17/08/22 08:29:23.22 CAP_USER.net
(>>1の続き)
それらの記録を確認した私は、一般的な韓国の常識からは想像することも出来ないような、先祖たちの姿を発見することになった。
内地渡航を「阻止」する当局
1910年、日本による韓国併合以降多くの朝鮮人が内地(日本)へ渡った。彼らにとって日本は人気のある就職先で、それは強制的なものではなかった。むしろ日本当局は密航者たちの多さに頭を抱えていた。
例えば次の「内地に憧がるゝ鮮人労働者がうかうかと渡航するを桟橋で喰止めるだけでも一ト仕事」というタイトルの記事は1926年釜山日報に掲載された記事である。当局は内地渡航希望者を必死に「阻止」しているが、それも人手不足で「阻止」しきれていないという状況を伝えている。
URLリンク(gendai.ismcdn.jp)
<1926年3月27日 釜山日報>
当局が渡航停止、または制限の措置を強化すると増えたのが「密航」である。内地への密航者は戦況が悪化した戦争末期まで後を絶たなかった。密航者についての記録や記事は数え切れないほどに存在する。
朝鮮人たちが目標とした「密航先」の中には現在の韓国人たちの頭の中で「地獄」として刻み込まれている「炭鉱」も含まれている。
朝鮮中央日報1934年08月24日の記事には半島において日本の代表的炭鉱地域として知られている福岡県筑豊炭鉱を目標にした密航者が続出し、当局が頭を痛めているという記事が登場する(「筑豊炭鉱を目標に密航朝鮮人激増」)。
この筑豊炭鉱も現在韓国では奴隷のように酷使された「地獄」として認識されている場所だ。
URLリンク(gendai.ismcdn.jp)
<「筑豊炭鉱を目標に密航朝鮮人激増」朝鮮中央日報 1934年8月24日>
1000円を送金する青年も
また、当時の記事をみると朝鮮人労働者たちが半島と内地を自由に行き来していたことを伺い知ることができる。
例として1925年12月21日の毎日新報を見ると、内地が不景気で就職が厳しくなると、仕事にありつけずに再び半島に戻って来る労働者をあざ笑うような記事が登場している。(「内地で労働していた朝鮮人帰還激増 所持金は5円乃至30円が最高。追い出されてくる連中の姿を見ろ」)。
記事によるとこの時期、内地に渡航する朝鮮人よりも、半島に戻ってくる朝鮮人の数が上回っていたという。
URLリンク(gendai.ismcdn.jp)
<「内地で労働していた朝鮮人帰還激増。所持金は5円乃至30円が最高。追い出されてくる連中の姿を見ろ」1925年12月21日 毎日新報>
1934年3月7日の釜山日報をみると興味深い記事が目につく。朝鮮民族にとって大きな祝い事である旧正月に合わせ内地で仕事をしていた労働者たちが故郷で旧正月を過ごすために帰郷し、再び内地の職場に復帰しようと一斉に釜山に向かったために釜山が大混乱に陥ったというものだ。
URLリンク(gendai.ismcdn.jp)
<「旧正(月)を終えて再渡航の朝鮮人 堤を切って殺到」1934年3月7日 釜山日報>
これら一連の記事を見ていると、韓国で生まれ育った人間としては混乱に陥り、疑問ばかりが頭に浮かんでくる。何故ならば、韓国で刻み込まれた「強制連行」そして「奴隷労働」というイメージが崩壊しかねないような内容が次々と登場するからだ。
ここまでに紹介してきた記事だけを見ても、多くの疑問が生まれてくる。
「強制連行」が行われていた内地に、何故朝鮮人たちは「密航」してまで赴いたのだろうか?何故、地獄のような労働環境だった炭鉱を目標に密航したのだろうか? 監禁され、奴隷のように労働を強要されていた労働者たちが、不景気だからといって帰郷することができたのだろうか?
旧正月を過ごすために帰郷したのであれば、その時に逃げることもできただろうに、何故再び戻ろうとしたのだろうか?
ここまでは国民徴用令(日本では1939年、朝鮮では1944年から実施)が出される前の状況だという人もいるかもしれない。
しかし、1940年代の記事を見てもこういった疑問は尽きない。
(続く)