16/05/27 10:02:28.16 v59xsKqc0.net
>>228
×会津藩士は「他国の農民は虫けら」と見ていたのである。
○それに、会津藩士も、「他国の農民は虫けら」と見ていたのである。
幕末とうほく余話 加藤貞仁
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武士の実像
切腹した広島藩士
加藤は、矢吹の茶店で休んでいた農民を見つけて、自分の荷物を白河まで運ぶよう命じた。
そこにいたのは、矢吹からは東に位置する、現在の石川郡玉川村の農民、真弓作左衛門である。
作左衛門は、征討軍に徴発されて荷物運びをやらされていたのが、
ようやく勤めを終えて帰郷するところだった。
一刻も早く我が家へ帰りたいから、よけいな仕事は引き受けたくなかった。
それに、加藤善三郎の命令がひどく高圧的だったという。作左衛門は、それを断って、その場から逃げ出した。
『戊辰白河口戦争記』には、加藤が追いかけ、「武士の命に背くか」と言って、後ろから斬り殺したと記されている。
これは、完全に加藤善三郎が悪い。広島藩では、金で示談にしようとしたが、作左衛門の息子は絶対に承知しなかった。
それで、加藤に切腹を命じたのである。
侍に変じた農民たち
だが、ことが成就してみると、「ともに戦った庶民」は簡単に排除された。
長州にしても、箱館戦争後は五千人もの「諸隊」兵士を養っておく余裕はなく、
明治二年十一月、藩の常備軍を編成する際に「精選」と称して兵を選抜した。
常備軍の兵力は二千二百五十人で、採用されたのは武士階級ばかり、
しかも身分の高い者を優先したのが実態だった。
同年十二月一日の夜から、「精選」に漏れた「諸隊」兵士の脱走が始まった。
その数は千二百人とも、千八百人とも言われる。
たまたまその直後から、現在の山口県内各地で、庄屋や村役人の不正を糾弾する農民一揆が起きた。
脱走兵と一揆の農民は歩調を合わせ、内乱の様相を見せた。
結局、翌年二月、彼らは武力で鎮圧されたが、『高杉晋作と奇兵隊』(田中彰、岩波新書)によると、
「脱走兵士は農民出身が半数を占め、町人や社寺出身者を合わせると六一%、陪臣まで含めると、約七八%に達する」という。
この数字から見えて来るのは、旧態依然とした身分差別が、そのまま踏襲された姿である。
「軍人は武士である」と訓戒した山県有朋の頭の中に、そういう自省はなかったはずだ。
だから、暴力を肯定し、庶民を下に見る「武士の実像」が、その後の軍人精神の中で増幅されて行ったのではないだろうか。
そう考えないと、太平洋戦争末期に、サイパン島で一万人以上の民間人が巻き添えになり、
その多くが自決したことなどは説明がつかない。新渡戸稲造の『武士道』が武士の実相であるなら、
サイパン島守備隊の軍人は、自分たちが死ぬ前に、民間人の助命をアメリカ軍に嘆願したはずではないか。
しかし……彼らは、民間人に「お前らも死ね」と言ったのである。