☆会津プロパガンダの嘘と真実の会津★at HISTORY2
☆会津プロパガンダの嘘と真実の会津★ - 暇つぶし2ch396:名無しさん@お腹いっぱい。
16/06/20 23:27:33.31 2uoY1aPl0.net
ここからが>>1の持ち出すコピペになる。

昼8時ごろ、寺泊に着いた甘糟は庄内の石原多門を訪れる。
石原多門は庄内兵を率いて来援したころ、5月18日に甘糟と水原で面識がある。
石原は甘糟に「饗応甚尽」し歓待する。甘糟も悪い気はしない。
さて石原が言うには
「会津の佐藤織之進という隊長が庄内兵ばかりを前線に差し向け、自分はサボっている。
応援に来た自分たちは自然やる気がなくなり、数十日虚しく過ごしてしまいました」という。
しかし、5月18日に来てからの海手口の戦いを見てると、
佐藤織之進は越後の緒戦から戦っていた歴戦の猛者で、旧幕軍の遊撃隊の隊長・坂本平弥が戦死してから、
その兵を吸収して新遊撃隊という部隊を作り、どの戦いでも名前が見える。
「むなしく過ごした」どころか、この数日前にも大攻勢をかけている。
石原はこの受け持ち口の責任者だったので、有力な隊長のせいにしてうるさい甘糟の矛先をかわしたようだ。

そこで甘糟は佐藤織之進を呼び寄せて、侠客・松宮雄二郎の奇襲案を告げ、2~3日中に進撃しろと督戦した。
ところが「庄人会人」、つまり石原も佐藤もうなずかない。2人とも松宮とは何度も一緒に戦ってる。

石原と佐藤の言い分は、その直前(6月19日には確認できる)の戦況と完璧に整合している。
「出雲崎の賊が恃んでいるのは久田の胸壁である。これを破るのは難しくないかも知れない。
ただ恐れるべきなのが敵方の蒸気船4隻である。これは最近この辺りに来た軍艦で、
進撃しようとすればこの蒸気船がたちまち沖より駆けつけて来て後陣を砲撃するので、
みだりに寺泊を動けない。また小島谷を守備する桑名兵は与板を抑える最重要拠点なので、
進撃するにはここに守備兵を置かなくては困る」というのが2人の主張。

つまり、進撃するなら増援をくれと言う要請。
甘糟はまだ松宮案にこだわっていたらしく、寺泊・小島谷にはいくつか小隊を送るから進撃しろ、
奇襲して出雲崎が落ちれば蒸気船は逃げてしまう などと楽観的な予想を力説して、
明日(22日)からの一斉攻撃を約束させる。

だが石原多門は納得しなかった。
「こんな部署を定めてもお前が戻れば形勢はたちまち変わる。
佐藤織之進や山田陽次郎はお前に遠慮しているだけだ。2~3日とどまって督責しろ」と迫るが、
だが甘糟は自分たちの担当する見附や栃尾方面が気になるので振り切って帰ってしまった。

2日後の23日、甘糟に督戦された海手方面の諸隊長は合議して部署を定める。
寺泊は新遊撃隊付属の松宮雄次郎隊、山田駅前方の胸壁には会津・庄内兵が交互に、
山田には水戸の伊藤辰之助隊、本陣を志度橋におき、佐藤織之進と石原多門が手持ち兵を率いる。

そして結果は、佐藤・石原の言った通りとなった。
会津庄内水戸などの連合軍は、出雲崎の敵艦から屯営に砲撃を浴び、敗退し、
それ以降は砲戦しか記録に出てこなくなる。
もともと海手口は「はかばかしき戦を聞かず」どころか、
閏4月から激戦を重ねて隊長らもだいぶ戦死し、
甘糟が督戦に訪れる直前にも何度か攻勢をかけ(6月11日以降と、直前の6月19日)
兵が損耗していた。
蒸気船の出現を知らなかった甘糟の無駄な作戦は逆に海手口の攻勢を止めてしまったと言える。


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