20/08/02 12:03:31 b+mgVSsQ0.net
旧皇族(旧宮家)の臣籍降下については、当時貞明皇太后が宮内府の筧素彦氏に
「これでいいのです。明治維新この方、政策的に宮様は少しよすぎました」
と語られたことが知られているが、この話には貞明皇太后にそう言わしめる背景が
あったことを考慮したうえで理解しなければならない。
言葉だけを切り取って文字面だけ取り出しても真実は見えない。
貞明皇太后は五摂家の一つ九条家の公爵九条道隆の娘で、大正天皇の皇后である。
が、大正天皇の皇后(当時、皇太子妃)にはじつは先に現在でいう旧宮家の
伏見宮貞愛親王の娘、禎子(さちこ)女王が先に「内定」していた。
禎子女王は「雪のように白く王女としての気品にあふれていた」とされる人物だったが
健康上の問題から内定を取り消され、代わりに入内したのが後に貞明皇太后と追号
された九条節子であった。
(なお、明治天皇は、大正天皇と節子の間に皇子が生まれた時に側近が
「禎子女王を皇太子妃にしなくてよかった」という発言をすると、その言葉を
さえぎって「子供が生まれないのは禎子のせいばかりではなかろう」
(この時、禎子女王は元高知県藩主家の山内家に嫁いでいた)と
お怒りになって禎子女王をかばったというエピソードがあり、禎子女王の
ことを悪く思っておられなかったことを表す記録がある(「明治天皇紀」明治35年6月)
貞明皇后には
旧皇族(旧宮家)とは嫁入り前から因縁の関係にあったのである。
さらに息子の昭和天皇、裕仁親王に現在旧皇族(旧宮家)と呼ばれてい久邇宮家
の良子(のちの香淳皇后)との婚約が決まると、これに激しく反対された。
結婚後も嫁である香淳皇后には「何かにつけて厳し」かったとされ、
貞明皇太后は五摂家の九条家出身であるものの庶子、つまり側室の子で
あったことから旧宮家嫡出の香淳皇后に対して「家柄」への妬みが
あったのではとされている。
貞明皇后の旧皇族(旧宮家)に対する言動にはこのような背景があることを
理解したうえで考える必要があろう。