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(インタビュー) 強制連行、史実から考える 歴史学者・外村大さん (朝日新聞デジタル 2015年4月17日)
―強制連行は「なかった」と主張する人がいますが。
とんでもない。朝鮮半島で、日本内地への暴力的な労務動員が広く存在していたことは、史料や証言からも否定しようがありません。
政府は1939年から毎年、日本人も含めた労務動員計画を立て、閣議決定をした。朝鮮からの動員数も決め、日本の行政機構が役割を担った。
手法は年代により『募集』『官あっせん』『徴用』と変わりましたが、すべての時期でおおむね暴力を伴う動員が見られ、
約70万人の朝鮮人が主に内地に送り出されました。
こんな当たり前の史実が近ごろ、なぜか曲解される。誤解や間違いも目立つ。歴史家の常識と、世間の一部の感覚とが、ずれてきたように感じています。
―事実の断片と歴史の本筋。どうすれば見分けられますか。
何が一般的で、何が例外的な出来事だったかを見分けるには、幅広い史料にあたり、ミクロとマクロの両方から押さえる必要があります。
日本の統治機関である朝鮮総督府の調べでは、太平洋戦争開戦前年の1940年に朝鮮農村で『転業』を希望していた男性は24万人程度しかいなかった。
朝鮮内部の動員や満州への移民もありましたから、その年だけでも底をつく人数です。翌年から人集めが大変になったのは疑いようがない。
実際、内務省が調査のため1944年に朝鮮に派遣した職員は、動員の実情について『拉致同様な状態』と文書で報告しています。
厚生省から出張した職員も1945年1月、村の労務係の言葉として、住民から『袋だたきにされたり刃物を突きつけられたり命がけ』だと報告している。
それほど抵抗が広がっていたのに、日本帝国は無理に無理を重ね、逆に動員数を増やしていったのです。
―そこまでして動員したのは、なぜですか。
政府が目指していたのは、あくまでも戦争勝利でした。そのために労働力を総動員し、石炭や食料を増産しようとした。
朝鮮人の多くが投入されたのも炭鉱です。
炭鉱は重要産業なのに人手不足で困っていた。待遇が悪く、監獄部屋に象徴されるように労務管理も劣悪だったからです。
本来なら機械化と意識改革を進めるべきでした。しかし業界は朝鮮農村の困窮や無知につけ込み、安い労働者を確保しようとした。
ただ、朝鮮に行政機構は整っていませんでした。識字率が低く、ラジオはおろか電気すら通っていない村々で、
日本内地に渡る労働者を集めるのは非常に困難な作業だった。とにかく若い男を呼び出し、最後はトラックに押し込むような事態になったのです。
―「募集」段階では強制とは言えないという人もいます。
初期の段階から当局が深く関わっていました。たとえば会社の募集係に同行し、日本人の警察が家の前に立つ。役人から呼び出しがかかる。
それだけで多くの朝鮮人が恐れをなし、おとなしく応じたのです。断って大変な目に逢った、というような話が出回っていましたから。
それが植民地というものです。その後、戦局が悪化するにつれ、暴力性は誰の目にも明らかになっていきました。
―最後は徴用までした、と。
そこが誤解されがちですが、「徴用」は国民徴用令に基づき、国が責任をもって配置するもので国の栄誉を担う労働者だったんです。
弔慰金や別居手当など援護もついてきた。だから日本人は戦争初期から徴用されました。
ところが、朝鮮人にこの制度が適用されたのは戦争末期の1944年です。徴用令を適用しないまま、多くを動員したのが特徴でした。