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■脱北者の証言:41 50代男性 2008年脱北(09年に日本入国)
―14歳まで日本で暮らしていたそうですね。
1950年代後半、在日朝鮮人の両親のもとに大阪市で生まれた。父親は(現在の韓国中部)忠清南道、母親は忠清北道出身。
物心ついたときは高度成長期だった。父は下町で家電販売店を経営し、経済的には悪くない生活だった。小学2年生まで公立
小学校に通い、通名を名乗り、自分を日本人だと思っていた。
―北朝鮮に渡ったのは大阪万博(1970年)から数年後ですね。経緯は。
父の決断だった。きっかけは、私の兄が交通事故死したことだ。よほどショックだったのか、精神的に不安定になり、「祖国」に
帰ることを考え始めたという。父は「子どもたちに差別のない国で暮らしてほしい」と考えていたようだ。
1967年に中断された北朝鮮への帰還事業が、71年に再開されていた。地理的に言えば父の故郷は韓国だが、当時韓国は
北朝鮮より経済的に遅れていると考えられていたので、韓国行きは一切検討しなかった。
今思うと、「帰国」の直前の72年、北朝鮮と韓国は朝鮮半島の統一をうたった南北共同声明を発表していた。父は「いずれ統一
するので、北でも南でも関係ない」と考えていたのかもしれない。
―新潟から船に乗ったそうですね。
新潟港から約250人で北朝鮮に渡る船に乗り込んだ。在日同胞だけでなく日本人妻も交じっていた。
帰還事業は当初、日本赤十字社と朝鮮赤十字社による共同事業で、新潟までの汽車賃は日赤が負担する代わりに、荷物の
持ち込み制限があった。しかし、71年の再開後は赤十字の手を離れ、新潟までの汽車賃は自己負担する代わりに、家財道具
は全部持って行くことができた。それが家族を救うことになった。
◇ヤマハピアノに家族が救われる
―北朝鮮での暮らしは。
多くの脱北者が語っている通り、衣食住すべてひどかった。私たちは北朝鮮に着いた後、配給を食べられなかった。私たちから
見ると動物の飼料のようなもので、まずいだけでなく、下痢になってしまう。持って行った財産を売り、市場で食糧を買う「売り食い」
で暮らすしかなかった。
機敏だった母は、北朝鮮に渡る前、日本で腕時計を150個買って、持ち込んだ。北朝鮮では反日的な教育をしているが、日本製
への人気は絶大だ。日本では1個1万円の時計が、北朝鮮では10万円にもなると言われていた。時計一つ売るだけでも、大人
1人が1年分食えるということだ。
以下ソース
ソース:朝日新聞 2015年5月15日 17時00分
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