠」という話がありますが、私が言ったようには書いてない。
で、あの頃、既に、余程駄目になっていた。が、明治は改めて申します。
私の言ったのが、それまで明治以前の日本人が語り伝えてた袈裟物のはず。これが日本色。
こんなにも違うんだから!矜持を持つべきだと思う。これが頭頂葉と前頭葉との違い。

145:考える名無しさん
13/08/27 NY:AN:NY.AN 0.net
ところで、さっきもちょっと言いましたが、頭頂葉の心が自分であると気づいた人を目覚めた人という。
前頭葉の心の描く妄像を自分だと思ってる人、即ち、五尺の体を自分だと思ってる人を眠っている人という。
人には二つの状態しかないのです。目覚めるか、眠っているかです。
目覚めた人は少ない。だけど、あることはある。
日本には少ないといっても相当あります(既にこの当時第10識を自分だと思っていた人は4%はいる)。
中国にもよく見ればありますが、欧米にはないのです。
ところで頭頂葉の心を自分だと思う。即ち、目覚める。これが真我です。そうするとどんな風かというと、
花を見れば花が自分に笑いかけていると思い、鳥を聞けば鳥が自分に話しかけていると思い、
人の喜んでいるのを見れば嬉しく、人の悲しんでいるのを見れば悲しく、
みんなのために働くことに無上の幸福を感じ、疑いなんか決して起こらない。
就中、自分は死んでしもうのじゃあるまいか、などという疑いは決して起こらない。
人は目覚めることはできなくても、できるだけ眠りが浅くならないといけないんです。

146:考える名無しさん
13/09/04 16:16:33.15 0.net
春雨の曲 第4稿 注釈

岡先生は「春雨の曲」第四稿に姉小路公知卿暗殺の記述を遺しているのであるが、
その宗教的解釈によるならば、桂小五郎の妻となった芸者幾松にその責がある。
岡先生が見たビジョンによると姉小路卿こそが天上の神々の使いなのだが、
もう一人の天上の神々の使いである幾松が桂小五郎をそれと勘違いしていた間に生じた手落ちだったというのだ。

通説とは異なり、岡先生によると、
天上の神々の意向に沿う祭政一致の政体を希求した孝明天皇は公武合体を望まなかったが、
この姉小路卿の横死によって祭政一致の近々の実現は不可能になった情勢を踏まえ、
天上の神々は明治天皇の即位を選ぶ。
外圧の危機を乗り越えるために富国強兵を早急に達成する明治時代の迂路を選択せざるを得なかったとする。
だが岡先生が祭政一致の原則に根底から反するとして糾弾するのは王政復古と「五箇条のご誓文」であり、
最終責任者としての木戸孝允(桂小五郎)を許さなかった。
どうも、姉小路卿の横死の責任を、幾松と木戸孝允(桂小五郎)に帰しているのだろうと思われる。

147:考える名無しさん
13/09/05 19:31:58.93 0.net
昭和への遺書>>72の続き

私は初め一高に入ろうと思っていたのであるが、一高の校風の自治が自分の性に合わない、
自分の性に合うのは三高の校風の自由であるとわかって、三高へ入ったのである。
代表的寮歌を挙げると、

(旧制一高寮歌)
嗚呼玉杯に花うけて
緑酒に月の影宿し
治安の夢に耽りたる
栄華の巷低く見て
向ケ岡にそそり立つ
五寮の健児意気高し

(旧制三高寮歌)
紅萌ゆる丘の花
早緑匂う岸の色
都の花に嘯けば
月こそかかれ吉田山

私は三高の自由とはどういうものか


148:今日まで言えなかった。しかしやっとわかった。 これは無差別智と分別智による「植物の喜び」である。 言い換えると神代の心、日本的西洋型精神統一法である。 これに対して一高の自治は世間智が加わる「動物の犇き」だと思った。 それで躊躇なく人生の梶を一高から三高へ取り変えたのである。



149:考える名無しさん
13/09/13 22:11:08.24 0.net
日本が意志中心の国になれば大変なことになりますと・・

実際に現在日本は、人間の意識が作ったものに無理やり適応させようと
がんばっているようですが・・・ぐっすり眠るには
人間の意識が作った機械とはほどほどに付き合えばよいのです。

150:考える名無しさん
13/09/13 22:18:34.78 0.net
日本が中世の暗黒時代の繰り返しになると・・岡が記して
50年くらいになるでしょうか。

いいからあしたから、毎日自分の足で歩いて思索してほしいのです
特に大学生、まだ夏休みでしょうから

毎日自分の足で歩いて、会社員がどんなふうに昼食をとっているのか
よくよく見てください。

151:考える名無しさん
13/09/13 22:35:24.34 0.net
効率よく忘れ、効率よく老化するぞ。
機械で管理された環境にいると。

152:考える名無しさん
13/09/27 04:40:35.41 0.net
岡潔って鬼女(既婚女性)の傍若無人ぶりを極端に嫌ってたが、それ以上に日教組嫌いだったよな。

153:xeo ◆topaTViseQ
13/09/27 05:00:57.90 0.net
んー岡スレがあがってる。

>>88
同じようなことばかり書くのに飽きたんだろう。

>>91
岡全集は絶版になったのかな?

ちょっとまえ、近くの図書館にいったら岡潔全集があったので
パラパラとめくってみた。司馬遼太郎と対談してたね。あんまり
話噛み合ってなかったね。

154:考える名無しさん
13/09/27 06:23:45.40 0.net
「岡潔講演集」より 序(>>66の全文)

この度岡潔先生の講演集を出版することにした。その内容は目次に書いてある通りである。
岡潔先生は市民大学講座の提唱者であり、しばしば本講座で講義されたことがあるから我々とは縁の深い方である。
私は切に諸君がこの本を読む、というよりは熟読することを御勧めする。
「読み易い本」だから御読みなさいと言いたいが、そう言うとウソになる。実に難解な本である。

本が難解であるだけではなく、日常のお話しが難解である。
今から七、八年前だと思うが、私は岡潔先生を奈良の御宅にお訪ねした。
初対面の挨拶も済まないうちに突如として「数学は愛である」という言葉が先生の口から飛び出した。
正直のところ何のことだかよく解らないので、恐る恐る「それはどういう意味ですか」と、うかがいを立てた。
そうしたら先生はどういうものか怒り心頭に達したらしく
「そんなことが解らないか。だからキリスト教とアメリカがいけないんだ」と。それも私にはさっぱり解らない。
そこで私は再び恐る恐る「それはどういうわけですか」と聞いた。
そのあたりから先生の怒りは消え、数学と仏教の話しになった。
それもよく解らなかったが、質問するとまた叱られるから一時間ばかり御説を拝聴して辞去した。
「御説」の内容はちんぷんかんぷんであったが、
私は自分の頭の中にたまっているゴミがすっかり落とされたようなスガスガしさを覚え、その心境は今でも残っている。

155:考える名無しさん
13/09/27 06:31:08.80 0.net
岡潔先生の思想は西洋式の形式論理を超越したユニークなものである。
であるから西洋式の形式論理に当てはめて理解しようとすると難解というよりは理解不可能になる。
ところで


156:問題は我々の常識になっている西洋式形式論理でどの程度まで真理が把握できるかである。 私は極めて小と思う。西洋式形式論理で解る程度の真理は常識で解るのであるから特に論理の必要はない。 わかり切ったことをえらそうに表現するに過ぎない。 ところで岡潔先生の論理は形式論理ではなく、直感の論理である。 だから形式論理で考える習慣を改め直感で考えると先生の言われることがよく解るのである。 岡先生の思想は実にユニークである。従ってそれを説明するのは非常に困難であるし、 強いて説明すると違ったものになる。であるから私は敢えて先生の思想を解説しようとはしない。 ただこういうことは言えるのではないか。ギリシャ哲学、仏教、神道をよく理解した学者は沢山いる。 しかし岡潔先生はこの三つを頭で理解し、心で愛した。そしてその愛を直感的に表現した。 だから難解と言えば難解であるが、心を澄まし、無心無欲で接すれば強く心を打つものがある。 私は諸君がこの本を「とっつきにくい」と言って放棄しないで欲しい。 解らなかったら解らなくてよいから読んで戴きたい。 必ず諸君は読む前と読んでから後とで諸君の心境に何かの変化が起きていることに気づかれるであろう。



157:考える名無しさん
13/09/27 06:39:55.13 0.net
岡潔先生と私は同年である。「数学は愛である」が解らないので愚問を発したので御叱りを受けたが
御宅を辞す時非常に別れを惜しみ「是非また来て下さい」と言われた。
私もまた御訪ねするつもりでいた。そのうち月日が過ぎ去り、彼は故人となった。
もっと沢山仕事をして欲しかった。というのが私の心情である。
何故かというに私は彼ほど、彼の名の如く「潔」い人はこの世にいないと思うからである。
彼は日本の宝、世界の宝であった。宝は既に去った。しかし彼の思想は永久に残る。
すくなくとも私の心には残り、そして働いている。

