24/10/06 23:58:35.31 L+sKbhg0.net
日本に渡ったキム・ホンド(金弘道)ミステリー:彼はチョンジョ(正祖)の細作(密使)だった
キム・ホンドの自画像と推定される絵、出典-<平壌朝鮮美術博物館>
URLリンク(img-cdn.ddanzi.com)
-キム・ホンドは正祖の密使だった
(…省略) 正祖はキム・ホンドに風俗画を描くこと以外に、日本の地図を製作することも任せた。韓国の歴代書画家に関する記録である「槿域書画徴」でその記録を確認することができる。
「キム・ウンファンは戊辰年(1788)に金剛山(クムガンサン)を描いて、翌年日本に密かに行って地図を描こうとしたが、釜山に着いて病気にかかり起き上がれなかった。それでキム・ホンドが一人で対馬に行って、地図を描いて捧げた。(省略…)
朝鮮の画員たちは、山や川の美しい風景と民の暮らしだけを描いたのではなく、王の目になって外国の動態も見せる密使の役割もした。(省略…)
-日本の国宝級の画家がキム・ホンドだって?
1998年、日本で『もうひとりの写楽』という書籍が出版された。東洲斎写楽は日本人が最も愛する江戸時代の画家であり、言葉作りが好きな人たちによって、レンブラント、ベラスケスとともに世界3大人物画家とも呼ばれることもある。
写楽は江戸時代の1794年、たった10ヵ月だけ活動し、144点の絵画を残して日本の歴史からすっかり消えた。当代には全く認められなかった。1867年になってようやくパリ万国博覧会を通じて、彼の絵画がゴッホをはじめとした印象主義画家たちに影響を与え、作品性まで認められたミステリーな人物だ。
彼の作品を当初、日本では単なる庶民の絵画として低評価されていた「浮世絵(風俗画の種類の一つ)」が、日本の陶磁器の包装紙になって万国博覧会に到着して、陶磁器ではなく、しわくちゃになった包装紙を見たゴッホの友人ブラックモンによってヨーロッパに知られた。
朝鮮風俗画の巨匠キム・ホンドの話をするさなかに江戸時代の風俗画の巨匠・写楽の話をする理由は、書籍『もうひとりの写楽』の著者であるイ・ヨンヒ教授(韓日比較文化研究所長)が、日本の写楽と朝鮮のキム・ホンドが同一人物だと主張したからだ。美術学界と歴史学界は大きな関心を示さないが、映画界はこの主張に関心を持ち、キム・ホンド役でファン・ジョンミンが出演する映画が製作されることがあった(何の理由があるのか封切りはできなかった)。
上記のキム・ホンドの生涯を参考にして、『もうひとりの写楽』で展開するイ・ヨンヒ教授の興味深い主張を見てみよう。
18世紀、日本の百姓の間では歌舞伎公演の人気が高かった。歌舞伎は日本の3大伝統劇で、派手な服と独特な扮装をした俳優たちが踊って歌う庶民たちのミュージカルだった。2005年度にユネスコ世界無形文化遺産に登録されたが、当時の俳優たちの人気は現在のムービースターのようにすごかった。
歴史的記録が皆無に等しい写楽は、歌舞伎役者の肖像画を専門に描く画家だった。特に、写楽が描いた歌舞伎俳優の大谷鬼次の絵は、韓国人にも見覚えがある人物画だ。
しかし、写楽の絵は評壇はもちろん、大衆でも人気を得ることができなかった。(省略…)
写楽は、当代の日本画家たちが歌舞伎役者たちをただ美しく描くことにとどまらずに、配役のキャラクターをよく表現する絵を描いたのだ。全ての天才がそうであるように、彼は100年近い歳月が流れて、芸術の本場パリで再評価を受けることになった。
『もうひとりの写楽』の著者イ・ヨンヒ教授は、写楽が活動した唯一の時期である1794年に注目する。写楽が日本の歴史から1年だけで消えた理由は、彼が朝鮮の檀園キム・ホンドだからだと主張する。
今日まで伝わる絵画だけで300点を越え、晩年にも絵を描いたキム・ホンドが1794年だけ朝鮮で絵を描かないで、この時正祖の密命を受けて日本に行ったというのだ。1794年はキム・ホンドが槐山(クェサン)の山里の村である延豊県監(※官吏職)として在職していた時期とも重なる。(省略…)
正祖がキム・ホンドを対馬島ではなく、別の地域に派遣したという記録は我々の歴史に記録されていないが、歴史に記録された正祖とキム・ホンドの関係から見て、想像してみるに値する推論だ。
タンジ日報(韓国語)
URLリンク(www.ddanzi.com)