22/11/05 14:00:00.84 DTn1FFLO.net
>>72
YESでもNOでもなく「consider」
同じ頃、韓国も懸命に票読みを行っていた。
そこに「ブラッターが日本にレターを送った」という情報がもたらされる。しかし、韓国サイドは、日本が共催案を拒否して投票を主張するのではないかと読んでいた。
韓国側の分析では投票になれば15対6、少なくとも14対7で勝てると踏んでいたという。その数字をもとに「韓国の方から共同開催を拒否して、投票に持ち込むべきだ」という強気な意見も出た。
しかし、韓国はすでに「共催を受け入れる」文書をFIFAに提出済みだった。いまさら拒否すれば、すべてを失う危険性があった。
韓国も身動きがとれない状況に陥っていたのである。
結局、日本がFIFAへの回答書を作成し終えたのは未明のことだった。
<親愛ならドクター・アベランジェ
5月30日の貴殿の手紙を受け取りました。
事務局長ブラッター氏がFIFAワールドカップ2002に言及した件の回答でございますが、もしそれがFIFAの望むところであるならば、我々はジョイントで開催の可能性について検討することをお伝えします。
長沼健 日本サッカー協会会長>
長沼が言っていた。
「『わかりました』ってのは腹が立つし、『検討する』という返事ならいいだろうと。FIFAがルールを変えて、本当に共催ということになったら、『我々は検討することはやぶさかではない』という答になった。YESでもNOでもなく『consider』というふうに答えた」
運命の一日
もっとも強硬に「単独開催で勝負すべき」と主張していた川淵は、それでもまだ一縷の望みを託していた。
「返事をしたからって共同開催に決まるとは限らない。それどころか、この回答書を使ってアベランジェは何かするつもりじゃないか。アベランジェとブラッターには、なにか作戦があって、そのために日本にこんな回答書を出させたのではないか」
そんなシナリオを頭で描いていたのだ。何と言ってもアベランジェとブラッターはそれまで「共催はありえない」と頑なに言い続けてきたのだ。もちろん彼らから日本に共同開催についての話は一切なかった。
川淵がそんな期待を抱いたのも当然だった。
すでに日付は5月31日になっていた。回答書は早朝、岡野がFIFAハウスに直接持参することになった。
予定されていた開催地決定まではあと1日。しかし―。
運命の一日が明けようとしていた。チューリヒの太陽が顔を出そうとしていた。