昭和五十三年九月
松下正寿

158:考える名無しさん
13/09/29 08:28:42.28 0.net
1972年6月6日京都産業大学講義録

物質が法則を満たすということは、物質に絶対的な知性と意志とがあることを仮定してのことである、
仮定しなければ言葉の意味がわからない、と云いますとね、日本人にこんな話をしますとね、『スカミタイナ顔』してる。
スカミタイナ顔と云うのは、日本人にこういう非常に大きな真理を話した時のことです。大きすぎてわからん。
フランス人はねえ、『知的興味を以って膝を進める』。それにキリスト教もあるし、妄智は残っても邪智は取れてることが多い。
日本人は白痴だ!!犬猫と選ぶところないじゃないか!
話が大きくなればなる程、大切なことになればなる程、それが知的な宝であればある程、無関心。
邪智を使っているし、使わなくても側頭葉が引き金を引くから、
共産主義にコロッと騙されたり、的外れな批判や集中攻撃を皆でしたりする。
日本人は意的純粋直観は得意だからそこは大いに誇るべきだが、諸刃の剣なの。
君等の顔がそうなん。大切な知識になる程無関心。こんなのを白痴って云うん。つまらないことだと熱心に聞く。
前頭葉の発育が悪いん!だから応神天皇以後真似ばかりしてる!
白痴だから危なくてしょうがない!いつ何をしでかすかわからん!
だけどこの白痴だって、西洋人を日本人にするには20万年はかかるだろうと云いましたが、
前頭葉の白痴をなおすのだって2千年位はかかるだろう。
ともかく応神天皇の頃からちっとも良くなってやしない。2千年位じゃどうにもならんかもしれん。

それだと仕方ないから、初め、進化の度は遅れてるんだけど、20万年位遅れてるだろうけど、
ともかくレシーバーを持ってる欧米人に先話して、ともかく人類の滅亡を喰い止めるより


159:仕方ないかもしれん。 君等はレシーバーを持たん! えー、これは欧米人から先にったって無理です。 レシーブはしますけど、本当に見ようと思った時、情の目でしか見られんから。 (欧米人は)これが働かないから。だから非常にわかりのいい盲に外界を教えるようなもの。 で、やはり日本人にやってもらうより仕方ない。 (日本人は)前頭葉は非常に悪いんです!



160:考える名無しさん
13/09/29 08:43:50.48 0.net
1973年第2回京都産業大学講義録

聞かんのか!(大変大きな声で一喝)

で、この悲願、これが間違ってると、統一のとれるわけもなく、秩序のあるわけもない。
だから一番始めに心の世界に出た「こころそのもの」(第十三識の造化)がある。
一番始めに心の世界に出た「こころそのもの」を、古事記から採って名前をつける。
『原始天尊天の月読の尊』(ここで学生ガヤガヤと退出)

この無量の天つ神々の悲願が大宇宙の原動力である。
これあるが故に喜びというものは絶えず心の奥底から送られてくる。
こんなふうなん。これが原動力。
これなしに、天つ神々の悲願なしに、何もない。時もない。まして時の内容はありません。

ともかく今は、このままでは間もなく人類は滅亡する。
だから思い切って変えなきゃならん。人類始って以来の『大革命』が要る。
これをやらなきゃ人類は自滅であるということがわかる人の限度が四百万人というわけです。
あなた方にもそのつもりで説いていく。あなた方の四パーセントがわかるわけですから。
だって、他のことをしたって無意味だから。
ところで、これまで人類の歴史に現れた革命というふうなものは、
武力を頼ったり、あるいは人数を頼ったり、つまり力というものによって戦って来ましたね。
今度はそんなやり方では到底駄目なことは明らかですね。今度は知によって戦わなきゃならん。
で、是非やるべきことは、古来の間違った観念、
それが人の生活に大きな影響を与えている、そういう間違った観念の打破です。

だから知といいましたが、もっと遡ると悪い。
ともかく、物質の力なんていう、あるいは個人というもの、つまりからだというもの、数などと、
そんなおかしなものを使って出来る革命じゃありません。人類に一度あって二度ない革命でしょう。
ここを乗り切れば、もはや自滅の危機は来ないと思う。

161:考える名無しさん
13/10/01 11:32:55.83 0.net
数学者・岡博士の記念館 建設へ基金

橋本市は、同市ゆかりの世界的な数学者、岡潔博士(1901~78)の顕彰事業として記念館を建設することを決め、
全国から建設資金などを募るための「橋本市岡潔顕彰基金」を創設した。
建設地は同市御幸辻の杉村公園で、2018年のオープンを目指している。(山田博之)

岡博士は、大阪市で生まれ、4歳から父の実家があった紀見村(現橋本市)で育った。
京都帝国大学を卒業後、「多変数函数(かんすう)論」に関する難問を解決。
戦後は奈良女子大教授を務め、1960年に文化勲章を受章し、61年には橋本市初の名誉市民になった。
岡博士の旧宅(木造平屋約80平方メートル)は老朽化によって2001年に取り壊され、建材は保存されている。
その業績をたたえ、数学教育を推進しようと、木下善之市長や市内外の教育関係者らが2009年に「橋本市岡潔数学WAVE」を設立。
親子を対象にした算数・数学教室や講演会を開いたり、絵本「岡潔博士ってだぁーれ?」を出版したりしてきた。
同時に、記念館を建設する構想を打ち出し、市もこれまで建設に前向


162:きな考えを示していた。 同市によると、記念館は木造平屋で100平方メートル前後。旧宅と似た設計にし、保存中の建材も活用する方針。 岡博士の業績を示す資料を展示し、算数や数学を学習するためのイベントも開催する。 同市は、2014年度に有識者らによる建設実行委員会を設立し、基本設計を策定する予定。 建設費は数千万円規模になるとみており、同基金や国からの補助金を充てる方針。 同市企画部企画経営室の担当者は「記念館の建設や運営に市民も参加できるような方法を考えたい。 岡博士の名前を全国に広め、若い人に地域への誇りを持ってもらうための拠点になればうれしい」と話している。 (2013年10月1日 読売新聞和歌山版)



163:考える名無しさん
13/10/08 23:01:36.12 0.net
研究会関係者と先日お話したところ以下のようなお返事でした。
①岡潔の考えについて知っている人は周囲のいろんな人に岡を広めたり、
 関係者に未出版の資料を問い合わせたりしてほしい。
 黙っていることは美徳とはいえ岡自身は下から葦牙のように盛り上がるのを期待していたので。
 (一歩間違えれば劣化宗教化・全体主義化する危険はあるが)
②現状インターネットしか広報手段が無く地道な活動に留まっており、
 なかなか大きな動きにならず残念である。
③岡の予言通りなら2001年頃にアマテラスが生まれ(愛子さまか?)、
 2010年頃に日本の転換期が来た(東日本大震災か?)。
 なおその後は紆余曲折はあるかもしれないが数世代を経て
 2170年頃、日本は一致結束し世界をリードしてもう安心になる、とのこと。

164:考える名無しさん
13/10/08 23:10:01.75 0.net
>>141
いわゆる知識人のこういうエピソードってさ、ただ単に自分自身の立場(権威)に乗っかって
聞き手をからかってるんじゃないのかね?ただの凡人にこんな対応されたら聞き手は激怒だろwww

165:考える名無しさん
13/10/08 23:18:58.03 0.net
どうなんだろう・・・w

日本人の短所とでも言うべきか、そういうものはからかいにすぐ乗って怒りまくることだからね。
もしくは我慢しすぎて突然暴発するところとか。
あるいはあまり知ろうとしなかったり、いくら矛盾してても気にせず忘れてしまったりすることとか。

岡潔は権威とかそういうのを一番嫌ってたけどね。
すぐキレるのはご愛嬌というかね、知性を働かせすぎるとああなるねどうしても。
周りが無知すぎて我慢なんかしてたらキリがないしね。

166:考える名無しさん
13/10/18 20:02:56.10 0.net
キリスト教の神って一神教だけど、岡自身はそこに大した問題は見出してないよな。
日本の多神教っていうのは第二の心の世界で、「一つであって一つではない」(不一不二)から、数学の使えない世界。
第15識で生まれた内宮さま(原始天孫天照大神)、外宮さま(原始天孫天月読尊)をもとにして、
第13識の造化でそれらが八百万の神々になって、
それより浅い第12識以降で人間が呼んでる存在が岡の解釈する「神」というもの。
だから一神教でも多神教でも岡にしたらどうでもいい主題なんだろう。どっちにしろ偉さは無いから。
レムリア・ルネッサンスや幸福の科学としたらこの辺の区別にはこだわるから岡の考え方とは相容れないだろうけれども。

イエス・キリストっていうのは西洋人としては数少ない


167:第二の心の持ち主なんだな。 だから第一の心で迷える羊の一般西洋人のことを罪人扱いして悔い改めよと説いたが、 それが禁欲となってなんとか西洋は道徳水準を維持しているらしい。 しかし禁欲っていうのは諸刃の剣で、これを悪い方向に解釈したのが宗教改革前のカトリックだな。 プロテスタントとしては憤慨したわけで、アメリカの建国精神にもそういう反省が込められているわけだ。 けれどもこのプロテスタントっていうのもまた厄介で、 カルヴァン派は禁欲するなら金銭を稼ぎまくって良いっていう意味不明な宗教だから、 それが発展に次ぐ発展を重ねて今日の新自由主義となったわけだろう。 ちなみに古典派経済学者のハイエクですら過剰な新自由主義には警鐘を鳴らしていたね。 若い頃は仲の悪かったケインズに対しても彼が亡くなってからは評価する発言をしているし。



168:考える名無しさん
13/10/28 22:27:51.47 0.net
風蘭 1964年5月

女性の、情から知と行くのがうまい行き方で、知から情と行く男性の行き方は下手なのかもしれない。
それはひどく手間がかかるのです。
情から知と行けば、なにか形となって残ります。つまり情緒となってまとまって、それが残ります。
まとまれば、それをつかんだらいいのです。

169:考える名無しさん
13/10/28 22:30:47.46 0.net
紫の火花 1964年6月

私は答案などによってくわしく研究した結果、
男性は普通、知から情に向って意志が働くが、
女性は逆に情から知に向って意志が働くらしいことを知った。
前者は発散し、後者は心の中に残る。
男女二人合わせると意志が動かなくなり、安定するのかもしれない。

