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荒木貞夫
被告荒木貞夫は、訴因第一で、侵略戦争と国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争とを遂行する共同謀議について訴追されている。
かれは、また、このような戦争の遂行について、訴因第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五、及び第三十六でも訴追されている。
訴因第五十四と第五十五では、中国において犯された戦争犯罪の責任について訴追されている。すべての重要な期間において、かれは高級の陸軍将校であった。
1927年に中将、1933年に大将になった。全期間を通じて、かれは陸軍の階級組織の下で、顕著な人物であった。
かれは、国内では政治的支配、国外では軍事的侵略という陸軍の政策の熱心な提唱者であった。
実際において、かれは陸軍のこの運動の顕著な指導者の一人であり、またそう認められていた。
いろいろな内閣の閣僚として、日本の青年の好戦的精神を鼓舞したり、戦争に備えて日本の物的資源を動員したり、
演説や新聞統制を通じて、日本の国民を戦争へと扇動し、準備したりすることによって、
侵略戦争の準備をする陸軍の政策を促進した。政治的な地位に就いているときも、就いていないときも、
隣国を犠牲にして、日本を豊かにしようとする軍部派の政策の立案を助け、その強力な唱道者であった。
満州と熱河を中国から政治的に分離させ、日本の支配する政府を樹立し、その経済を日本の支配下に置こうとして、
日本の陸軍が右の地域でとった政策をかれは承認し、積極的に支持した。本裁判所は、かれが
訴因第一に述べられている共同謀議の指導者の一人であったと認定し、同訴因について、かれを有罪と判定する。
荒木は、満州で中華民国に対する侵略戦争が開始された後、1931年12月に、陸軍大臣に就任した。
1934年1月まで、かれは引き続き陸軍大臣であった。その期間を通じて、満州と熱河でとられた軍事的と政治的の諸政策の進展と実行について、
かれは顕著な役割を演じた。
中国の領土のその部分を占領するために、相ついでとられた軍事的措置に対して、かれはできる限りの支持を与えた。
1938年5月から1939年8月まで、荒木は文部大臣であり、その資格において、中国の他の部分における軍事作戦を承認し、それに協力した。
中国における戦争は、1931年以後、侵略戦争であったものとわれわれは認定した。そして、この被告はその戦争の遂行に参加したものと認定する。
従って、われわれは、訴因第二十七について、かれを有罪と判定する。