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1692(元禄5) 大谷、村川家らが、「竹島(鬱陵島)」に出漁してきた朝鮮人漁民と遭遇。
1693 日本船が朝鮮漁民2人を連行(安龍福事件)。安の「松島は即ち子山島」虚言がのちに韓国史実化。
安の密漁を機に朝鮮では三年に一回、捜討使を欝陵島に派遣、捜討使が1771年『欝陵島図形』提出
1694 張漢相「蔚陵島事蹟」に「東望海中有一島杳在辰方而其大未滿蔚島三分之一不過三百餘里」
<東南三百餘里以内に鬱陵島の三分の一程度の大きさの島がある>の記述。現・竹島を指してると
思われるが、すぐのちには「登島山峰審望彼國之域則杳茫無眼杓之島 其遠近未知幾許」
<島の山峰を登って彼の国(日本)の域を望んだら、遠近は幾何か知れない(程)遠い「杳茫(遥かに
遠く)眼杓(目立つ・目標となる)島はない>(安龍福事件の翌年)事件で現・竹島の存在を聞き及んで
か、島名も記さず言及しているが、再度見ることはできていない。
1696 幕府「竹島(鬱陵島)」渡航禁止(「竹島一件」1692~)。鬱陵島韓国領で決着、現竹島は論争外。
1697[2/14] 朝鮮政府が安龍福の日本侵犯を謝罪「至於漂風愚民 設有所作爲 亦非朝家所知」
<(安龍福は)漂風の愚民に至りては、設ひ作為する所あるも、朝家(朝鮮政府)の知る所に非ず>
[3] 朝鮮政府、「呈書のことについては誠に妄作の罪あり」と文書で日本に通告し、安龍福を流刑に。
1699 王朝記録「粛宗実録」を基に鬱陵島探査した官製地図「鬱陵島図形」(1699版)が、
「竹嶼」の位置に「大于島」、「観音島」の位置に「小于島」と記載。
1702 「鬱陵島図形」(1702版)、1699版に同じ。朝鮮王朝の認識では鬱陵島の属島は「竹嶼」と「観音島」
1711 鬱陵島検察使の朴錫昌らが鬱陵島に渡った際に作成した地図「鬱陵島圖形」(1711版)では、
陵島の東側に『海長竹田所謂(いわゆる)于山島』と書かれた島が存在。『海長竹田』とは
「海長竹の生えている場所」であり、この地図において、于山島=竹嶼(チクトウ)
その後、『海東地図』、『廣輿図』『輿地図』『八道輿地図』『地乗』等も踏襲、
『東国輿地勝覧』系譜の于山島像は修正され、それが朝鮮の近代にまで及ぶ地理認識に。
宝暦年間1751-1763 「竹島図説」に「隠岐国松島」から40里に「竹島」と記述。現・竹島は隠岐の国に属していた。
1769 「英祖実