170:考える名無しさん
13/10/28 22:42:41.20 0.net
月影 1966年4月

人として一番大切なことは、大脳新皮質に宿る心の珠を磨くことである。
この珠は磨けば磨くほど深い輝きを増して限りがないのである。
この珠がよく光っていれば大脳前頭葉もよく働く。

ではこの珠を磨くためにはどの学科がいちばん適しているかという問題がある。
わたしはそれに対し、それは数学であると答える。その理由を説明しよう。

文芸復興以後の数学史はかなり詳しくわかっている。
ところがそこに出てくる数学者は、多少人格に疑問のある、ただふたりを除いてすべて善人である。
しかもそのふたりとも、その数学のやり方のほうにも疑問がある。
それで数学者は例外なく善人であるといえる。
この事実は、数学科の存在意義の完全ともいうべき裏付けである。

171:考える名無しさん
13/10/28 22:49:59.32 0.net
ここに一つ困った問題がある。たいていの数学者は昼は視覚型、夜は聴覚型なのであるが、
したがってたいていの児童もそうだろうと思うのだが、
まれに昼も夜も聴覚型の数学者がいる。
わたしがフランスで会った人たちの中ではジュリヤがそうであった。
彼には主要な論文は二つしかない(論文の数ならば七十以上ある)。
しかし二つとも非常によいのである。

孫のきのみもその母のすがね(私の長女)もこの聴覚型である。
二学期に見たのはこの母がこの子に教えている数学教育で、わたしには実におもしろかった。
以下に述べるのはこのときのありさまから取ったものである。

172:考える名無しさん
13/10/28 22:56:44.52 0.net
食物の消化を見ると次の順になっている。
「口に入れる」、咀嚼玩味する、「嚥下する」、消化吸収する。
このうち見落としがちな「口に入れる」と、「嚥下する」とが実に大事であって、
これらに相当するものは、数学する場合には、
「前向きの姿勢をとる」、「真情の裏づけをやろうとする」
である。
聴覚型の児童はこの二つを非常に深くやろうとするため(要領が悪いため)、
てまどって、他の子についてゆけないのである。

すがねは今わたしの私設数学研究所で勉強中である。
わたしはすがねに特別な指導をしてやって、
きのみのほうはすがねに教えてもらうことに決めている。
聴覚型の子には何かそういった工夫が必要だろうと思う。

173:考える名無しさん
13/10/28 23:09:44.09 0.net
(算数ができないので先生に呼び出されることもあった当時小学四年生の次女さおりに対し)
さおりのやるのを見ていると、不思議にも少しも数学しているという気がしない。
規則どおりにしなければ×がつけられると思いつめて、びくびくし続けているにすぎない。
ところが、おもしろいことに、間違いのほうに目をつけると、このほうは生彩陸離としている。
初めはおずおず間違うのであるが、だんだん興が乗って、しまいには傍若無人に間違う。
鞍上人なく鞍下馬なしである。
間違いやすいから間違うのではなく、間違えたいから間違うのである。
そうなるとなんだかリズムのようなものさえ感じられる。
生命力は表へは出ようがないから、裏へ出たのであろう。
その表と裏とを変えるのに、私は三月かかったのである。

174:考える名無しさん
13/11/03 13:59:10.87 0.net
高倉健さんらに文化勲章 皇居・宮殿で親授式(産経新聞)

文化勲章の親授式が3日、皇居・宮殿「松の間」で行われた。
今年度の受章者は、映画俳優の高倉健さん(82)▽電子工学の東北工業大理事長、岩崎俊一さん(87)▽書家の高木聖鶴(せいかく)さん(90)
▽万葉集研究で知られる日本文学・比較文学の中西進さん(84)▽医化学・分子免疫学の京大客員教授、本庶佑(ほんじょ・たすく)さん(71)の計5人で、
天皇陛下が直接、勲章を授与された。
続いて行われた拝謁では、受章者を代表し高木さんが「それぞれの分野において一層の精進を重ねる決意です」とあいさつ。
陛下は「今後ともそれぞれの分野の発展のために尽くされるよう願っております」と述べられた。
その後の記者会見では、高倉さんが「日本人に生まれてほんとによかったと思いました」と話した。

175:考える名無しさん
13/11/03 14:10:00.32 0.net
1960年11月3日

私が皇居で文化勲章をいただいたとき、そのあとでコーヒーを御馳走になった。
私はその席で、
「西洋の文化はインスピレーション型、東洋の文化は情操型だと思います。
これは、いわば花木型と大木型というようなものです。
日本の教育は、大木型の人を育てることを目標にしてほしいと思います」
と申し上げた。そうすると皇太子殿下(今上陛下)は、
「大木型の人を作る教育というのは僕も賛成だな」
と仰せられた。是非皆様にお伝えしておきたいと思う。

陛下(先帝陛下)は「数学はどうしてするの」と御下問になった。
私は「数学は生命を燃焼させて、それを結晶させてつくるのです」とお答え申し上げた。
情熱が創造になるのであって、他のものは道具である。
それで大脳前頭葉は感情、意欲、創造といわれているが、
よい創造が起きるためには感情は熱愛、意欲は不動の意志であるのが望ましいと思う。

176:考える名無しさん
13/11/03 14:30:21.32 0.net
【1960年11月3日】数学者の岡潔さんに文化勲章
URLリンク(gyao.yahoo.co.jp)

177:楽天日本一おめでとう
13/11/05 21:21:15.30 0.net
明らかに日本人より台湾人なんかの方が美人が多いよな~ビビアンスーなんて典型。

オカケツは日本の社会が歪んでるからそうなるって言ってたが、まさにそう。
女性って情緒の影響をモロに受けるから、それがそのまま顔つきに出るんだってさ。
男性諸君、女性の顔見りゃ性格まで大体予想つくでしょ?
戦後顔つきが大きく変わったのは、当時の世の中がおかしな時代だったってことだよ。
最近は100年くらい前の顔に戻ってきたね。良い兆しといえば良い兆しかな。

台湾の場合は大陸の悪い部分に汚染されてないからな。
李登輝みたいな人格者は日本にはもういないんじゃないかな。
かつて日中戦争時に日本側についた胡蘭成(オカケツの友人)も
ほとんど知られていないが1990年に台湾から名誉回復されている。
大陸からも2000年代以降は事実上回復されている。

余談だが「カワイイ」系は美じゃなくて感覚だからオカケツは嫌がってたな。
それと日本が西洋に惹かれるのは男性が麗しい女性を見てよろめくのと同じことらしい。

178:考える名無しさん
13/11/06 22:48:33.17 0.net
1969年10月26日

(質問)
私は大学生です。先生に話を伺って、まだ、男子の志した現在の物質文明や、
その中で生活している我々っていうのを、捕えられ得ない訳ですけれども、
今、僕たちが当面している問題の中で、大学、先生が大学は化石化している、
そういうことをおっしゃったんですが・・・

(岡潔)
大学については西洋文明が壊れていくという現れの一つだと、そう言いました。
一度、君の理論を聞きたい!その前に。君の理論を聞きたい。

179:考える名無しさん
13/11/06 22:54:45.47 0.net
(質問)
いいですか。僕たちが関わっている、マスコミを通じて一般に大学紛争と言われるものは、
セクトに分かれている。そして派閥争いのように言われている。
しかし、僕たちが大学において求めているのは、大学の管理運営やそういうものをより民主化して行く。
そして僕たちの本当に聞きたい講義や、そういうものを聞けるような大学を作って行く。自由化して行く。
そしてまた、先生が奈良女子大学の教授であったように、それを大学で何を求めるのか、
大学で何を人間として作って行くのか。そういうことまで突き詰めて、
僕の場合、教育学部ですけれども、明日の教育を担っている、日本の教育を担っている。
そういう教育者として、本当の教育者として、大学の四年間、短い四年間を生活している訳ですけども、
勉学生活や、そしてクラブ生活や、そういうものを通して僕たちの本当に社会に出て、正しい人間になる。
先生のおっしゃる日本精神ですか、そういうものを自分たちで形作って行く。
人間として当然の権利や、そして義務を遂行して行く。
この世に人間として生まれて来て、その中で自分がどのような役割を果たして行くのか。
そういうものを当然四年間の中で求めるべき。そういうものが大学には少ない条件である。
だから僕たちとしては大学の管理運営やそういうものを民主化して行く。
ですから僕たちの講義が全く詰め込み式で、先生が黄色いノートをそのまま開いている。
そして教育の現場にあっては先生を責めました。

180:考える名無しさん
13/11/06 23:01:37.67 0.net
(岡潔)
もう、その辺でやめ�


181:ネさい!君の言ってることはことごとく意識を通して言ってる! その前に、意識を通さないで言うと分るということがなければ! (質問) あのう、どうも先生、失礼しました。 (岡潔) 君は馬鹿です、完全な!泥吐きして白紙に帰りなさい! 真新しい心、真新しい知情意を持って、君が無自主的、無批判的に詰め込んだ欧米の観念を洗いなさい! 何だ、この、自由だの、権利だのと! (質問) 私は先生に罵倒された! (岡潔) 罵倒じゃない! (質問) しかし、私としての二十一年間の生きて来た人間としての、その人生の中で・・・ (岡潔) あなたは!いや、そんな石地蔵はそのまま死ぬだけだ。



182:考える名無しさん
13/11/11 11:27:46.54 0.net
東西のハーモニー 1969年5月

後頭葉や頭頂葉から前頭葉へ行く道に二つある。
西洋人は中心前回の一次運動野を経由して行く。東洋人は経由しないで行く。
経由する場合は非常に無明が濃いため、流れが地下に潜ったようになる。
このため西洋人は東洋人に比べあまり無明が心に入らないらしいが、
一方で第二の心が存在するということになかなか気づけない。
東洋人でも大学教授なんか長くやってると、西洋人に似てくる。

「俺が俺が」っちゅうように人より自分を先にして生きていると前頭葉にいる。
この時、前頭葉から頭頂葉に戻ろうとすると、一次運動野はなかなか登れなくて非常に苦労する。
で、登れないならどうすれば良いか。降りたら良い。
東洋人は訓練すれば、一次運動野を経由するルートと経由しないルートとを使い分けられるようになる。
東洋人が頭頂葉から前頭葉へ一次運動野を経由して降りれば、途中で登ろうと頑張っている西洋人と握手できる。
そうすりゃあ、西洋と東洋が本当の意味で融合できる。
僕も面白いと思って、それで早速、今日降りたんです。

183:考える名無しさん
13/11/26 00:08:15.98 0.net
世界的数学者 岡潔博士の顕彰碑…和歌山

和歌山県橋本市ゆかりの世界的な数学者、岡潔博士(1901~78年)の功績や教えを後世に伝えようと、
橋本ロータリークラブは同市役所前広場に顕彰碑を建立し、24日、関係者約100人が出席して除幕式を行った。
岡博士は大阪市で生まれ、4歳から父の実家があった紀見村(現橋本市)で育った。
京都帝国大学を卒業後、「多変数函数かんすう論」に関する難問を解決。
戦後は奈良女子大学教授を務め、文化勲章も受章した。
橋本市は市内に岡博士の記念館を建設する計画を進めている。
顕彰碑は黒石製で2基あり、ともに高さ約1・8メートル、幅約80センチ、奥行き約45センチ。
「日本民族は情の民族である。人と人との間によく心が通い合うし、
人と自然との間にもよく心が通い合う」などという岡博士の言葉や業績、似顔絵を彫り込んだ。
除幕式では、同クラブの小西捷治しょうじ会長(70)が
「子どもたちの健全な情緒を高めようという教えを世の中に広めたい」とあいさつ。
岡博士の長男、岡煕哉(おかひろや)さん(77)(奈良市)が
「顕彰碑が青少年に夢や希望を与えるとうれしい」と語った。
(2013年11月25日 読売新聞)

184:考える名無しさん
13/11/26 00:14:50.05 0.net
【数学】世界一の難問「多変数解析関数論」を解いた数学者、岡潔の顕彰碑が完成 和歌山・橋本市
スレリンク(scienceplus板:1-100番)

185:考える名無しさん
13/12/04 19:36:12.24 0.net
日本人は他の星から来たって岡は言ってたな(六十万年前)。この時の日本人は神々とイコール。
移動する際は時がある第11識を使い捨てにして、抜き身を行い魂だけ移ってきたらしい。

ちなみに人は肉体が死ぬ時は7識から浅い部分が無くなり、星を移る時は11識から浅い部分が無くなるらしい。
どんなことがあっても12識から深い部分は残るから、生命は不死なんだそうだ。

四大文明は日本人が創ったもので(三十万年前)、
そのうち情を自分だと思うよう天照大神と天月読尊に育てられ、そういう人間だけ選り抜かれ
日本列島に住むことになったらしい(八万年前)。これが天孫降臨。
最終氷期が終了して日本列島の形が大体今のようになった時が神武天皇の時代(一万年前)。

やがてまた他の星に移らないといけない時が来るが、
その時も自然科学的方法では無理で、上に書いたようなやり方をしないといけないらしい。

先々週発売されたLIGHTNING RETURNS : FINAL FANTASY XIIIのストーリーやエンディングもこういう筋書きだった。

186:考える名無しさん
2014/0


187:1/03(金) 22:48:29.94 0.net



188:考える名無しさん
14/01/03 22:56:34.46 0.net
小林:私はゴッホのことを書いたことがありますが、ゴッホを書いた動機というものは、複製なんですよ。
その複製を見て、感動して書いたのです。
その後、ゴッホの百年祭でアムステルダムに行きまして、その原画を見たのです。
ところが感動しないのですね。複製のほうがいいですわ。
色がたいへん違うのですが、その原画は、あんまりなまなましい。
それが複製されると、ぼんやりしていて落着いてくるのです。
複製のほうが作品として出来がいいのですよ。
このごろ真贋問題とかで世の中が騒ぎますが、てんで見当が違うことだと思いますね。
それは贋物と本物は違うという問題はありますよ。
しかし人間の眼だって、そんなによくできたものではありませんよ。

189:考える名無しさん
14/01/03 22:59:01.92 0.net
岡:実際一人の人というのは不思議なものです。それがわからなければ個人主義もわからないわけです。そういう事実を個人の尊厳と言っているのですね。
利己的な行為が尊厳であるかのように新憲法の前文では読めますが、だれが書いたのですかな。書いた連中には個人の存在の深さはわからない。
個人の存在の底までわかり、従ってその全体像がわかってはじめて、その人の残した一言一句も本当にわかるわけですね。
いまの知識階級のごく少数の人だけでもわかってくれたらよいと思います。
個人主義をごく甘くみてしまっているんです。
そういう個人というものがわからなければ、もののあわれというものも恐らくわからないでしょうし、
もののあわれがわからなければ平和と言ったってむなしい言葉にすぎないでしょう。

190:考える名無しさん
14/01/03 23:11:21.48 0.net
小林:岡さんのお考えは、理論とは言えない、一つのヴィジョンですね。私はたいへん面白いと思います。
お書きになるもので大体わかっていましたが、一つのヴィジョンです。
勿論そのヴィジョンが一番よく現れているのは、やはりあなたの数学のお仕事だろうと思うのです。
もしもあなたの親友の数学者が、あなたのお仕事を見れば、これが情緒だと、指でさせるだろうと思うのだ。
それは数学の言葉が通じているからです。
残念だが、それが私にはできない。
でもそれでいいのです。ヴィジョンの閃きを感じれば、それでいいのです。
あなたのヴィジョンが言葉になるところをつかまえる。それしか出来ない。
たとえばね、あなたは、子供がまず順序数というものをつかむと言う。
それから全身の運動を繰り返して、一という考え方、真情をものにすると言う。
私は児童心理学というようなものには不案内ですが、そんな学問が、今なにを言っていてもいい。
あなたのヴィジョンはたいへん美しくおもしろいと思うのです。

191:考える名無しさん
14/01/03 23:17:33.42 0.net
 
文系は特定の人間持ち上げるからたちワルい

192:考える名無しさん
14/01/03 23:20:49.65 0.net
小林:それからもう一つ、あなたは確信したことばかり書いていらっしゃいますね。
自分の確信したことしか文章に書いていない。
これは不思議なことなんですが、いまの学者は、確信したことなんか一言も書きません。
学説は書きますよ、知識は書きますよ、
しかし私は人間として、人生をこう渡っているということを書いている学者は実に実にまれなのです。
そういうことを当然しなければならない哲学者も、それをしている人がまれなのです。
こういうことをしている人は本当に少いのですよ。
フランスには今度こんな派が現れたとか、それを紹介するとか解説するとか、文章はたくさんあります。
そういう文章は知識としては有益でしょうが、私は文章としてものを読みますからね、
その人の確信が現れていないような文章はおもしろくないのです。
岡さんの文章には確信だけが書いてあるのですよ。

岡:なるほど。

小林:自分はこう思うということばかりを、二度言ったり、三度目だけどまた言うとか、何とかかんとか書いていらっしゃる。
そういう文章を書いている人はいまいないと思ったのです。
それで私は心を動かされたのです。

193:考える名無しさん
14/01/03 23:23:35.30 0.net
>>172
大抵の数学の研究者だって、「偉い先生が始めたプログラムだから」「最近の潮流だから」って理由で研究対象を選んでるよ
権威に頼らない独自の価値観なんて稀

194:考える名無しさん
14/01/05 09:46:09.29 0.net
皆知ってると思うけど>>166の全レス掲載版
スレリンク(scienceplus板)

195:考える名無しさん
14/01/05 12:30:09.47 0.net
香ばしい熱弁を振るう人の多いこと多いこと

196:考える名無しさん
14/01/05 20:42:17.79 0.net
そういう板でしょ。哲学板だもんここ。オカケツが嫌なら来るなよ。

197:考える名無しさん
14/01/05 21:06:10.72 0.net
いや、>>175のリンク先のこと

198:考える名無しさん
14/01/11 09:09:35.57 0.net
情と日本人 1972年3月

※数学者 岡潔思想研究会にも掲載されていますが、最も大事と言ってよい文章なので再掲します。
 大事なことなので二回言いました、ってやつです。再び再びと読むと新しい発見があります。

今日初めて聞かれる方もあるかも知れませんが、その方にとっては関係ないことだけど、そうじゃない方もおられる。
で、そうでない方に対して、今日また同じことを繰り返そうと思う。
どういうことかというと、日本人は「情」の人である。
人としてそれが正しいんです。そうであるということが非常に大事だのに、少しもそれを自覚していない。
日本人は情の人であるということを自覚するということが、
今非常にしなければならないことであると本当に分って、
本当にそう思うようになってもらいたいと思うんです。
つまり、言葉でいえば「日本人は情の人である」だけなんです。
そういえば成程と思う。これは日本人だからだと思いますが、しかし、それから先が進まないんですね。

