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徴用工は日本の工員より豊かだった
中島航空機半田製作所の生活風景
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従って、「工場も機材も金も、すべて中島のもの、国のものではない」と認識していたが、占領後は誰のものとなるか
分からない。
そこで、8月15日、会社は従業員に対する感謝の気持ちもあって全工員に、「自分が使っていた工具に限り、スパナや
ドライバー程度は持ち帰ってよい」と内々に通達したという。
ところが、自分が使っていた工具どころか、会社の時計や自転車、スクーターまで持ち出して帰るものが出て収拾が
つかなくなる。
翌16日になると、朝鮮人労務者の乱暴者が工場内で物品の取り合いで暴れたり、大型機械からモーターを取り外して
持ち去ろうとしたりして大もめにもめたという。
会社の好意が無になったわけで、即座に「工具持ち帰り許可」を取り消すが、簡単には収まらず、3日目のノートは
「時々刻々変化スルカラ 持出 泥棒等ヲ厳ニスルコト 治安維持 火災 破壊 泥棒 風紀 警察 憲兵トヨク連絡」
と書き、続けて「半島工員ニ対シテ ナルベク早クカヘスモ 帰路ノ途ガツカヌノニ、旅費ダケヤッテモ ダメナルニツキ
方法ヲ講ズルコト」とある。
実際、一夜にして所を変え、戦勝国になった朝鮮人は東京、大阪などの大都市では土地を占拠して不法な行動を
起こしていた。
西氏は「徒党を組み愚連隊化して乱暴を重ねる。そんなことが日常化していた」と書いている。もっとも、これは8月15日
以降のことである。