>>502 人形峠ウラン鉱山と労働者の被曝 1954年に原子力予算が成立してすぐ、日本では一気にウラン探鉱が始まった。 日本全土の半分を超える面積を探鉱した結果、1956年になって岡山・鳥取両県にまたがる地域がウラン鉱山として有望とされ、静かな山村が一気に「宝の山」へと変わった。 県境の峠は「人形峠」と名付けられ、一帯の鉱山を総称して「人形峠ウラン鉱山」と呼ぶようになった。 また、鉱山の運営は新たに設立された原子燃料公社に任された。 67年になって原子燃料公社は動力炉核燃料開発事業団に拡大改組されたが、およそ10年にわたってウランの試験的な採掘が行われた。 その挙げ句に、人形峠のウランなど全く採算がとれないことが明らかとなって、採鉱作業は放棄される。 その間、延べ1000名の労働者が坑内作業に従事したが、最近の一連の事故でも明らかになった動燃のずさんな体質はこの当時はいっそう酷く、作業環境のデータも個人の被曝データもまともなものは残っていない(と動燃は言っている)。 限られたデータは当時の坑内の作業環境が著しく劣悪で、坑内は国際的な基準と比べて1万倍ものラドン濃度であったことを示している。 私が暫定的に評価したところ、肺癌の犠牲となる労働者は70名となった。
>>502 人形峠ウラン鉱山と労働者の被曝 1954年に原子力予算が成立してすぐ、日本では一気にウラン探鉱が始まった。 日本全土の半分を超える面積を探鉱した結果、1956年になって岡山・鳥取両県にまたがる地域がウラン鉱山として有望とされ、静かな山村が一気に「宝の山」へと変わった。 県境の峠は「人形峠」と名付けられ、一帯の鉱山を総称して「人形峠ウラン鉱山」と呼ぶようになった。 また、鉱山の運営は新たに設立された原子燃料公社に任された。 67年になって原子燃料公社は動力炉核燃料開発事業団に拡大改組されたが、およそ10年にわたってウランの試験的な採掘が行われた。 その挙げ句に、人形峠のウランなど全く採算がとれないことが明らかとなって、採鉱作業は放棄される。 その間、延べ1000名の労働者が坑内作業に従事したが、最近の一連の事故でも明らかになった動燃のずさんな体質はこの当時はいっそう酷く、作業環境のデータも個人の被曝データもまともなものは残っていない(と動燃は言っている)。 限られたデータは当時の坑内の作業環境が著しく劣悪で、坑内は国際的な基準と比べて1万倍ものラドン濃度であったことを示している。 私が暫定的に評価したところ、肺癌の犠牲となる労働者は70名となった。