11/02/21 19:04:25.60 .net
うむ、ならば例えば、こういうのはどうか。
シュメールの神話では、人間は下級の奴隷神とサルの混血で、
奴隷神の代わりに永遠の苦役を勤めるために生み出された。
この、明らかなる支配構造の強化を狙った神話構造は、実に思考についての示唆に富む。
まず、この構造の狙いは一般民衆に対する思考の封じ込めと階級制に対する洗脳だ。
一方で神の血筋を僅かばかりにひいているという部分で自尊心を満足させ
人が人である所以、つまり「知能」の由来を自己よりも優れた他者、つまり神に求めている。
思考は本来神の持ち物であり、人間の思考は全知全能であるはずのそれがダウンサイジング、
劣化した物だとしたのだ。
この卑屈な思想で支配者達は、人間は(一般民衆は)生まれながらの知的不具者であり、そのために生じる
あらゆる欲望は「悪」「原罪」であり、地獄に堕ちるに値する行為だとして戒めた。つまり、抑制した。
誰もが欲望に忠実になってしまえば社会が成立しないからだ。
しかし、自分たちは神の血を多くひいているので、その限りではない。として自由気ままに振る舞った。
この考え方は西半球に広く普及し、思想の根源的な出発点になっている。
「人類は皆平等」の冠の上に、必ず、「神の御元に」とつくのだ。
全てが階級ありきの三段論法的思考法である。それはとても脆弱な思想だ。
仮に「神」の存在を消してしまうと、
「あらゆる人間は生まれながらに不平等で好き勝手に振る舞ってよい」という結論にもなり得る。
我々が思考について思いを巡らすとき、必ずこれらの「社会的思考」の問題がつきまとう。
その思考の出発も帰結も、常に帰属するコミュニティの影響を強く受けるのだ。
ゆえに、純粋なる独立した思考などありえない。
思考は一見自己のものであるように見えるが、現実にはマクロな共有思考の一部、亜流にすぎない。
故に、人類全体が「全体思考」を持っていると言う推論は成り立つ。