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【韓国メディア】 慰安婦の多くは、無知蒙昧な朝鮮家庭による女性卑下文化の産物。挺対協が行う不純な遊び、中断させるべき★2[05/29] [転載禁止](c)2ch.net
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『解放前後史の再認識(※2006年発刊)』第1冊434-476ページにはサンフランシスコ州立大学の
ソ・ジョンヒ教授の貴重な論文が掲載されている。以下に要旨を紹介する。
植民統治の最後の10年(1935-45)は朝鮮の産業革命期だった。 農民たちは土地から追放されて、
労働階級が胎動して人口の流動性が増大し、都市社会が広く拡散されて、女性界では、いわゆる
新女性に対する羨望が拡散されていたそんな時期だった。1917年、李光洙(イ・グァンス)の小説『無情』
が連載された。 この小説は新文明の普及書だった。西欧の新文明が流入して、開化思想が広がり、
新青年と新女性を恋愛の表象とした新小説だった。1935年、沈薫(シム・フン)の常緑樹は息苦しくて、
せせこましい農村を啓蒙するための啓蒙書だった。当時の農村の人々の考えがどれほど固陋で原始
的かを赤裸々に描いた。 慰安婦もこのような開化期時代の産物だったのだ。
190人の慰安婦を調査したところ、88%に当たる168人がまさに脱農村時期の1937-44年の間に慰安
婦になった。 都市を欽慕する一種のゴールドラッシュが盛んだった時代に、家庭を飛び出した娘が、
人身売買団のよい餌食になったのである。181人の慰安婦を調査した結果、そのうちの4分の1以上が
すでに家族と離れて家政婦、工場労働者、食堂、妓生の家、接待婦などとして働いていた途中、慰安
婦になっており、66%程度が満州、台湾、中国などに搬送されていった。
慰安婦へ行くことになった場合は、家庭をすでに出ていた女性だけに該当するのではなかったかった。
家庭で親や兄たちから暴力を受けていた若い娘たちが暴力を避けて逃げ、それで人身売買団の罠に
引っかかったりもして、学びの新たな岐路を探して広くなった世界に逃げてくるというのが、すなわち、
人身売買団の犠牲になって慰安婦の道に入ることもあった。 当時、人身売買団の手先は大部分が
朝鮮人たちであり、軍隊慰安婦を経営する人たちの中には朝鮮人たちもかなりいた。
慰安婦に行く道は二つのルートがあった。 家庭-労働市場と慰安婦業所に行く過程があり、直に家庭
-慰安婦業所に行く過程があった。 このような過程を促進した媒体が人身売買団であり、人身売買団に
捕らえられた環境は、つまり、女性に対する家庭内暴力や虐待、そして学びに対する羨望を無条件に
抑圧する無知蒙昧な朝鮮家庭の女性卑下文化のためだった。
ソ・ジョンヒ教授は、家庭から直に慰安婦という穴に落ちた恨多き慰安婦6人のケースを挺対協資料で
簡単に見つけ出した。 こうしたことにも挺対協は、この事実を知りながらも慰安婦問題を政治問題として
浮上させるために、社会に誤った認識を拡散させた。
挺対協の主張によれば、全ての慰安婦は家庭にいた慎ましい娘たちであったが、ある日突然、日本巡査
たちが押しかけてきて強制的に捕まえて、日本軍が運営する遊郭に入れたというのである。 ソ・ジョンヒ
教授によると、これは事実ではない。 ソ・ジョンヒ教授が調査した6人の慰安婦の事例はこれを理解する
のに明白な資料になる。