70年談話狂詩曲(part2)【20世紀のアヘン戦争】at HISTORY2
70年談話狂詩曲(part2)【20世紀のアヘン戦争】 - 暇つぶし2ch56:代理屋 ◆XFizselqIb3B
15/11/28 12:18:57.89 wijvtqJZ0.net
■1938年のアヘン戦争8/特務機関★
文官の警察も日本の闇のアヘン政策の実行部隊で、特務機関のひとつだった。
'38年、中国奥地の警察の特務課に配属され、主任など務めたT氏は敗戦時、
兵を《……自決から救い、千余人の奥地開拓団婦女子の避難を助けた》
功績で、1974年、大平正芳外相から表彰された人物だけれど、彼の戦争中の
行状は陰惨をきわめた。氏は1980年代、《わたくしはもう、ごまかしをするつもりは
ありません。本名で、何もかも書いてください》と、作家・林郁氏に告げて、新京
            (*林郁/『新編 大河流れゆく』ちくま文庫 1988 頁189)
(長春)南嶺での麻酔なしの生体解剖の目撃談や、提出させた身分証を焼き、
身分証をもたぬ匪賊として民間人を射殺し、手柄に加えたことなど激白していた。
                          (*林/前掲/頁211-212、頁235)
特務機関にとり、アヘンは必須の兵器と云えた。
《……アヘン膏だと、ポキポキ折って口に入れるだけだから、空腹の貧乏人は
つい食べる。…… アヘンは苦を忘れ、一時的に活力を与えられるだけでなく、
性の快楽に心身をひきずりこむから、金銭より特務の役に立ちました》とか、
《私はアヘンを取り締まる一方で野放しにし、さらにスパイ工作にも使うという総反
することを同時にくり返す現場にいて、これは支邦民族の滅亡策だと思った。
…… 苦しい者は、生のあかしだと思って、飲んで性行為に耽る。それで衰弱する。
子どもは生まれなくなる。生まれても育ちにくい。それを承知でアヘンを使ったのは、
相手を人間とみなかったからです》などとT氏は回想していた。
                         (*林/前掲/頁200、頁207) ↓9へ

57:代理屋 ◆XFizselqIb3B
15/11/28 12:19:45.34 wijvtqJZ0.net
■1938年のアヘン戦争9/中島成子1★
次に、ひとりの女性にスポットをあててみる。
国立公文書館「アジア歴史資料センター」サイトで、かつて2、300万の読者を
有したとされる国内向けビジュアル・プロパガンダ誌『写真週報』が閲覧できる。
(※要DjVuプラグイン)  URLリンク(www.jacar.go.jp)
その1938年7月6日付「第21号」に 「北京婦女宣撫班」という記事がある。
記事に名はないが、そこに写る女性リーダーが中島成子(しげこ)氏だ。
張学良の家庭教師や、後に婦女宣撫隊長を務めた女史の名は、二反長半
『戦争と日本阿片史』や、これを引用した佐野眞一『阿片王』、また千賀基史
『阿片王一代』(光人社 2007)のあとがきにも茂子と表記されて出てくる。
   (*二反長/頁140、*佐野/文庫版/頁421、千賀/頁248-249)
女史は中国民衆から絶大な支持を得、その人気を利用し、日本軍の謀略に
加担するなどして、12年間、中国で拘束された唯一の日本人女性だった。
(※千賀氏は拘束30年としたが、これは誤り。1967年には日本にいた)
彼女は《……一個師団の兵力より重大……》と山下泰文大将は語ったそうだが、
その人気の背後にもアヘンに対する中国民衆の広汎な怒りがあった。
         (*朽木寒三『馬賊と女将軍』徳間書店 1967 頁10)↓10へ続

58:代理屋 ◆XFizselqIb3B
15/11/28 12:20:29.57 wijvtqJZ0.net
■1938年のアヘン戦争10/中島成子2★
女史は、満州事変で日本が農民の武器を没収したとき、匪賊から村を守るため、
身重の身体をおして軍と交渉。無事に返却させ、民衆と軍の両者から注目された。
そして、その評価を決定づけたのは1934年、満洲国の要人列席のうえ開催された
「社会事業大会」のできごとだ。女史は千人の聴衆を前に、壇上からタブーに挑んだ。
《それはアヘンのことです。……(※大幅略)……満洲事変の前は禁じられていたのに、
なぜ、日本は今それを許可するのか。……今日ここにお集まりの……皆さん、ひとり
残らずが胸にいだき、言いたくてたまらないのに、それが言えないでいるのです。何が
五族協和か何が王道楽土ですか》
             (*朽木寒三『馬賊と女将軍』徳間書店 1967 頁100-101)
壇を降りるとき、嵐のような拍手が巻き起こったという。
アヘンへの怒りを共有し、代弁してくれる勇気ある女性として民衆の信頼を得た。
そして日本軍はこれを利用し、婦人宣撫班の隊長に女史を抜擢した。
                     ↓'39年へ続

59:代理屋 ◆XFizselqIb3B
15/11/28 12:22:27.42 wijvtqJZ0.net
■1939年のアヘン戦争1/テロ合戦と謀略★
日本に伏しない武装集団に、女史は軍でなく自分に帰順してくれと説得した。
多くの馬賊・匪賊がメンツを保って、日本軍と間接的に非戦協定を結んだ。
いわゆる半帰順だ。日本軍を苦しめた高名な匪賊は、麻薬の儲け話をエサに
帰順を誘う工作員に「灸をすえ」、自ら成子を指名して呼び出し半帰順した。
『日本憲兵正史』も、帰順工作に失敗して虐殺されたケースをつづっていた。
メンツを重んじる武装集団に、アヘン工作は逆効果となる場合もあったようだ。
女史はその匪賊を使い、日中がテロ合戦する租界で軍の謀略に手を貸した。
英租界を根城とする蒋介石のテロ組織「藍衣社」と、日本の特務機関との
市民を巻きこむ暗闘は、壮絶、かつ陰惨をきわめていた。
ここで女史は、1939年3月、英国租界の商工会の大物を匪賊に誘拐させ、
これを憲兵隊が救出したことにして貸しをつくり、「藍衣社」を抑制させようとした。
           (*朽木寒三『馬賊と女将軍』徳間書店 1967 頁227-286)
工作の評価については、女史の自賛と現実に乖離があるようなのだが、ともかく、
そうした政治力を女史にもたらしたのは、皮肉にも日本の特務機関の最大の
武器であるアヘン・麻薬への中国民衆の嫌悪に他ならなかった点は確認できる。
                    ↓2へ


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