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▲ホン・スンジュ歴史コラムニスト.(c)ブレーキニュース
百済は温祚(オンソ)が建ててその血統が万世一系に続いたわけではなく、一つの王暦の中に二つの王権勢力だった温祚系と沸流(ピリュ)系の王たちが混在して現れる。
日本でも同じように日本書紀に出てくる天皇派閥は百済系一つの万世一系と見られるが、実は新羅系(天武天皇)と高句麗系(顕宗)の王統が混ざっている。一方、日本で新羅系が現れる代表的な事件は大化改新および壬申の乱に続く天武天皇の登場が挙げられる。ここでこれに対する歴史的背景を一度見てみることにしよう。
まず645年に倭列島で起きた政変を大化改新という。これは百済系蘇我氏の勢力が大きくなるとすぐに中大兄皇子がこれを排除するために藤原鎌足と共に倭列島奈良飛鳥地域に新羅勢力を引き込む。
この時、新羅からは大海人として出てくる新羅貴族キム・タチュク将軍が率いる新羅支援軍を派遣して奈良飛鳥軍を制圧し、蘇我入鹿大臣を除去する。この事件で百済系、皇極女王(義慈王(百済最後の王)の妹)が退いて孝徳天皇が新しく即位する。
その後、金春秋(キム・チュンチュ)が倭列島に入って唐の高向玄理(たかむこ の くろまろ)を国博士にたて唐留学生と僧侶が主導して新羅式政治改革を推進したことを意味する。
一方、羅唐連合軍によって百済が660年に滅亡した後、鬼室福信と黒歯常之将軍によって多勿戦争が3年間行われる。この時、倭列島から百済王として来た扶余豊王(義慈王の息子)を軍事支援した中大兄皇子(義慈王の別の息子、扶余勇)が最終的に663年、白村江戦闘で大敗して百済復国が失敗に終わる。
これで中大兄皇子が668年に第38代天智天皇(日本書紀式の名前)として即位する。その2年後、670年ごろ日本(ヒノモト)国を建てるが、これは<日が昇る地>という意味で百済人が自らを呼んだ国名だった。すなわち日本は天から落ちた別個の国ではなく百済貴族と流民が倭列島に逃避して建てた<もう一つの百済国>の別称だった。
その後、先に日本を建てた百済系天智天皇が672年に急死するとすぐに王権をめぐり新羅系大海人(日本書紀では天智の弟)と天智の息子、大友王子(後に弘文天皇で追認)の間に権力闘争が起きた。これを壬申の乱という。新羅の将帥、大海人が大友王子をはね除けて第40代天武天皇(673~686)に即位するとそれは百済系政権から新羅系政権に変わったことになる。
一方、天武天皇当時、日本書紀を作成し始めたが百済勢力が日本に来たことを隠すため、前部に神代記を隠喩的に記録した。また、このような側面から見る時、日本万葉集(759年ごろ作成)のルーツが新羅郷歌からきたという主張にも一理あるように見える。
(訳注:固有名詞が日本語読みではなく、漢字の韓国語読みハングルで書かれている。例えば大友王子はテウワンジャ、大海人はテヘインなど。さらに一般的な歴史認識と異なるので誤訳している可能性がある。)
*筆者/ホン・スンジュ歴史コラムニスト.失われた韓国古代史研究会長.
ソース:ノーカットニュース(韓国語)日本書紀天皇王暦内新羅勢力の躍進
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