大阪へ行って淀川を見る。これはひどい、これではいけないと直ぐ公害を思うんだけど、
川が見えなくなるとけろりと忘れてしまう。そんな風な分り方ではさっぱりことは進展しない。
で、そうじゃないようにしようと思う。
そうすると、結局同じことを繰り返し繰り返しいうことになってしまう。
そうする他はない。それで今日も同じことを繰り返していおうと思うんです。

199:考える名無しさん
14/01/11 09:25:49.80 0.net
戦後、幸福ということをよくいう。
世界のはやりに従って、日本はことにアメリカの真似をして、近頃の人は幸福ということをよくいうんですが、
戦前は幸福などといわなかったものです。
幸福とは何が幸福かということですが、これは知、情、意のうち「情」が幸福なんです。
知が幸福だの、意が幸福だの、意味をなさない。
よし意味をなしたところで、そんな幸福どうでも良い。自分の情が幸福と思う、それが幸福なんでしょう。

人は動物ですが、動物の中で割合信頼できます。
なぜ信頼できるかというと、人には人の情というものがあるから信頼できる。
みすみすなことは大抵はしない。それは人には人の情というものがあるからです。
こんなことをしてはいけないんだがなあと情の思うことを、知や意のすすめによってする。
そうするといつまでも心がとがめる。これが情です。漱石の「こころ」もこれを書いている。

そうすると道徳とは人本然の情に従うことである。そういえると思う。
また情というものがなかったら、道徳とは何かという前に、道徳というものが存在し得ないでしょう。
人に情あるが故に道徳というものが存在し得るのです。
道徳とは人本然の情に従うのが道徳です。背くのが不道徳です。ところが古来そういった人は一人もいない。

200:考える名無しさん
14/01/11 09:26:51.64 0.net
孔子なんか随分道徳について説いた。それが儒教ですね。
ところが儒教はいろんな形式は詳しく説いていますが、内容は説いていない。
儒教の内容は「仁」で


201:す。ところが仁とは何かということいってない。 だから儒教は形式は分っても、内容は分らない。 仁とは何であるかというと、人本然の情、それが仁でしょう。 情の中から不純なものを削り去って、良い所だけを残して、 これを「真情」ということにすると、真情が仁です。ところがそういってない。 真情が仁だといえば誰にでも分る。だから真情に従って行為するように努めるのが儒教の修行になる。 ところが内容が仁であるのが道徳であるというんだから、どうしていいか全く分らない。 それで形式ばかり重んじている。それが儒教でしょう。少しも実があがってない。 情と知と意を比べてみますと、情は自分の体だけど、 知や意はなんか着物のような、そういう感じがするでしょう。 知的や意的に分ったって、本当に膚で分ってないという、そういう気がするでしょう。 今度、赤軍派の学生が無茶をやった。そうすると皆それを非難している。 それで日本は赤軍派の学生のようなものを出したという短所よりも、 ああいうものが出たら皆非難するという長所を現わしたわけです。 つまり赤軍派には情がない、惨酷であるということをひどく非難している。 ああいうものが出たら直ぐそれを非難する。これが日本人の長所です。 短所を恥じるよりも長所を誇った方が良い。しかし、そうであるという自覚がない。 だからそれから先、話が少しも進展しない。 こういうものが出るのは、人の本体は情であるから、教育は何よりも情をつくるべきである。 教育は全く間違えていると、そういう意見は新聞にはひとつもなかった。情が非常に大事だということ、分るでしょう。 情が自分であるという自覚があったら、それを踏み台にして知や意を働かすことができるんだけど、 その自覚がなかったら、何が何だか分らないのですね。



202:考える名無しさん
14/01/11 09:35:03.96 0.net
日本人は誰でも、情が自分だといえば成程そうだと分りますね。
そうすると、情が自分だという自覚がなかったら、どんなにものがうまく運ばないのかということの方を知れば良いでしょうが、
ともかく情が自分だということは、日本人ならいわれたら直ぐ分る。
だが、本当の自分とは情であると、はっきり思った日本人は一人もいないらしい。
何故かといったら、そんなこと誰も書いてない。
誠に不思議なことだけど、情が自分だといった人はありません。
日本人にないんだから、世界にそんな人はありません。
そういう人類は一人もいないということになる。

東洋は情を自分だとは思わないらしい。
心は情、知、意の順に働きますが、その情、知、意と連ねた心というものを自分だと思っているらしい。
これは日本人である私には想像のつかないことです。
どうすればそんなことが思えるのか分らないが、そう思っているに違いない。
その証拠には、中国では知が基だといいますが、仏教も知が基だといっている。
それだったら心が自分だと思っているんでしょう。そうでなければ、そんなこといえる訳がない。

西洋人に至っては、情の中で大脳前頭葉で分る部分、これが感情ですね。これは極く浅い情です。
もっと深い情を西洋ではどういっているかというと、ソール(魂)といっている。これが情です。
西洋人は悪魔に魂を取られはしないかと思って、びくびくしている。
そうすると情というものは大切なものではあるが、自分ではないと思っているんですね。

東洋人はまだしも、心を自分だと思っているから、その中には情も含まれますが、
西洋人に至っては情を自分だと思っていないらしい。
その魂という程の深みの情、これも今の日本人には分りにくいでしょう。
感情などというのは極く浅い情。
もっと深い情とは一口にいって、どんな風なものか。これは一例をあげれば良い。
日本人は情というものを無意識的によく知っている。それで一例をあげれば足りるんです。

203:考える名無しさん
14/01/11 09:39:16.43 0.net
明治になってからの話ですが、お母さんと子供が住んでいた。
子供が13歳になった。そして禅の修行をしたいといい出した。
それで修行の為に家を出ることになって、いよいよ別れるという時になって、お母さんはこういった。
お前の修行がうまくいって、人がちやほやしている間は、お前は私のことを忘れていても良い。
しかし、お前の修行がうまくいかなくなって、人に後指を指されるようになったら、
私を思い出して、私の所へ帰って来ておくれ。そういった。

それから30年程たった。子供は修行がうまくいって、偉い禅師になった。
松島の碧厳寺という大きなお寺の住職をしていた。
その時、郷里から使いが来て、お母さんは年をとって、この頃では寝たきりである。
お母さんは何ともいわないが、私達がお母さんの心を推し量ってお知らせに来た。そういった。

それで禅師はとるものもとりあえず家に帰って、寝ているお母さんの枕辺に座った。
そうするとお母さんは子供の顔を見てこういった。
この30年、私はお前に一度も便りをしなかったが、しかし、お前のことを思わなかった日は一日もなかったのだよ。

私はこの話を最初、杉田お上人から聞いた。その時、涙が流れて止まらなかった。これが情の本体です。

204:考える名無しさん
14/01/11 10:07:12.19 O.net
こういう情というものがあるのだということを西洋人は知らないのでしょう。この情を魂といっている。
人にはこういう情というものがある。それが人の本体です。
幸福は情が幸福なのであって、道徳は情があるが故にあるのである。明白なことです。
ところが、こういうことをいった人類は一人もいない。
私だってこんなこというのは今年になってからです。そうすると七十年かかっている。
一旦分っていってみれば、こんな明白なこと。ところが、それが言葉にいえないらしい。

戦後日本は情というものを非常に粗末にしている。情が非常に濁っている。
多くは自己中心的なもので濁っている。その上ひからびている。
これは改めなければいけない。
これを改めるには、日本人は情の人だけど、その自覚がない。
それを自覚するということが非常に大事です。
自覚するといえば情の目で見極めること。知や意では自覚できない。
大体、「知、知」と知を大事にする。中国人もそうだし、印度人もそうだし、西洋人だってそうです。
今の教育なんかもそうだけど、
知ということについて少し深く考えてみた人、あるだろうか。私はないだろうと思う。

205:考える名無しさん
14/01/11 10:27:42.43 O.net
知の働きは「わかる」ということですが、そのわかるという面に対して、今の日本人は大抵「理解する」という。
ところが、わかるということの一番初歩なことは、松が松とわかり、竹が竹とわかることでしょう。
松が松とわかり、竹が竹とわかるのは一体、理解ですか。全然、理解じゃないでしょう。
理解というのは、その「理」がわかる。
ところが、松が松とわかり、竹が竹とわかるのは理がわかるんではないでしょう。
何がわかるのかというと、その「趣」がわかるんでしょう。
松は松の趣をしているから松、竹は竹の趣をしているから竹とわかるんでしょう。
趣というのは情の世界のものです。だから、わかるのは最初情的にわかる。
情的にわかるから言葉というものが有り得た、形式というものが有り得た。

それから先が知ですが、その基となる情でわかるということがなかったら、一切が存在しない。
人は情の中に住んでいる。あなた方は今ひとつの情の状態の中にいる。
その状態は言葉ではいえない。
いえないけれども、こんな風な情の状態だということは銘々わかっている。
言葉ではいえない。教えられたものでもない。
しかし、わかっている。これがわかるということです。
だから知の根底は情にある。知というものも、その根底まで遡ると情の働きです。

206:考える名無しさん
14/01/11 10:35:49.40 0.net
それ、わかるでしょう。これがわかっていないから、知的にいっても今の教育は全然駄目なんです。
上滑りしてしまって、形式しかわからない。本当にわかったんじゃない。
「悟る」というのは本当にわかって自覚する。これは情の目で見極めることです。
芭蕉は「散る花、鳴く鳥、見止め引き止めざれば留まることなし」といっていますが、
見止め聞き止めるのは情の目で見極めるのである。
情の目で見極めるのが「悟る」「自覚する」ということです。そうすれば存在して消えない。
存在を与えているものは情だけです。
これも銘々経験があるでしょう。深い印象とか深い感銘、これは決して消えないでしょう。
生涯消えないでしょう。こんな力を持っているのは情以外にありません。

