上座部仏教は本当に日本に伝来していなかったのか?at MIN
上座部仏教は本当に日本に伝来していなかったのか? - 暇つぶし2ch2:天之御名無主
21/03/03 23:04:17.93 .net
銅鐸(どうたく)は、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器である。紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって製作、使用された。
中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770 - 同221年)の地方国家「越」の貴族墓(紀元前470年頃)から、日本の弥生時代の銅鐸に形が似た原始的な磁器の鐸が出土している。
日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが定説だが、発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
越(えつ、紀元前600年頃 - 紀元前306年)は、春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国。
首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。
後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、南方の長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる。
越は楚、呉など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。
『史記』をはじめとする諸書では、夏の少康の庶子を越に封じたことを越の君主の起源とする伝説を述べている。

3:天之御名無主
21/03/03 23:04:41.56 .net
『呉越春秋』は夏の少康の庶子であった無余を最初の越の君主とし、また夫譚の前に無壬・無?を挙げる。『史記』越王勾践世家は初代から允常まで二十余世とし、『漢書』地理志は初代から勾践まで二十世とする。
越侯夫譚
越侯允常 - 『史記正義』によると、はじめて王を称した。
越王勾践(在位紀元前496年 - 紀元前494年)
呉の支配による空位:紀元前494年 - 紀元前491年
越王勾践(在位紀元前491年 - 紀元前464年)
越王鹿郢(?与)(在位紀元前463年 - 紀元前458年)
越王不寿(在位紀元前457年 - 紀元前448年)
越王朱句(州句、翁)(在位紀元前447年 - 紀元前411年)
越王翳(在位紀元前410年 - 紀元前375年)
越王錯枝(在位紀元前374年 - 紀元前373年)
越王無余之(在位紀元前372年 - 紀元前361年)
越王無?(在位紀元前360年 - 紀元前343年)
越王無彊(在位紀元前342年 - 紀元前306年?)

4:天之御名無主
21/03/03 23:05:09.98 .net
少康(しょうこう)は、夏朝の第6代帝。
『史記』越王勾践世家や『漢書』地理志粤地、『呉越春秋』によれば、少康の庶子である無余が会稽に封ぜられ、文身(入れ墨)・断髪したのが越の起源であるとされる。『漢書』によれば、文身断髪した理由は蛟竜の害を避けるためとされる。
『翰苑』巻30所引『魏略』逸文や『魏志倭人伝』にある倭人の習俗についての説明では、倭人が入れ墨を彫っているのは大魚や水鳥の害を防ぐためであるとして、この少康の子の故事が引き合いに出されている。

5:天之御名無主
21/03/03 23:06:09.83 .net
越の無余
仏の無我

6:天之御名無主
21/03/03 23:31:13.01 .net
銅鐸が発見された記録は、『扶桑略記』の天智天皇7年(668年)、近江国志賀郡に崇福寺を建立するのに際して発見された記述が最古であろうという。
ただし、天智期の記事を詳細に記しているはずの記紀は、この出来事について全く触れていない。
『続日本紀』には、和銅6年(713年)、大和宇波郷の人が長岡野において発見した記事があり、『日本紀略』には、弘仁12年(821年)、播磨国で掘り出され、「阿育王塔鐸」とよばれたとある。

>「阿育王塔鐸」
阿育王=アショーカ王
アショーカ(梵: ?????、IAST:A?oka?、巴: Asoka、訳:無憂〈むう〉、在位:紀元前268年頃 - 紀元前232年頃)は、マウリヤ朝の第3代の王である。
漢訳音写では阿育王と書かれる。インド亜大陸をほぼ統一した。
釈尊滅後およそ100年(または200年)に現れたという伝説もあるアショーカ王は、古代インドにあって仏教を守護した大王として知られる。
アショカとも表記される。アショーカの名前は花のアソッカ(無憂樹)を由来とする。

