15/10/16 23:11:16.38 VmMawOdz.net
蒋介石を指導者とする国民政府は徴発に反抗する者、軍への労働奉仕に徴集されるこ
とを恐れて逃走する者、日本に長期間移住した者などは、スパイ、漢奸と見なし
白昼の公開処刑の場において銃殺したが、その被害者は日中の全面戦争となってから
二週間で数千名に達し、国民政府が対民衆に用いたテロの効果を意図した新聞紙上に
おける漢奸の処刑記事はかえって中国民衆に極度の不安をもたらしていたが、
この大量虐殺によるテロ政策を連日続けていたため暴動の勃発は抑えられていた。
前線に出た中国軍には掠奪など一切の暴虐が正式に許されていたが、中国軍兵士の
掠奪に異議を唱えた嘉定県住民は漢奸として火焙りにより処刑されている。
1937年9月の広東空襲に対しては誰かが赤と緑の明かりを点滅させて空爆の為の指示を
出したとして、一週間で百人以上がスパイであるとされて処刑された。
上海南市にある老西門の広場では第二次上海事変勃発後、毎日数十人が漢奸として
処刑され、その総数は 4,000 名に達し、中には政府の官吏も 300 名以上含まれていた。
処刑された者の首は格子のついた箱に入れられ電柱にぶらさげて晒しものにされた。
上海南陶では 1 人の目撃者によって確認されただけでも 100 名以上が斬首刑によって
処刑された。罪状は井戸、茶壷や食糧に毒を混入するように買収されたということや
毒を所持していたというものである。戒厳令下であるため裁判は必要とされず、
宣告を受けたものは直ちに公開処刑された。
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>>1 んなこと言ったらこれだって
虐殺の規模、数、さまざまな推計がされるだろうが
虐殺という事実があったことは動かしがたい歴史的事実だ
だろ