16/06/09 07:08:22.30 mLyaSzHQ0.net
>このように推測で、歴史を語るのが会津病患者です
吉田松陰はペリー来航直後、同志である宮部鼎蔵に書簡を送っている。そこには、「聞くところによれば、彼らは、来年、国書の回答を受け取りにくるということです。
その時にこそ、我が日本刀の切れ味をみせたいものであります」と記されていた(川口雅昭『吉田松陰』)。
長州人に拠る、吉田松陰アメリカ渡航プロパガンダの捏造は、バレて居るのだよ。
死者の遺体を穢多に「賊の亡骸としてなら、罪人墓地の大穴に捨てても良いよ」の趣旨で埋めさせたのが実態でしょう。
佛として弔わせて貰えなかったのですから、遺族が佛教徒なら、恨まれて当然な訳です。
>会津藩への弾圧は許せない
会津藩への弾圧では無くて、佛教徒に対する弾圧です。
佛教徒に対する弾圧を埋葬問題とやらにすり替え様としても、無駄ですよ。
>仏教弾圧などに話をすり替えようとするのも会津病患者の特徴の一つです
若松取締の 町野主水らが新政府軍務局長で岡山藩の三宮耕庵に働き掛け、
罪人塚から寺院に埋葬が変わったとはいえ、その作業は被差別部落の人々により行われ
「屍を投げ入れること岩石を扱う如し」であったという。
いたたまれぬ藩士たちは作業を丁重にしてくれるよう賎民に頼むも金を要求され、
工面できたが身分の違う賎民との接触は適わなかった。 そこで「白羽の矢」が立ったのが伴であった。
伴は鷹蕃頭として鷹の餌の鳥獣を買い入れるために例外的に賎民と接触が認められていたのである。
『君候の馬前で命を捨てるのも、彼らの中に入籍して斬られるのも精神において変わりのないはず、
殉難者のお骨は伴に拾わせて頂きたい』-伴は敢て身分を落とし直接作業に当ったのである。
町野は話の通じる三宮を訪ね、事情を明かし頼み込み、その計らいで伴は「埋葬方」に任じられた。
民生局監察方兼断獄久保村文四郎の嫌がらせであった。埋葬地につけた墓標等を撤去せよとの厳命がきたのである。
埋葬問題とやらが殺害の動機ならば、久保村文四郎の上司や部下まで殺害される筈です。
>明治天皇の即位は
>鳥羽伏見の前やがなWWWWWW
明治天皇は大嘗祭を行って居ない。
即ち、偽天皇
大嘗祭が行われた年
明治天皇 1871年(明治4年)悠紀 山梨県甲府市上石田(甲斐国)主基 千葉県鴨川市北小町(安房国)
即ち、『王政復古の大号令』とやらも、後の世に捏造されたもの。
偽天皇どころか偽親王が岩倉具視や三條實美ら朝廷と薩長で不当に起こした戊辰戦争
>後なら、そもそも
>すり替える必要が無いという…
偽錦旗が証拠
錦旗が本物ならば、鳥羽伏見の戦い以前から最前線に掲げて居る筈だ。
桂小五郎が錦旗を急造させたと言う説
大久保一蔵が錦旗を急造させたと言う説
偽錦旗を誰が急造させたかなんてのは、
所謂『官軍』が偽錦旗を使ったと言う事実から日本人の耳目を逸らす児戯じみた陰謀
URLリンク(www.archives.go.jp)
慶応2年(1866)12月、孝明天皇が崩御され、翌年正月、睦仁親王(明治天皇)が践祚(せんそ)されました。践祚後、皇位継承を知らしめるために行われたのが即位の礼です。
また、明治4年(1871)11月には大嘗祭(だいじょうさい)が催されました。
大嘗祭とは、即位の礼の後に行われる初の新嘗祭(にいなめさい)のことで、明治天皇の時には政情の混乱から先例より遅れて挙行されました。即位の礼から大嘗祭までの一連の儀式を大礼(たいれい)といいます。
明治天皇の即位の礼は、御所(現在の京都御所)紫宸殿(ししんでん)にて慶応4年8月27日に行われました。当初は、前年11月を予定していましたが、政治・社会の動乱期であり、準備が充分でなかったことから延期されました。
この間、輔相(ほしょう)岩倉具視は、神祇官副知事亀井茲監(これみ)らに対して、古典を考証し、唐の模倣ではない庶政一新の時にふさわしい皇位継承の典儀を策定するよう命じました。
結果、調度品からは唐風のものが排除され、儀式に地球儀が用いられるなど新しい要素も加えられました。
国立公文書館ホームページより、抜粋並びに転載