17/12/28 04:25:25.74 CAP_USER.net
京都で生まれ育ったお手伝いさんが「韓国人の私が同じお金で魚2匹しかもらわんのに、日本人の奥さんが、なんで3匹なんですか!」と冗談を言ったものだ。
こんな思い出もある。
堂々とした体格の60歳過ぎの金さんは、柔道界で名が知られていたそうだが、私が知り合った頃は、整体師として糧を得ていた。
ある日、私を治療しながら唐突に「35年間支配した日本を恨んで、千年以上朝鮮民族にもっとひどいことをした中国には何も言えない」と独り言のようにつぶやいた。
今思えば、私と何十年ぶりに日本語を話しながら、統治時代の自分の人生を懐かしんでいたのではなかっただろうか。
洋酒も闇市でしか手に入らない時代、主人のもとには、同年代の韓国人の友人や軍人たちが多く集まった。戦前の日本の歌謡曲や軍歌が主流で、皆から「閣下」と呼ばれていた見た目が60歳ぐらいの軍人は、日本の軍歌を見事に声高高に歌いあげていた。
「閣下」という言葉が使われていることに驚き、主人に「あの人は誰なの」とこっそり聞くと、「朴大統領と同じ日本陸軍士官学校の出身」と教えられた。
韓国に住んでいた3年少々の間、慰安婦や徴用工問題など1度も韓国人の口から聞くことはなかった。
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2011年の5月終わりに受けた腫瘍の生体検査で、尿管ステントを留置された。
検査を前にベッドに横たわる私に、真上から説明をする麻酔科医が「なにか質問は?」と最後に言うので、「先生の目の色はコンタクトレンズですか?」、「それとも本物ですか?」と聞いてしまうほどの深くきれいなブルーだったことを覚えている。
麻酔が効いている間、自分のいびきが気がかりだったが、心配ないといわれ、安心した。
検査と処置を終えてその日の夕方に帰宅。麻酔が切れ始めると経験したことのない激痛が襲ってきた。
誰かが、下半身の臓器をねじりあげているようで、痛みに強い私でも耐えきれない。