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- 暇つぶし2ch2:ス。1592年4月13日、小西行長が率いる第1軍1万8000人が釜山浦に上陸し、翌日に3時間で釜山鎮城を占領し、その翌日には2時間で東莱城を攻撃して陥落させた。続いて忠州(チュンジュ)弾琴台(タングムデ)で申リプ(シン・リプ)が率いる朝鮮最精鋭部隊を全滅させ、5月3日に漢陽(ハンヤン)に入城したのは韓半島(朝鮮半島)に上陸してわずか20日目のことだった。このため朝鮮指導層では戦争で負けないためには必ず鳥銃を確保する必要があるという認識が形成され始めた。 翌年の1593年2月から朝鮮は訓練都監と軍機司で鳥銃の開発に着手した。鳥銃を撃つ方法も教え、武科科目に鳥銃分野を新設した。また開発するうえで参考にする「サンプル」確保にも注力した。 「これから戦場で得た鳥銃はむやみに使用せず、すべて集めて各陣にこれを学習させる。そしてそれを体得した人たちがそのほかの人に誠意を持って教えるようにする」 (『宣祖実録』26年11月) 1594年には柳成龍(ユ・ソンリョン)が都提調となり、鳥銃と火薬製造の責任を負うことになった。早くから鳥銃の重要性を認識して大きな関心を見せた、当時の数少ない指導層だったからだ。「『紀効新書』(明の兵法書)によると、鳥銃は命中する兎の数が弓矢の5倍、快槍の10倍にもなる」(『西厓集』) 海上で戦った李舜臣(イ・スンシン)も一時は鳥銃を研究した。軍官らに鳥銃を研究させ、1593年8月には日本の鳥銃と似た正鉄銃筒を作って朝廷に進呈したりもした。しかし性能が良くなかったという。わずか4カ月後、宣祖は「我々が作った鳥銃は粗悪で使えない。もう倭人の精密な鳥銃を基準にして、そのまま製造しなければいけない」と述べた。結局、開発に限界を感じた朝鮮の朝廷は発想を転換することになった。 2018年11月08日15時37分 [? 中央日報/中央日報日本語版] https://japanese.joins.com/article/930/246930.html?servcode=100§code=120 https://japanese.joins.com/article/931/246931.html?servcode=100§code=120 >>続きます。
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