18/03/15 21:21:22.62 dmZ+hW+2.net
韓国人男性の告白
私の幼いころでも、「体を売るために上京した田舎の少女」が多かった。
理由は田舎で食い詰めて…干ばつになって…だ。
彼女らに比べると、「家政婦」になった少女は百倍よかった。
「家政婦」も、60年代半ばまでは、ほぼタダで働かせる家が多かった。が、しかし比較的まともな家だった。
親たちはこう言った。「この子に、食べ物を与えて寝るところを与えてやってください。」と
だから私は、朴正煕大統領の維新のときに、公団のあちこちに作られた「産業学校」のことを考えると、胸が詰まる。
国は輸出をしなければならないが、韓国人たち自身が作業指示書の文字が読めないという問題があった。
すると女工たちが、「私たちも学校に通わせてくれ!学ばせて字を読めるようにしてくれ!」と要求した。
だから公団のあちこちに「産業学校」が作られた。
戦後の1960年代にも「食い詰めて、売春するために上京した少女たち」が本当に多かった。
では、日本の太平洋戦争時にはどうだっただろうか?答えは明らかだ。
また我々は、世界で最も遅くまで、最も精巧な奴隷制度を、同族を対象にして運営していた奴らだ。
法律上は1894の甲午改革のときに無くなったが、社会通念的にはほぼ1930年代まで続いていたのが事実だ。
ソ・ジョンジュの詩に、「私の父親は奴隷だった!」という叫びが出てくるのは偶然ではない。
したがって、ダマすにせよ、半脅迫にせよ、「人身売買組織」による募集で、売春人員確保は十分だった。
国家権力が、いちいち拉致する必要のない社会だった。それだけ食べるのにも必死な時代だった。
その点は認めなければならない。
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