7:天之御名無主
21/03/04 00:03:46.37 .net
『古事記』の国産みには小豆島(播磨灘にある島)の別名として大鐸姫(大野手比売)が登場する。
『諸系譜』では布留多摩命の娘として登場し、天日方奇日方命の妻・日向賀牟度美良姫の別名とされる。
小豆島では島の島玉神として祀られ、島内にはかつて大鐸村などの地名もあった。「おおぬでひめ」の「鐸」(ぬで、ぬて、ぬりて)とは銅鐸のことで、実際に三五郎池の西側から銅鐸が出土している。
『古事記』では伊邪那岐命と伊邪那美命の子とされ、夫や子孫に関する記述はないが、『諸系譜』では綿津見神の子・布留多摩命(倭国造、尾張氏等の祖)の娘とされ、天日方奇日方命の妻とされる。
銅鐸の女神である大鐸姫は
倭国造の祖である布留多摩命の娘であり、天日方奇日方命の妻とされる。
天日方奇日方命は鴨王(かものおおきみ)とも呼ばれ、天皇以外で「おおきみ」と呼ばれる唯一の存在である。
天日方奇日方命(鴨王)の父は大物主神(大国主神)であり、同様にカモを関する迦毛大御神(阿遅?高日子根神)の父は大国主神(大物主神)である。
また、大御神を関する神は、伊邪那岐大御神、天照大御神、迦毛大御神の三柱のみである。

8:天之御名無主
21/03/04 00:11:33.86 .net
国生みを行った側の娘、あるいは倭国を造った側の娘が、銅鐸の女神であり、
銅鐸の女神は国を譲った側の大国主(大物主)の息子と婚姻しており、
国譲りを迫った側の天皇側と同じく「オオキミ」「大御神」を称されている。
弥生時代の銅鐸が668年に発見されたことを記紀は記さず、
821年に発見された際には「阿育王塔鐸」つまり仏教の鐘と呼ばれていたとされる。

9:天之御名無主
21/03/04 00:23:09.26 .net
春秋戦国時代に越国が南伝仏教を受け入れて、越王は無を重視し仏教の鐘として銅鐸が作られた。
越国が滅亡したことで、銅鐸と南伝仏教が日本に伝来して南伝仏教の国が作られ、仏教の鐘として日本でも銅鐸が作られたが、
土着系集団が国譲りを迫り、銅鐸が埋められた。

10:天之御名無主
21/03/04 00:49:48.55 .net
>>1
日本の水田稲作は、炭素14年代測定法により約3000年前(前10世紀後半頃)から開始されたと歴博が発表した(菜畑遺跡、雀居遺跡等)。
また、DNA解析よる「水田稲作」に係る水稲の源郷は「長江下流の江南地方」とされ、その伝達経路は中国から日本への直接ルートとされる。
水田稲作の伝来は銅鐸の伝来より早いが、銅鐸と同じ伝来ルートを通っており、越は長江流域国家であり水田稲作を日本より先行していた地域である。

11:天之御名無主
21/03/05 22:14:20.55 .net
志賀海神社 山誉祭 神楽歌
君が代<だい>は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで
あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸<みがい>に命<いのち> 千歳<せんざい>という
花こそ 咲いたる 沖の御津<おんづ>の汐早にはえたらむ釣尾<つるお>にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや
志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで
今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ
いるかよ いるか 汐早のいるか 磯良<いそら>が崎に 鯛釣るおきな

12:天之御名無主
21/03/05 22:14:28.82 .net
ワタツミ→フルタマ→倭国を作った者→娘が出雲の大国主の息子と婚姻
一時は近畿を中心とした銅鐸文化圏という概念が存在したが、その後吉野ヶ里遺跡をはじめ北部九州で多くの銅鐸およびその鋳型が出土したことから、銅鐸文化圏の概念は否定された。
特に、吉野ヶ里遺跡から出土した銅鐸およびその鋳型が伝出雲出土銅鐸(木幡家銅鐸)と完全に一致したことから、最近ではむしろ北部九州で作られたものが出雲にひろまったと考えられるようになった。
銅鐸
北九州→出雲→近畿、四国、近江、中部

13:天之御名無主
21/03/05 22:14:38.05 .net
倭国を作った者たちに国譲りを迫り、日本中の銅鐸が一斉に埋められ、今の日本の三種の神器の一つである銅鏡が作られ、古墳時代(ヤマト時代)が始まる

