18/08/17 01:41:14.23 yx5yLeGj.net
1951年1月4日に北朝鮮・中国両軍の攻勢を受けた韓国軍は前線の後退(いわゆる「1・4後退」)作戦を敢行し
国民防衛軍は50万人余りの将兵を後方の大邱や釜山へと集団移送することになった。
しかし、防衛軍司令部の幹部達は、国民防衛軍のために編成された軍事物資や兵糧の米などを、不正に処分・着服した。
その結果、極寒の中を徒歩で後退する将兵に対する物資供給(食糧・野営装備・軍服)の不足が生じ
9万名余りの餓死者・凍死者[1]と無数の病人を出す「死の行進」となった。
この事件は国会で暴露され、真相調査団が設置された。
調査の結果、人員数の水増し報告により国庫金23億ウォン、糧穀5万2000石が着服・横領され
食料品費の計上額と実際の執行額・調達額の差が約20億ウォンに上ることが明らかとなった。
また、着服金の一部が李承晩大統領の政治資金として使われたことも明かされ
李始栄副大統領と、事件の黒幕と見られた申性模国防部長官が辞任した。
翌1951年4月30日、国会は防衛軍の解散を決議し、5月12日に解体された。
同年7月19日に中央高等軍法会議が開かれ
国民防衛軍司令官金潤根(キム・ユングン、김윤근)、副司令官尹益憲(ユン・イクホン、윤익헌)など5人に死刑が言い渡され[5]
8月12日に大邸郊外の端山で死刑が執行された[1]。
この事件によって、韓国陸軍本部では李承晩への反感が高まった[6]。