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・当事者たちの証言で追う 北朝鮮・拉致問題の深層#1
北朝鮮による日本人拉致は、主に1970年代から1980年代にかけて行われた。2002年の日朝首脳会談で北朝鮮は
初めて拉致の事実を認め、その目的に関して「工作員への日本語教育のため」「日本人の身分を使い韓国に潜入するため」と説明。
しかし、帰国した被害者らの証言によると、その計画はより現実味のない無謀なものだった。
『当事者たちの証言で追う 北朝鮮・拉致問題の深層』(朝日新聞出版)より、一部抜粋、再構成してお届けする。
・日本人拉致の目的とは?帰国した被害者の証言
1978年7月、福井県小浜市でデート中に拉致された地村保志さん・富貴恵さん夫妻は、工作船で北朝鮮北東部の清津(チョンシ?ン)
に到着後、丘の上の「招待所」と呼ばれる隔離された施設で一晩過ごし、寝台列車で平壌に送られた。
2人は引き離され、保志さんはまず、平壌市内の「円興里(ウォンフンリ)招待所」で1カ月間、
金日成(キムイルソン)国家主席の著書や主体思想などの本を読むことを強要された。
保志さんは次に、朝鮮労働党対外連絡部に所属する平壌郊外の「順安(スナン)招待所」に移された。
対外連絡部は、かつて存在した対南工作機関だ。9月ごろから朝鮮語学習をスタートさせ、
11月からは蓮池薫さんとの共同生活が始まった。特に担当の教師がいるわけでもなく、独学で朝鮮語を覚えていった。
当時の北朝鮮は卓球ブームが起きており、息抜きのためによく卓球をしていたという。
一方、富貴恵さんは平壌市中心部の「牡丹峰(モランボン)招待所」に送られた。
最初は、映画や革命歌劇の鑑賞、革命史跡や博物館などの社会見学に連れて行かれたという。
9月初めに、同じく拉致被害者の田口八重子さんとの共同生活が始まった。
「工作に使うために拉致してきたから、こちらに来た経緯、本名や生年月日は言うな」
指導員からはこう命令された。当初はお互いに話しかけることを控えたが、次第に拉致された状況や
日本にいる家族のことなどを打ち明けるようになったという。富貴恵さんも9月から朝鮮語の学習が始まった。
翌1979年1月、富貴恵さんは田口さんと一緒に「円興里招待所」に移った。2人は共同生活をしながら、朝鮮語を学んでいった。
思想教育のために学校に通わせるという話もあったそうだが、立ち消えになったという。
富貴恵さんは「金正日政治軍事大学だったのだろう」と回想している。
金正日政治軍事大学とは、平壌にある工作員養成機関のことだ。卒業生は韓国や日本、中国、欧州各国に身分を隠して潜入し、
様々な工作活動に従事しているとされる。
その後、11月に保志さんと富貴恵さんは平壌市郊外の「忠龍里(チュンチョンリ)招待所」に移され、北朝鮮当局に勧められて
結婚した。以降、日本への帰国が実現するまで、2人は一緒に生活し、再び引き離されるようなことはなかった。
当局の指示で、保志さんは同じ招待所に住む工作員数人に日本語を教えることになった。
・日本国内で次々発生「アベック失踪事件」
ー後略ー
全文はソースから
集英社オンライン 2/23(金) 18:05配信
URLリンク(news.yahoo.co.jp)