人の本体は情であると知ることは、非常に大切なことなんです。
大勢の人がそれがわかったら、例えば教育はいっぺんに改められます。
そうすれば余程変わって来る。そうする以外にやりようがない。

207:考える名無しさん
14/01/11 10:41:14.10 0.net
公害という問題が欧米から輸入されて、日本で大分やかましくいわれている。
日本人は、人は情の動物であるということは、自覚なしにだけどよく知っている。
それと共に、もう一つ詰まらないことを思っている。
文化とは外国から入って来るものだと思っている。外国から入って来ないものは文化にあらずと思っている。

それで公害という言葉、これは文化の一種ですね。
外国から入って来て、日本で大分やかましくいわれている。
外国にオリジンがあるから、こんなにジャーナリズムが取り上げたんですよ。
しかし公害、さっぱりうまくいかない。
何故うまくいかないかというと、情の濁りから取り去らないからです。
単に濁りだけじゃありませんが、情からきれいにして行かないからうまく行かない。

これは二つの点でうまく行かないのです。
一つは情が濁っていますから、すぐ自己中心の考えに走る。
それで企業が公害を取り除くことに反対します。
政府だって、やはり産業優先というようないことを考える。一つはそういう害がある。
もう一つは、情が生き生きと働かなかったら、存在というものがない。
それで淀川を見ても、これはひどい濁りだなあと思っても、それが見えなくなったらけろりと忘れる。
だから公害だって、みんなが絶えず心に留って、気に掛かるという風じゃない。
この二つからうまく行かない。それで情をきれいにし、よく働かすようにするより仕方がない。

208:考える名無しさん
14/01/11 10:46:57.71 0.net
日本歴史を昔からずっと見てみますと、応神天皇以前は多分うまく行っていた。
が、応神天皇の時、中国から文化を取り入れた。そうすると、知が人の中心だといっている。
その後、印度から仏教を取り入れた。やはり知が中心だといっている。
ともかく情が大事だといってない。
それで本居宣長の頃になって、「漢意からごころ清く捨てらるべし」、そんな風になって来た。
どんな風にいけなかったかというと、ともかく儒教の修行も仏教の修行も、ひどく陰気くさく見えたんだと思う。
儒教は形式一点張り。だから裃を着て、しゃちほこ張ったようなものになってしまう。
仏教の方は難行、苦行が多い。大体、意志の修行です。だから矢張り暗いものになってしまう。
そうしてうまく行かなかった。
それだけじゃなく、単に濁りを取るということに留めて、情を積極的にはぐくみ育てるということを全然しない。
つまり今でいえば、情操教育ということをしない。
情操教育という言葉ですが、情操教育が大事だっていったら、絵をかかせたり、音楽ひかしたり。
そんな馬鹿な。人本然の情がよく働くようにするのが情操教育です。まるで見当外れをやっている。

209:考える名無しさん
14/01/11 11:10:14.33 O.net
ともかく情を軽んじたんでしょう。だから本居宣長

しきしまの大和心を人問はば

朝日に匂ふ山桜花

情緒というものが大事であると思っているんでしょう。
はっきりそうと分っていませんが、何となくそれが分ったんでしょうね。
それで「からごころ清く捨てらるべし」といったり、
「しきしまの大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」といったりしたんでしょう。
情が自分だから、情を大事にせよとずばりいえなかったんだが、
あそこでもっと自分を振り返ってみる暇があったら、それの分る日本人も出て来たかも知れない。
あそこでは、ぐずぐずしていたら滅ぼされてしまうという、そういう状態にあったから、大急ぎで明治維新をやった。
それから外国と戦うために兵器を準備した。
兵器を準備しようと思ったら、西洋の学問より仕方がない。
それで西洋の学問を取り入れた。そのうちにすっかり西洋の学問に溺れてしまった。戦後はそれが極端にまで来ている。
こんな風な訳で、日本人はまだ一度も応神天皇以前の日本人がどんな風だったのかということを、
ゆっくり考え自覚する暇がなかった。
それで一人も、日本人は情の人であると、それが人として正しいのである、といった人はいないのです。
が、それが非常に大事です。

※規制回避のため続きは後日。誰か雑談していて下さると助かります。

210:考える名無しさん
14/01/11 13:29:59.25 0.net
test

211:考える名無しさん
14/01/11 13:33:19.25 0.net
道徳がうまく行かないのは、情を重んじないからです。
情のみがこれが道徳か、これが不道徳かを見分けることができる。
これは教えなくても分っている。だから道徳というものが有り得るんです。
ところで、日本人は情の人ですが、今だって意識してはいませんが、情の人の如く行為しているんだけども、
その自覚がないから知や意の働かしようがない。だからそれから後、さっぱり進展がない。
だから情の人であるというのが正しいのである。それが大事である、という自覚をしてもらうことが非常に大事なんです。
その為には一人一人が自分がそうなって隣の人に話し、成程そうだとうなずかして行くのが早いんだけど、
そのきっかけが仲々つかめないらしい。で、同じことを繰り返し繰り返しいう外ないだろうと思う。
同じ一つのことについてだから、同じ話になってしまうんですが、それを繰り返すのはその効果がないからです。
一人になった時、やっぱりそう思っているということもなければ、
新たな人にその話をするということもしないから、ひとつも進展がないんですね。

212:考える名無しさん
14/01/11 13:37:35.68 0.net
一通りその自覚が行き渡ってからでなくては、教育一つも変えられはしません。
今のままの情を粗末にする教育では、赤軍派の学生のようなものがみすみす出るということが分っていても、変えられない。
どう変えればいいかは簡単だけど、大勢の同意がいるんですね。
それには一人一人に自覚してもらうより仕方がない。
で、根気よく繰り返し繰り返しいっている訳なんです。

一つは情がエゴイズムで非常に濁っている。
もう一つは、生気が充分生き生きしていないんです。
情というものだけど、生きるとういうことは情が生き生きすることだと思う。

情がどうして生き生きしているのかということですが、今の自然科学の先端は素粒子論ですね。
これも繰り返しいっているんだけど、その素粒子論はどういっているかというと、
物質とか質量のない光とか電気とかも、みな素粒子によって構成されている。
素粒子には種類が多い。しかし、これを安定な素粒子群と不安定な素粒子群とに大別することができる。

213:考える名無しさん
14/01/11 13:42:21.88 0.net
その不安定な素粒子群は寿命が非常に短く、普通は百億分の一秒くらい。
こんなに短命だけれど、非常に速く走っているから、生涯の間には一億個の電子を歴訪する。
電子は安定な素粒子の代表的なものです。こういっている。

それで考えてみますに、安定な素粒子だけど、例えば電子の側から見ますと、
電子は絶えず不安定な素粒子の訪問を受けている。
そうすると安定しているのは位置だけであって、内容は多分絶えず変っている。そう想像される。
いわば、不安定な素粒子がバケツに水を入れて、
それを安定な位置に運ぶ役割のようなことをしているんではなかろうか。そう想像される。
バケツの水に相当するものは何であろうか。私はそれが情緒だと思う。
やはり情緒が情緒として決まっているのは、いわばその位置だけであって、
内容は絶えず変わっているのである。
人の本体は情である。その情は水の如くただ溜まったものではなく、
湧き上る泉の如く絶えず新しいものと変っているんだろうと思う。それが自分だろうと思う。
これが情緒が生き生きしている理由だと思う。生きているということだろうと思う。
自分がそうであるように、他(ひと)も皆そうである。
人類がそうであるように、生物も皆そうである。
大宇宙は一つの物ではなく、その本体は情だと思う。
情の中には時間も空間もない。だから人の本体も大宇宙の本体にも時間も空間もない。そういうものだと思うんです。

214:考える名無しさん
14/01/11 13:47:38.37 0.net
ともかく、生きるということは生き生きすることです。
それがどういうことであるか見たければ幼な児を見れば良い。
情は濁ってはいけない。また情緒は豊かでなければいけない。
教育はそれを第一の目標とすべきです。でなければ知はよく働かない。意志も有り得ない。
意志というのは知が描いた地図の上に、この道を歩こうと決めるようなものだから、
地図がぼんやりしていれば意志もぼんやりしてしまう。だから情、知、意の順にうまく行かないのです。その基は情です。

情はエゴイズムで濁ってはいけない。生き生きしていなければいけない。
また、宣長が歌に詠んだように、諸情緒が絢爛と華やかでなければいけない。教育はこれを目標とすべきです。

今の日本は情が濁ってひからびてしまっている。
これを早く変えなければ大変なことになってしまう。そう思うのです。
充分に膚で分ってほしいですね。
なんか私がいっている間だけ、なんとなくそういう気がするが、済んでしまったら忘れてしまうんでしょう。
そういうものなんです。

人類というのは音楽が割合よく分るんですが、情が流れているとそれを感じるんでしょう。
流れが止むとそれを覚えていないんでしょうね。見極めないから存在までいかないのでしょうね。
見極めるには自分で情を働かさなければ。
人の動かすのをただ情的に感知するに留めておくから、その人の情の動きがなくなると一切がなくなってしまう。
自分の情を動かす。自分で見極めなければいけない。それをやってほしい。
これが知性の教育なんです。知が大事だっていうなら、学校はこれをやらさなければいけないのです。
自分で情を動かして、情の目で見極めるということを充分やらさなければいけないのです。
どんなにやらしても、やらし過ぎるということはない。

