23/02/10 19:38:17.96 5mT7VlhZ.net
>>845
日本の仏教のはじまりを語る時に「公伝」という言葉が用いられる。この言葉には私的な伝来とは異なった、公の国家間の伝達を重視する意味があると思われる。「公伝」の記録のうち、『日本書紀』は五五二(欽明天皇十三)年に、百済の聖明王(聖王)が使いを遣わして仏像、経論、幡蓋を伝えたと記す。一方、『元興寺縁起』、『上宮聖徳法王帝説』は公伝の年次を五三八(宣化天皇三)年としている。現在のところ、『日本書紀』の仏教関連の記事には潤色が多く、史料的な価値は低いと考えられるため、五三八年説をとる見解が一般的である。ただ、この説も絶対というわけではなく、百済の記録を視野に入れて両説を再検討する見解も出されている。
さて日本に仏教を伝えたのは百済であり、その背後には当時の朝鮮半島の情勢があった。百済は六世紀に入り、新羅の任那侵略に対処するため、日本と連携してその援助を受ける必要に迫られていた。その中で、継体天皇の時には五経博士を日本に送り、六世紀初めには仏教を伝え、文化的なつながりを深めようとしたと考えられる。このように百済の仏教伝来は外交政策の一環として行われた。ちなみに百済に仏教が伝来したのは三八四年であり、日本よりも百数十年も早い仏教先進国であった。
ネトウヨまた負けた