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下関の在日朝鮮人の体験 ー故・姜海洙(カン・ヘス)氏の話よりー
URLリンク(www.chosyu-journal.jp)
下関では、当時松井信助市長の時期だが、全人口16万のうち1割が朝鮮人というまでになっていた。
小学校のクラス児童50~60人のうち朝鮮人が5、6人いた。大坪、園田、彦島などに朝鮮人の集団部落が
できたが、とくに大坪の部落になぜ朝鮮人が永住することになったのか。
旧植民地主義の亡霊との対決 74年前に引き戻すな 本紙記者座談会
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A 下関は朝鮮半島とのつながりが深く、それこそ戦後の調査では人口の約1割が在日朝鮮人だった。終戦後に帰国しようと
下関を目指した人たちが、さまざまな事情で帰ることができず、人口比としても大きな比率を占めている。在日朝鮮人がどんな
思いをして日本社会で暮らしてきたのかは、以前にも一世の故・姜海洙(カン・ヘス)さんの証言を掲載したことがあるが、
並並ならぬものがある。
二世、三世、四世と経て、それこそ帰化した人もいれば、日本人と結婚して子どもを産んだり、その子どもが日本人と結婚
して子どもができたりで、在日にルーツを持つ日本国籍の子どもたちも相当数いる。この街で育った者としては、幼少の頃から
在日の友人などいるのが当たり前だ。通名で暮らしている友人もいれば、進級進学に際して、突然朝鮮名を名乗り始め
「誇りを持って生きたいんだ」と話す友人もいた。なぜ、これほど在日朝鮮人が日本にいるのか? と子どもですら疑問に
思うものだ。