215:考える名無しさん
14/01/11 13:53:03.94 0.net
何しろ難しい問題です。松とか竹とかが分るのは知だといって放ってあるでしょう。
これが世界の人の目です。はなはだここは見にくい。
よく見てみると情が分るからです。松の趣というものが情で分るから、それで松とか竹とかが教えられるんですね。

情が働かなかったら教えようがない。盲に自然を教えようとするようなもの。
知の地図の上に描くのが意志であり、情あるが故に言葉も有り得る、そして形式も有り得る。それが知。
根本は情だということを充分自覚してもらわなければいけない。

人本然の情に従うのが道徳である、といった人が一人もいないというくらい人類は馬鹿なんです。
それで世界がうまく治まる訳がない。だけど一人もいませんよ。
儒教なんか見てみますと、仁が基だといっているのに、その仁が情だとはいっていないんだから、余程わからないのですね。
仏教の修行を見てご覧なさい。意志で修行しようとする。それで多くは難行、苦行です。大抵そうです。

216:考える名無しさん
14/01/11 14:01:31.00 0.net
情が本体であるということを知って、まっ先に教育を変えなければいけない。
学校教育もですが、家庭教育を変えなければいけない。
赤ん坊の時は情の中に住んでいますが、生まれて3ヶ月は「懐しさと喜びの世界」ですが、
これがずっと続けば良い。成年ぐらいまで続けば良い。
成年ぐらいまでずっと「懐しさと喜びの世界」に住むようにするのが家庭教育です。
そして、これさえできていれば、あとの教育は簡単なものです。
こんなこと直ぐできる。気付かないのですね。だから、みんな知っていただきたい。

みんながそうなる為には、一人一人が先ずわかってもらいたい。
わかる為には自分の情の目で見ることですが、いちいち見て成程とわかったら、まだわかってない人にいう。
そのやり方なら初めは極く少しの人ですが、直ぐ広がる。そうしてもらいたいと思う。

世界を救う道は日本人ほどやり易くはないだろうけど、結局は情が人であると教えることです。
ヒューマニティーが道徳に一番近い。
それだのにカントは「実践理性批判」、理性というようなものが道徳に近いという。見当違いです。
赤ん坊は理性など働かしはしません。こころの世界に住んでいる。
むしろ、あんなものを働かさないから、こころの世界に住んでいる。
真情の命じるままですね。
それが道徳であり、それが幸福なんです。

※以上になりますが、岡の示唆は不器用に繰り返し繰り返し読まないと本体が見えてこないようになっています。
 講演当時はさらに文献も無い時代でしたので、ちんぷんかんぷんさに拍車がかかっていたようです。
 しかし、大事なのは文字や言葉ではなく情。「日本人は情の人である」をよくわかってもらうことが岡の願いでした。

217:考える名無しさん
14/01/16 13:25:28.00 0.net
風変わりな憲法 1969年5月

※九段会館で講演が行われました。靖国神社近くに位置し、二・二六事件で戒厳司令部が置かれた建物ですが、
 東日本大震災のため現在は閉館しています。
URLリンク(www.youtube.com)

218:考える名無しさん
14/01/16 13:35:12.82 0.net
このような風変わりな、敢えて憲法とは言いません、文章を、私あまり読んだことがない。(割れんばかりの拍手)

新日本国憲法の前文というのが中学校の社会科の教科書の、
多分中級、二年位と思いますが、後に付いてた。読んでみた。
そうしますとね、あそこに何と書いてあるかというと
「利己主義で悪かったな、利己主義のどこが悪いのだ」と書いてある。
いくら何でも、そりゃあ日本とアメリカと違いますが、どうせアメリカから示唆受けたんでしょう。
いくらアメリカ人でも「利己主義のどこが悪い」っていうのは如何にも変だから、
それで段々様子を聞いたんですが、これはイギリスに向かっての独立宣言の時の文章がお手本になっています。
だから植民地アメリカの人達が、英本国のあまりの仕方に腹を立てて
「利己主義のどこが悪いんだ」とそういう啖呵を切った。これでやっとわかった。

219:考える名無しさん
14/01/16 13:43:58.92 0.net
それとそっくり内容的には取って来て、そして日本国新憲法の前文としたんです。
この、日本は千三百年、仏教の理屈でやって来ました。
それ以前は、大体、日本民族になってから三十万年、そういう理屈なしにやってました。
明治までは、その中に自然を浮かべ、人の世を浮かべている広々とした心が自分だと、
はっきりこうなってたんです。明治以後、それが大分乱れ始めましたが、
五尺の体が自分だとはっきり書いてあるのは日本国新憲法の前文が初めてです。
真の自分といえば、その中に自然を浮かべ、人の世を浮かべてる広々とした心です。
だから自然が喜んでおれば自分は嬉しい、人の世が喜んでおれば自分は嬉しい、
一人でもひどく悲しんでいる者があれば自分はひどく悲しい。
これが真の個人という意味です。

220:考える名無しさん
14/01/16 13:52:14.94 0.net
で、真の個人というものを諭しても人はまたしても迷って、五尺の体を自分と思いがちだから、
それは迷いであると骨折って教えたのが仏教です。
明治まで千三百年そう教えたのですが、明治以後はあまり言わなくなっている。
この、欧米人は物質主義、個人主義ですから。
言わなくなったけれども、それでも善い行いというのは終戦までは、人の為にする行いが善い行いであって、
自分の為にする行いは利己主義、利己主義は唾棄すべきものだとなっていたんです。
それを全然ひっくり返して言ったのが日本国新憲法の前文です。(拍手)
風変わりはわかってる、一番始めからしてそんな風だから。

221:考える名無しさん
14/01/16 14:15:30.06 0.net
奈良女を卒業したねーちゃんがいつもいっていた。肉やの前で
ド近眼のオッサーンがじっとはかりをみつめていた。それが
おかけつだったと。

222:考える名無しさん
14/01/28 01:19:01.95 0.net
葦牙

(岡潔)
お孫さんがかわいいでしょうって言われたら、私目に角を立てます。
縁あって絶えず一緒に住んでいる。
大切にはしますが、だけどそれだけ。
舞台が終われば、また離れてしまう。
暫くの間しか一緒におられないのだからというので、特別に大切にはしますが、
自分の孫だからかわいいんじゃない。

(質問)
子供を見ておりますと、みなどの子供もかわいい。
と言いますのは、近所の小さな子供がおりますね、
子供は自分の家も他の家も全然区別がないですね。
ところが、大人はどうしてもそういうのをおさえたがる。

(岡潔)
大人が間違っている。

223:考える名無しさん
14/01/28 01:26:37.21 0.net
(質問)
それがいけないわけですね。

(岡潔)
ええ。日本なら日本、まあ、日本だけにしないと、他国は遅れていますから。
日本の国が一つの懐かしさと喜びの世界、
そうなるようにと思っていろいろ考えていきゃ、なんにもむつかしいことはない。
政治も教育も。懐かしさと喜びの世界に住んでいるということを物質的に表現する。
そうすりゃあよい。子供が正しい。

(質問)
そういう意味ったらおかしいですが、そういうことで私、
女性の方、出来るだけ早く結婚したらいいと思ってたんです。

(岡潔)
そりゃ大変結構です。(笑)日本人はそんなふうなんです。

224:考える名無しさん
14/01/28 01:45:03.71 0.net
(質問)
小さい時の教育を誤ると大きくなってからではちょっと方法が無いということですが、
昔のように国が規制するということも無い現代において、
人間が個々別々で自己本位になっていく現状は、なんとかしなければいけないわけですが、
当面、差し当たって何か一つ指針のようなものがあれば、お示し戴きとうございます。

(岡潔)
第一の心がいけないんですね。
自己中心が一番いけないし、それから、理屈もあまり言っちゃいけない。
第二の心の一番基本的な働きは、心と心が合一することだと言いましたが、
情緒としては、懐かしさという情緒が一番基本になるのです。
第二の心が働かないと、人が懐かしかったり、自然が懐かしかったりしないんですね。
そういう外界が総て懐かしいという、その基本的な働きが著しく弱くなっているんです。
根本を放っておいて、枝葉末節をいろいろやったところで、とても直りはしない。

225:考える名無しさん
14/01/28 02:00:31.49 0.net
(岡潔)
ともかく、欧米は間違っている。その真似を止めなきゃいけない。
これを自覚することですね。アメリカの真似をするからいけない。ソビエトの真似だっていけません。
大体、そういう基本的な評価が間違っていてはどうしようもない。

(質問)
そのどうしようもない状態におきまして、葦牙会の指導方針と言いますか、
何か具体的なものはどういうところにあるんでしょうか。

(岡潔)
今日本は間違ってる。欧米の真似は止めなきゃいけないと言っても、なかなか聞きませんね。
なかなか聞かなくても、まあ、ここへ来て下さる方は、聞いてやろうという稀な方ですから、
まあ細々と話でもしていかなきゃ。
三島由紀夫さんのような思い切ったことやっても、感銘は与えるでしょうが、それ以上の効果はないでしょうしね。
全く日本はどうなっていくのかと思いますが......

第二の心が神ですね。もし神々が働いてくれなかったら、日本は滅びるでしょう。
肉体を持ってない第二の心やそれに目覚めた人を神と言ってるんですが、
それ以外だけでは、ここまで悪くなった日本を元へ戻すことは、到底出来ないでしょう。
それくらい悪いんです。

226:考える名無しさん
14/01/28 02:14:40.73 0.net
(岡潔)
第二の心の世界というのは、それが欠けると、それを知っている人の目には非常によくわかるんです。
が、それが欠けてる本人の目にはちっともわからんのです。
だからいくら言ったって、聞きやしない。
これに対して、良い方法って、思い当たりませんね。
いろいろ言うんだけど、今日もここで言ったこと、皆さんはどれだけ聞いて下さったか、甚だ疑わしい。
余程日本人の中ではよくわかる方々でしょうが、それでも、どれだけ聞いて下さったかは甚だ疑わしい。
それくらいわかりにくいんです。
年長者の素行見てたり京産大生の作文読んでたりしたら、まるでしょうがないなあ、ちっともわかってないなあと思うんですが、
それをみんな思ったら、もっとやかましく言うでしょうが、思わんのでしょう。

227:考える名無しさん
14/01/31 22:46:58.94 0.net
「情、知、意」の知とは、「理性」のことであり、この「理性」は西洋哲学の中心にある概念です。
しかし、「情」は「思いやりの心、なさけ、主観的な意識などのことですが、この説明では漠然としている。

岡潔の「情」は、物事の根底にあって最も“重要”なものであるが、現代の社会、科学の種々の理論、主義に
対して、同じ「土俵」の上で“改革と創造”を進めて行かなければ、“情”という言葉だけの記憶として人々の
心に残るだけであり、 そして…それはいつしか人々から忘れさられてしまう。

「情」という概念(心性)が、人々に理解されるには、「理性」のように一定の“論理”が必要となる。
つまり、「情」の“思考プロセス”が必要となる。それは、どう言うことかというと、西洋哲学の「理性」は、“方法的懐疑”
によって「超越論的主観性(理性)」という不動の論理を構築している。今日の科学、社会システムがこの「理性」を基盤として
発展しているのであり、「情」がこの「理性」と対等の位置にあるのであれば、「情」も不動の論理を構築する必要
がある。

私は、「情」と「理性」は車の“両輪”であり、両者は互いに助け合い、協調することの相関関係にあると考えており、その
バランスが崩れてきているのが、今日の文明社会であると解釈している。


同じ「土俵」で

228:考える名無しさん
14/02/05 17:42:25.47 0.net
【新・関西笑談】独立研究者・森田真生さん(産経新聞)

東大を卒業後、大学に所属せず、京都を拠点に在野で数学を研究する28歳がいる。独立研究者、森田真生さん。
講演では脳科学や哲学の世界も行き交いながら、「数学の美しい風景」を語る。
なぜ京都なのか、どうして数学は脳科学、哲学とからまり合うのか。
難解な話をユーモアも交え、分かりやすく「翻訳」してくれる森田さんを訪ねた。(聞き手 徳永潔)

【プロフイル】

もりた・まさお 昭和60年、東京生まれ。2歳から10歳まで米・シカゴで過ごす。
東京大学の工学部、理学部数学科を卒業後、独立。
平成22年に福岡県糸島市で数学道場「懐庵」を開き、
「数学の演奏会」


229:「大人のための数学講座」などユニークな講演活動を各地で展開し、 思想家の内田樹(たつる)氏や人類学者の中沢新一氏らとも対談。 24年春に京都に拠点を構えた。



230:考える名無しさん
14/02/05 17:50:04.03 0.net
--起業ですか

森田 当時すごく盛り上がっていた米国のシリコンバレーに行き、
あちこちの会社に連絡して「とにかく今すぐ社長に会わせてくれ」みたいなことを言っていたら、
現地のジェトロ(日本貿易振興機構)のスタッフが「最近迷惑な東大生がいると聞いたがお前のことか。それなら案内してやるよ」と言われて、
あちこち連れて行ってくださったんです。

--うれしい援軍ですね

森田 その中の一人の投資会社の方が、鈴木健さんという人がおもしろい会社を作ろうとしているからと言って紹介してくれた。
鈴木さんは「なめらかな社会とその敵」という本を書いて話題になった人ですが、
実際に会ってみるととにかくものすごい人で、会社の立ち上げを手伝うことになったんです。
その会社のメンバーがみんないわゆる「理系」の世界の人たちで、数学とか物理をやる人は頭でっかちだと思っていたのに、
話をしてみるとイメージと全然違う。
身体性の起源を物理学的に考えたいと言ったり、縄張りの始まりはどういうものかを数学的に研究しているとか言って、
何か面白い。もっと知りたいという思いがどんどん強くなって、工学部に転部したんです。
そこで研究をしていくうちに、どんどん数学そのものへの関心が膨らんできて、
そのときに数学者の岡潔(1901~78)の著作に出合って衝撃を受けた。
数学にこんな世界があったのか。これは人生を懸けるに足るという感じがしたんです。

231:考える名無しさん
14/02/05 17:53:39.80 0.net
--数学者の岡潔が研究に没頭した和歌山県紀見村(現橋本市)を訪ねていますね

森田 岡は「数学は情緒の表現だ」と言っていますが、情緒はこの環境で育まれたんだなと実感しました。
大阪から和歌山に入る紀見峠の高台に立つと、正面の遠くに高野山を見晴らすことができる。
山並みや虫の鳴く声、すばらしい景色、環境に囲まれています。
岡は「計算も論理もない数学をしたい」といって周囲を驚かせたのですが、
この山中でまさに計算も論理も超越した数学の喜びに浸っていたのかもしれません。

--岡が言う情緒とは何なのでしょうか

森田 岡は「自然数の1が何であるか数学は何も知らない」と著書で繰り返し書いています。
数学の始まりの数である「1」が何であるのかは議論しなくても、脳の中でありありと分かる。
逆に「1は何か」を数学的には定義できないし、
「1」を説明しようとするあらゆる試みは「1」の直感を頼りにしてしまっています。
だから数学は数学自身によって支えられているのではない。
計算や論理に先だって数学を支えているもの、それは実感であり、情緒であると言っているのです。

232:考える名無しさん
14/02/05 17:59:42.95 0.net
--数の感覚はどこから来るのでしょうか

森田 脳が「数覚」をどうやって生み出しているのかという研究があります。
ここに1本のペンがある。1本のペンだとすぐ分かる。
2本なら2本、3本なら3本ということを瞬間に分かる能力を認知科学でスービタイゼイションと言いますが、
この能力は3か4で止まってしまう。
だから数字は、漢字の「一」では横棒1本で、「二」は横棒2本、「三」は横棒3本だが、「四」は横棒4本でない。
横棒が4本になると数えなければ分からなくなる�


233:ゥらです。 回転すし屋さんでお皿3枚はぱっと見て分かるが、4枚ぐらいになるととたんにあやしくなる。 人間の認知限界はだいたいこの辺にあります。 --おもしろいですね 森田 脳は数学をするために進化してきたわけではないんです。 38億年の生命史のなかで、「36×73」なんて計算をすることはなかった。 いきなり計算をしろといわれて、脳はどうしたかというと、計算するためではない部位を使う。 その結果、情報が混在して、例えば5という数字を思い浮かべるつもりでありながら、 5という数字に伴う空間感覚や時間感覚、 あらゆる具体的感覚が一緒に到来してしまって数字に具体的な質感を感じてしまう。 人間が数字に向いていないことによる副作用でもあるのですが、 逆に言えば、それが岡が言う「数学が実感に支えられている」ということになります。



234:考える名無しさん
14/02/05 18:00:45.89 0.net
--岡の研究スタイルは

森田 海外では「Oka」といえば、数学者集団だと信じていた人がいるぐらい、壮大な数学的風景を作り出しました。
岡は生涯で3つの大きな発見をしたと回想していますが、その前に必ず行き詰まったと語っています。
1年、2年ではなく、6、7年も行き詰まった。
さすがに6、7年行き詰まると頭ではやることがなくなるんです。
計算でできることはたかがしれている。理論的にやれることもやり尽くしている。
「やるのは情意であって、知は働きようがない」と岡は言います。
そうすると頭でないどこかが動き出してくる。
岡の数学日記を読むと山に登って花を観察したり、スケッチをしたり、自分の脳よりも大きなところで数学をしている。
数学は脳で閉じていない身体的な行為なのです。

235:考える名無しさん
14/02/05 18:55:17.87 0.net
言語は、意識的に表面に現れるものと、無意識的に創出するものとの“二重性”を
持っていますが、数字の概念も記号として視覚的に捉えられるものと、情緒という無意識層
との連関としての“二重性”があると言うのは、非常に奥の深いものを感じている。

236:考える名無しさん
14/02/13 22:52:29.77 0.net
春雨の曲のコピーってどこで手に入るの?
あと岡潔研究会っていうサイトがあるけどこのサイトって
春雨の曲の内容も含めた岡潔の思想がまとめられていると見ていいの?

237:考える名無しさん
14/02/13 23:27:14.36 0.net
春雨のコピーは正直、ほとんど手に入らん。
ネットにあるものも個人のブログによるほんの少しの抜粋がほとんど。
分量が多すぎて用意できないんだろうな。

春雨は、おかけつの人生の回顧録的な内容も結構ある。
回顧録と言っても、既刊に無い初見の内容が多々あってそれはそれで面白い。
が、回顧録にしろそうでないにしろ春雨を全部読んでどうのこうのなるかと言うと、難しい。
報道関係者なら、急いで読んで損は無い。

研究会は晩年中期が主体で、春雨はほぼスルーしてる。一番読み応えがあるからね。
ただ、春雨に反しない解説になってるよちゃんと。
芥川龍之介なんかが典型だね。インスピレーション型の人が芥川龍之介で、情操型の人が夏目漱石。
芭蕉の解釈を誤ったことを理由に、おかけつは一時期芥川を批判するんだよ。
でも天照大神を非常に慕っていたことを理由に、春雨では再評価に至るんだ。
>>206の京産大の学生の作文も読んでいてね、11識から15識にいるらしい学生も結構発見するんだよ。


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