20/01/10 10:39:16.26 .net
二宮尊徳は自分と同じうつりをしていたのではないのか?
「愛の特定作業を行う(愛に形は無いに対する苦情を言う)」を二宮尊徳は選んだからなのではないのか?
だから「猛勉強」する事で「普通のうつり」をしたやつとの付き合い方を学ぶことにし
「猛勉強」で普通のやつとのギャップを「補う」をやっていただけの話なのではないのか?
そして二宮尊徳は「愛の特定作業」が「出来た」から「世界は報徳思想によって支配されている」という言葉があるのではないのか?
それが「報徳思想」なのではないのか?
これの特定作業を行うとは「愛の形を逸脱した形を選ぶやつには愛などありません」の「証明」にもなってしまう
つまり「愛の無い可能性」の存在証明にもなってしまう
言い換えれば「ダメな奴」とは「愛の形に適応できない奴」の事を指していることの「証明」にもなってしまうのだ
言い換えれば「慈しみの心」とは「愛の形に適応できないやつに対する慈しみ」を意味する心情
つまり「愛の無い奴に対して優しくしてあげましょう」を意味する試みにして
「愛の無い奴に愛を抱くなど期待するのはやめましょう」を意味する試み
つまり「愛の無い奴とは金だけの付き合いにとどめましょう」を意味する試みなのだ
言いかえれば「何もかもが愛に目覚める」が「神様の目的」だから出来ないだけの話なのだ
こんなものは必ずバレるからやめないかこれ