16/01/10 22:27:58.82 0Wals43s.net
>>160
1905年9月、日本の山陽汽船によって「関釜連絡船」(釜山-下関)が就航しました。
当時、朝鮮では多くの人々が土地調査事業で土地を奪われ、産米増殖政策で借金がかさんで生活苦にあえいでいました。
さらに戦時労働動員で何十万もの人々が強制的に日本に連行されたという背景があったのです。
ただ、渡航には、厳しい検問がありました。
旅費以外に10円を所持し、日本語がわかり、就職先が確実な者のみが上陸を許されました。
戦後、全国の在日韓国朝鮮人達が、下関からの出国を考え、下関に集まりました。
しかし帰国後の生活への不安から渡航をあきらめた韓国朝鮮人は下関にとどまり生活を始めたのです。