19/04/05 21:15:04.21 nK7o291m.net
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『日本書紀』 巻第十四 雄略天皇の記録
廿三年夏四月、百済文斤王薨。天王(天皇)、
479年夏四月,百済の文斤王がなくなり,雄略天皇(倭王武)は、
以昆支王五子中、第二末多王、
百済王族の昆支王の五人の子の中で,二番目の末多王が,
幼年聡明、勅喚内裏。
幼くとも聡明なので,内裏へ呼んだ。
親撫頭面、誡勅慇懃、
親しく頭を撫で,ねんごろに戒しめて,
使王其国。仍賜兵器、
その国の王とし,武器を与え,
并遣筑紫国軍士五百人、
筑紫国の兵五百人を遣わして
衛送於国。是為東城王。
百済に送り届けた。これが東城王である。
4世紀頃から7世紀(白村江の戦い)まで,朝鮮半島は倭国の一部で,
百済王を日本の雄略天皇が決めていた。
中西説のような帰化人でなくて
百済は日本の属領だったから亡命した集団には
元からの日本人もいただけのことだろ