18/10/13 11:48:59.76 z9CQwe6b.net
>>70
泗川の戦い は、文禄・慶長の役における合戦の一つ。
日本の慶長3年/明の万暦26年9月(1598年10月)、朝鮮半島の泗川で島津義弘率いる島津軍7千が明の武将董一元率いる数万(後述)の明・朝鮮連合軍と戦って撃退した戦いである。
絶望的な戦力差があったにもかかわらず、劣勢な島津軍が勝利した伝説的な戦いとして知られているが、明軍の数および死者数については資料ごとにかなりの差がある。
島津軍 島津義弘 6,000~7,000人
明朝鮮連合軍 5万人前後
泗川の戦いに先立つ8月18日、既に豊臣秀吉は死去していたが、その死は秘匿されており、その後、10月15日付で日本軍に撤退命令が下る。
島津家がこの泗川の戦いで明軍を撃退して味方の組織的な撤退を可能にしたこと、また直後の露梁海戦で小西軍の脱出を可能にした
(その際に、朝鮮水軍大将李舜臣を討取った)
という功績は五大老達から高く評価されており、島津家は文禄・慶長の役に参加した諸大名で唯一の加増に与った。