☆★★ 在日朝鮮人の歴史 Part4 ★★★at HISTORY2
☆★★ 在日朝鮮人の歴史 Part4 ★★★ - 暇つぶし2ch7:名無しさん@お腹いっぱい。
16/05/07 22:44:16.29 +C4rqdKq0.net
>>6 《続き》
 その運動とは、朝鮮総聯が日本の“現代史の「暗部」である強制連行の実態解明”を推進する「朝鮮人強制連行
真相調査団」を結成したことである。この運動は、昭和48(1973)年に北海道と九州で始まり、贖罪史観に囚われた
日本人学者と市民運動家などの協力も重なって多くの調査報告がだされている。
 そして朝鮮総聯は結成50周年を記念した『朝鮮総聯』(在日朝鮮人総聯合会、2005年刊)では、「朝鮮人はなぜ
日本に住んでいるのか」の説明に「強制連行」を強調するようになった(『朝鮮総聯』)が、朝鮮総聯の幹部にも
密入国者がいたことは常識である。
     (中略)
 敗戦直後から朝鮮人の犯罪は増加する。それは帝国敗戦前には想像できないことだった。警察機構の改編に、
朝鮮人に対する刑事裁判権の曖昧さが影響している。
     (中略)
 集団暴行、集団闘争、不穏行動が多く、集団による強盗事件は8件であった。殺人では、年の暮れの12月29日の
信越線の要所である直江津駅のプラットホームにおいて衆人監視のなかで日本人青年が朝鮮人の3人組に殺され
た事件がある。
 3人の朝鮮人は、ヤミ米を30キロくらいずつ持って列車の窓ガラスを叩き割って乗り込もうとした。それを咎めた
日本人青年を「朝鮮人にむかって生意気だ」と、パイプやスコップを使って殺害した。その後、所在地の警察は
朝鮮人3人組を逮捕し、殺人の現行犯として検事局に送ったが、越後高田に進駐した米軍軍政部が引き取り、
逃がしている。
 この米軍軍政部の行為は、進駐してきた米軍が朝鮮人を解放した、という認識での行為と見られた。真珠湾を
攻撃した日本人よりも、朝鮮人の地位を上げることで、朝鮮人の解放を示した行為でもある。
 1946年2月、GHQは、「朝鮮に帰還する意志のあることについての適当な証拠を提供した朝鮮人に対し、日本の
刑事法廷が下した判決は、GHQが審査し、しかるべき措置をとるものとする」(『日本における朝鮮少数民族』)との
覚書を発出する。越後高田の米軍軍政部の殺人者への対応は、このGHQの覚書を先取りしたものであった。
彼らが、戦時に徴用された工員であることが明白になるや、無罪放免したのである。
 敗戦直後は食糧難であった。GHQが満州からの引き揚げを1年間待たせたのは、日本の食糧難が背景にあった。
この時代、北陸から京都へ朝鮮人はヤミ米を運んでおり、1946年1月24日には京都でヤミ米捜査を巡って朝鮮人が
七条警察署を襲撃するという騒擾事件を起こしているが、それは進駐米軍の朝鮮人への対応を背景にしていた。
ヤミ米の摘発で、朝鮮人はたびたび日本の警察といざこざを起こした。
     (中略)
 犯罪は貧困と無知が生むとされているが、この時代では米軍軍政部、GHQなどの動きが在日韓国・朝鮮人をして
日本の法律に無頓着にさせた。アメリカ人の歴史学者エドワード・W・ワグナーは、「朝鮮人の文化的伝統からいうと、
個人の法律に対する関係は主観的なものであり、このことが朝鮮人の頭にたたき込まれていた」(前掲『日本におけ
る朝鮮少数民族』)ことが、在日朝鮮人の犯罪を多発させていたと論じている。
 それに、密入国者の多さにも犯罪多発の原因があったと警察庁の『犯罪統計書』に記述されている。
 密入国は世界の何れにおいても見られる現象であり、そのために「在留特別許可」制度が存在する。しかし戦後の
日本の場合は密入国の問題はその量、人数の多さ、敗戦後の国家再建の途上にあった情勢下においては、米国など
のそれとは比べることもできない程の重大事であった。朝鮮半島からの密入国者の増大に日本の経済再建に仇為す
と判断したGHQは、昭和21(1946)年3月に最高司令官の許可無き者の入国を禁止し、翌4月から取締を始めた。
《続く》


次ページ
続きを表示
1を表示
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch