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【タイビン村虐殺事件】
タイビン村虐殺事件(タイビンむらぎゃくさつじけん)とは、ベトナム戦争時の1966年2月にベトナムビンディン省タイビン村で韓国軍が住民65人を虐殺した事件[1]。
1966年2月、ベトナムビンディン省に駐屯していた大韓民国陸軍首都師団(通称猛虎部隊)は早朝にタイビン村(Thai Binh /太平)を訪れ、住民68名を1ヶ所に集めると銃撃を加えるとともに手榴弾を投げつけて婦女子を含む65名を殺害した[1]。
生存者はわずか3名であった[1]。
タイビン村では虐殺された犠牲者名を記した慰霊碑と事件を記録した壁画が設けられ、生存者が虐殺の証言を行っている[1]。
【ゴダイの虐殺】
1966年2月26日[2]、南ベトナムビンディン省タイソン県(ベトナム語版)ビンアン村のゴザイ集落を訪れた韓国陸軍首都機械化歩兵師団(英語版)(猛虎部隊)は住民380人を集めると一時間のうちに一人残らず虐殺した[3][4]。
首都師団はゴダイの虐殺と並行してビンアン村の近隣にあるタイヴィン村で1,200人を虐殺するタイヴィン虐殺を行った。
【フォンニィ・フォンニャットの虐殺】
1968年2月12日、フォンニィ・フォンニャット村を訪れた韓国海兵隊第2海兵師団(青龍部隊)第1大隊が村の婦女子を集め暴行、強姦後、至近距離から銃殺、刺殺し火を付け立ち去った事件。
しかし、その日のうちにアメリカ海兵隊員4名、南ベトナム兵26名からなる部隊が現場に到着し虐殺が判明した。
アメリカ・ベトナム兵は生存者へ手当を施し、病院へ搬送した。
また、J・ボーン伍長によって事件現場の撮影が行われた。
事件後に生き残った村人たちは犠牲者の遺体を国道1号線に並べて抗議の意思を示した。
当時のフォンニィ・フォンニャット村はアメリカ海兵隊と友好関係にあり、村の男たちはアメリカと同盟関係にある南ベトナム軍に参加していた。
続く2月25日には韓国海兵隊によってハミの虐殺が引き起こされ、ハミ村の婦女子・老人135名が虐殺された。
(J・ボーンアメリカ海兵隊伍長撮影)
犠牲者を収容するアメリカ海兵隊員
URLリンク(upload.wikimedia.org)
両胸をえぐり取られた上に銃撃を加えられて瀕死の21歳の女性
URLリンク(upload.wikimedia.org)
至近距離から撃たれ前頭部を吹き飛ばされた2名の妊婦
URLリンク(upload.wikimedia.org)
殺害された子供
URLリンク(upload.wikimedia.org)
韓国軍に焼かれた住民
URLリンク(upload.wikimedia.org)
【ハミの虐殺】
ハミの虐殺(Ha My massacre)とはベトナム戦争中の1968年2月25日に南ベトナムクアンナム省ハミ村で大韓民国海兵隊によって非武装の民間人135人が虐殺された事件。
1968年2月12日、韓国海兵隊第2海兵旅団(青龍部隊)は南ベトナムクアンナム省フォンニィ・フォンニャット村で民間人虐殺事件を起こし[1]、
その日のうちにアメリカ軍・南ベトナム軍によって犯行が明らかにされていたが、2月25日に再び、同じクアンナム省のハミ村で女・老人・子供・135人を虐殺した[2]。
3人だけを残して全員殺害された村もあった。殺害方法は村民を広場に集め、一斉に射撃を加えたり、手榴弾を投げつけたりして実行された[3]。
フォンニィ・フォンニャットの虐殺やタイビン村虐殺事件など、このような事件がたびたび引き起こされ、9000人以上が韓国軍の犠牲になったとも[3]、あるいは、30万人を超す犠牲者数だったとも言われている[4]。
このため、アメリカ軍内部では韓国軍を完全な後方部隊とするかベトコンが完全に支配していて誰を殺しても問題とされない地域に配置転換するべきであるとした検討が行われた[5]。