17/09/11 02:39:30.79 CAP_USER.net
南三陸病院・復興の力
2011年3月11日、東日本大震災が起きた。被災地支援を今も続けている。宮城県南三陸町にも何度か支援に入った。元気づけのための講演会も行った。
震災当時、町には公立志津川病院があった。海岸沿いだったため、5階建ての建物の4階部分まで津波が押し寄せ、看護師、患者、合わせて74人が犠牲となった。
2015年12月、町の高台に新しく「南三陸病院」が建てられた。三県の被災地の中で、いち早く新病院が建ち上がったのだ。
調べてみると、建設費約56億円のうち、約4割に当たる22億2000万円を台湾の中華民国紅十字会総会(台湾赤十字)が支出していた。台湾の方々からのこれほど多くの義援金が寄せられていることに驚いた。
そんな折、台湾の「遠見雑誌」から声がかかった。日本で言うと「日経ビジネス」のような経済誌である。
31周年記念イベント「全国必修不老学国際シンポジウム」にメインスピーカーとして来てほしいという。さらに、台湾大王製紙からも講演を依頼された。ぼくがCM出演をしている介護オムツ「アテント」が台湾進出しているのだ。
8月初め、ぼくは台湾へ渡った。講演会は、台北大学など3か所で行われ、いずれの講演会場も人であふれた。
ぼくの著書は5冊が中国語に訳されている。中でも、「1%の力」(河出書房新書)と、人気絵本作家の長谷川義史さんとコラボした震災の絵本「ほうれんそうはないています」(ポプラ社)は台湾でも好評だ。
自分のことのように心が痛んだ
今回の台湾訪問の最大の目的は、なぜあれほど多額の震災支援をしてくれたのかを知ることだった。
台湾は、中国との複雑な関係があり、正式に国としては認められていない。人口的にみると日本の5分の1の小さな国である。なぜ200億円もの支援をしてくれたのか、不思議でならなかった。
それを解明したくて、たくさんの方にお会いした。町の食堂で出会ったおじさんやおばさん、若者、国の要人、本省人(ほんしょうじん)、外省人(がいしょうじん)、たくさんの人の声を聞いて歩いた。
台北にはたくさんの公園があり、毎朝人々が集まって、太極拳をしたり、ダンスをしたり、体操をしたり、カラオケをしたり、自由な人間と人間の関係がつくられていた。その輪はとてもオープンである。
日本の演歌に合わせて踊っている女性グループがあり、その中にただ1人、中年の男性が混じっていた。「なぜ女性の輪の中で踊っているのですか」と聞いた。
「リーダーが美人だから」と笑いながら答えてくれた。実にうまく溶け込んでいる。
「震災のとき、日本のことをどう思いましたか」と聞いた。なんと日本語で話し始めた。「津波のテレビを見て、自分のことのように、心が痛みました」。すぐに寄付を申し出てくれたという。
90歳の老人が4万円も寄付
カラオケをしているおばあちゃんにも声をかけた。もうすぐ90歳だという。
「統治もされたが、日本はいいこともたくさん残してくれた。『徳を持って、恨みに報いる』。私達台湾人は、そう思っている。私は4万円ほど寄付をしました」
身なりから察しても、庶民の高齢者である。その方がこんなにもしてくれるのかと驚いた。
台湾赤十字の王清峰会長を訪ねた。ここでは、さらにとんでもないことが分かった。台湾赤十字からの寄付は、南三陸病院だけではなかった。
岩手県山田町、大槌町、宮城県気仙沼市、福島県相馬市、新地町などで、保育所、公営住宅、市民福祉会館、保健福祉センター、公営老人住宅など、地域が必要とするものを建設していたのである。
日本の保育園や小学校から届いた感謝の横断幕が飾られていた。
「台湾人は日本人のことが好きです。今回、被災地に支援を送ったのは、日台の友好関係が末永く続くことの象徴なのです。1999年に中部大地震が起こった時も、2009年に台風で大損失を起こした時も、日本はいち早く支援に入り、たくさんの救援をしてくれました」
台湾は、怨があっても恩で返す。恩はさらに大きな恩で返すのだ。何だか不思議な国である。
過去を引きずらない
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