15/06/13 05:36:39.61 mcQ7IpKL0.net
「精神的勝利法」とは、植民地時代の中 国の作家魯迅が主著「阿Q正伝」で戯画化した民衆の処世術だ。
それは端的にいって、地主や軍閥や外国の支配と搾取に対し、真っ向から闘いを挑めない民衆が、自らを慰め、プライドを 維持するために、ひねりだした「ごまかし」の方法にほかならない。
その核になっているのは、どうやら「自 分は、ほんとは、偉いのだ」という思いな しにあるらしい。 自分にそう言い聞かすことで、軽蔑され 罵倒されても、なんとか我慢ができる。
ところが、口惜しいことに、その自尊 は、まま揺るがされてしまう。 公衆の面前で完膚無きまで叩きのめされ でもすれば、とてもじゃないが、「自分は 偉い」とは思いなせない。
だが、そんなときは、屈辱を「我慢でき ている」自分は「偉い」と思えばよい。 あるいは、ダメな「自分を軽蔑できる」 のは、大したものだと思えばよい。
それでも気が治まらなければ、「こんな 世の中なっとらん」と悲憤慷慨する手があ る。ひとりでは物足りなければ、同じく悲 憤慷慨している者どもと愚痴を言い交わせ ば、なにがしかは、強いヤツどもを「やっ つけた気になれる」。
それでもなお気が治まらなければ、「自 分より弱い者をやっつける」という手があ る。 男なら少女、親なら子ども、教師な ら生徒に、嫌がらせをしたり、暴力をふる えば、自分は「強い」と思うことができ る。
それほどの勇気もなければ、「有名人と 知り合い」になるという手もある。 実際に知り合いになれなくても、熱烈な ファンになればよい。そのことで、自分ま で有名になったような気分に浸れる。
とにかく、こうした「精神的勝利法」 は、どれも、なかなかに狡猾。 これらを巧みに使えば、「意気軒昂」で いることができそうだ。
しかし、しかしだ。それでは現実は一向 に変わらない。 個々人の「意気軒昂」も、およそ、その 場限り。長続きするはずもない。
魯迅が「ごまかし」と喝破した「精神的 勝利法」が、今の日本にも蔓延していなけ ればよいのだが...。
朝鮮人ナマポニート章君っぽいね☆