16/09/02 00:46:56.04 QDnYBI9C0.net
>>618
デマコピペとっくに論破済み。こっちから引用。
いちおう中村武生にメールしておく。無断転載がすぎる。
コピペ元は御所放火計画肯定論者の中村武生のブログ
お前がわざと省いてる続きは以下の通り。
3.古高の供述内容
●…なぜ印象だけで新選組は出兵したのだろう。
●私は新選組には「思い当たる」ふしがあったからと思っている。
●すでに八・一八政変前後から長州による京都放火、天皇の長州動座の噂が各地で流れていたのである。
●近藤勇自身も文久3年10月20日付宛先不詳の書翰で、八・一八政変以前に長州が
●「御所向残らず放火」「天皇を長州へ誘引致」すことを(意訳)計画していたと記している
●(現在所在不明、平尾道雄『定本新選組史録』73頁、新人物往来社)。
●新選組が古高を発見したとき、直感的に「あの一味」だと判断したのだろうと思うのである。
しかし古高を何者か確信をもたぬまま出兵したという点は賛成できるが、
●「御所辺放火計画」の実在を否定することには反対である。
●前回にも紹介した「新撰組より差出候書付写」(以下、「書付写」と略す)が存在するからである。
●筆者はこれを古高俊太郎の供述調書の良質の写本と位置づけていることもすでに述べた。
●注目すべきは、中川宮の「放火」についても、「6月4日、因州家来の山部隼太がやってきて申すには、只今大高又次郎方へ行ったところ、
●いよいよ近く中川宮を放火致すため相談しようとしたら、急考にはいまだ時節も少し早く思うので、
しばらくのところ差し止め置くことにした」と聞いたあることである。
●中川宮「放火」を隠蔽せず自供してはいるものの、延期になったと収拾する点である。
●拷問にともない強要された発言かとも考えられるが、延期と付言した上での供述は
●かえってその存在の信用性がたかまるというものである。
●計画の全貌は明らかにできないが、少なくとも中川宮「放火」は、計画のなかに含まれていた
●と認めてよいと思われる。
…
●「計画」が中川宮の「放火」を目指したものと明らかになると、気づかれることがある。
●当時の京都図によれば、中川宮邸は禁裏(京都御所)からほど近い、
●下立売門の東横に位置していた。これを放火することはすなわち、
●「御所辺放火」(「御所向放火」)を意味することにほかならないということである。
●「風便を待ち、御所を焼払」う計画の存在を記した6月9日付の一橋慶喜書簡の内容は捏造ではなく、