11/12/08 05:23:20.47 .net
さて、本題だ。
価値観とは生活の基盤に則る物であって、土地、時代によって千変する。
人類的な普遍的価値は、様々な文化圏、時代を洗ってみると何一つない。
即ち、「子供を残す」「帰属集団のルールに従う」という
この笑ってしまうほどシンプルで動物的な価値観すら、無い。
なぜなら一神教ではこの両者すら否定する。
性は罪悪であり、王は仮の権力者であって、絶対者の神のもと、人類は何処の集団にも属さない。
最も価値をおかれるべきは神との絆、最終的な救済であって、いわば個人の精神である。
儒教は、全くの間逆だ。
王権は天(運命・業)の理の帰結であって、いわば世界の法則の発露である、
(ここで神がもたらしたものという概念が入るのは、日本など周辺国で生まれた『低俗な』概念だ)
そのため、人は王権に帰属し、その中で王権を維持する(理を守る)為にあらゆる努力をせねばならない。
最も重要なのは人の世の生き方(社会維持)、「そのための」自己探求、己の研鑽である。
(だから東アジア周辺国では忍耐、克己という国家的スローガンが受けいられやすい。
本国の儒教は既に、その個性の強すぎる道教的国民性と度重なる異民族支配によって変形した)
しかし、価値観の創成には一定の法則がる。
例えば、プロテスタントの隆盛は一人ルターの努力による物ではなく
ローマ教会とその権力機構に対する反発から生まれた。
社会主義は経済と産業構造の多様化による、人間社会のあり方を巡る議論の中で生まれた。
つまり、新思想、新価値は社会の変化に対し、民衆の要請によって生まれる。
新価値の創成は既得権の喪失と放棄を生む。
決して、それ迄の価値観の退廃や、ましてやトップダウンでもたらされる物ではない。