14:天之御名無主
21/03/05 22:14:50.36 .net
わたつみ→布留多摩命
天皇に国譲りをする前の大和(倭国)の統治者の十種神宝
「一二三四五六七八九十、布留部 由良由良止 布留部」
「(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」

15:天之御名無主
21/03/05 22:14:58.68 .net
わたつみ
倭辰巳
倭国の金印のトーテムは辰巳

16:天之御名無主
21/03/05 22:15:05.97 .net
海人が国を作って
山人に国を譲った

17:天之御名無主
21/03/05 22:15:33.24 .net
海人
イザナギ→ワタツミ→フルタマ→安曇(ア住み、最初に住んだ、最初に国を作った)
これが南伝仏教と関係している
前の国の信仰、銅鐸、南伝仏教、国譲り後丸ごと隠蔽
山幸彦と海幸彦、山幸彦が勝って天皇が治める
蘇我はスサノオの流れ、スサノオの子孫の出雲はワタツミの筑紫と婚姻連合
蘇我神社はスサノオ
北伝仏教をゴリ押しして地位を復権して蘇った我、蘇った倭
そして仏教の守護神となったスサノオ
実は兄弟じゃない天智と天武
大海人皇子を教育した凡海氏(海部一族の伴造)
大海人皇子→天武
天智→山部(桓武)
仏教統治を進めた天武朝、奈良の大仏完成時に招いたのは東南アジアの南伝仏教の僧侶
大海人の天武朝が途絶えて天智朝の山部が平安京へ
倭国を作った安曇が逃げ込んだ信濃伊那
国譲りで負けた大国主の息子が逃げ込んだ信濃諏訪
仏教寺院の最高峰は長野の善光寺

18:天之御名無主
21/03/05 22:24:23.15 .net
仏教の守護神となったスサノオ
善光寺を支配している藤原氏、アメノコヤネ
三島由紀夫「日本の胸には、緑色の蛇が喰いついている。この呪いから逃れる道はない」
海神、ワタツミ、倭辰巳、倭のトーテムは龍蛇、国を作った者と国を治めている者は違う、呪術

19:天之御名無主
21/03/05 22:28:52.29 .net
銅鐸が埋められた時が、国を作った海人が山人に国を譲った時

20:天之御名無主
21/03/05 22:43:17.18 .net
神話と史実、鏡合わせで暗号化
出雲のスサノオ→大国主→日本海側から信濃へ
筑紫のワタツミ→倭国造→太平洋側から信濃へ
銅鐸の流れから筑紫が大元、派生が出雲
出雲を神話でピックアップして大元の筑紫のワタツミの倭国を隠蔽

21:天之御名無主
21/03/07 15:08:48.99 .net
ワタツミ系海人族は北九州から四国経由して尾張から上陸して長野伊那やで
あと、国譲りを迫った側はワタツミ(ツクヨミ)筑紫(ツクシ)でもスサノオ出雲でもないからな
その両方は一体であり、そこに国譲りを迫ったのがアマテラス系な

22:天之御名無主
21/03/07 15:09:05.37 .net
出雲の大国主が西向いてるのは、出雲の元が筑紫だからな
2世紀に国譲りが完了して銅鐸を全て埋めて鏡を作った時点で
それまでの倭国の歴史を継承してアマテラス系が治める様になったからな

23:天之御名無主
21/03/07 15:09:49.13 .net
出雲だけ記紀で描かれてるのは、出雲がアマテラス系に恭順したからやで
スサノオ系出雲とアマテラス系ヤマトが同盟結んでワタツミ(ツクヨミ)系筑紫を滅ぼして隠蔽して乗っ取ったからな
だから出雲だけ記紀で描いてワタツミの倭国は完全に抹消したからな

24:天之御名無主
21/03/07 15:09:53.40 .net
徳島の海部氏
毎年天皇に布を献上
これ国譲りからずっと続いてる儀式
ワタツミ→布留多摩命
ツクヨミ=スサノオの系図も海人が持ってるでしょ
ツクヨミ(ワタツミ)の筑紫とスサノオの出雲は筑紫から出雲へ派生して婚姻結んで一体だから


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