70年談話狂詩曲【安倍氏は修正主義者の代理人?】at HISTORY2
70年談話狂詩曲【安倍氏は修正主義者の代理人?】 - 暇つぶし2ch43:代理屋 ◆XFizselqIb3B
15/10/25 16:38:32.49 zt/LXH+H0.net
■1935年のアヘン戦争2/排日・侮日★
日本の商人は《……かような商売をしないなら、みすみす馬鹿を見る……》と、
英国の阿片ビジネスに習っている。《商人が十万やそこらの稼ぎをするくらいは、
めくじら立てるほどのことでもなかろうが……日本人はみなヘロインやモルヒネを
商売にしているように思い込ませるのは、国家の名誉にとって具合のよいことでは
あるまい。……日本は何かにつけて、中国人を排日とか侮日ときめつけるが……
一地方の人民ことごとくに日本人をモルヒネ屋と信じさせるのこそ、侮日の
はなはだしいものではないか》とした。同意。自国の弁解困難な「負」に沈黙し、
その反応を「被害」として語るのも、国の品格を貶める「侮日」ではないのか。
        (*周作人『日本談義集』訳:木山英雄 東洋文庫 2002 頁185)
また氏は、大震災の虐殺や右翼の一人一殺テロなど断罪し、最後に日本人が
《……残酷な行為は日本民族本来のものでなく、必ずや支邦より伝来せるもの
……》と語るのを、こうした《……言い方は真似たくないものだ。反駁の資料が
ないわけではないが、それもしたくない》と冷静に日本をたしなめて筆をおいた。
80年前の周作人の指摘は、悲しいかな、現在日本にも通用しそうだ。
                          (*周作人/前掲/頁189)
なお「反駁の資料」は、少々心当たりがある。興味ある方は下記参照のこと。
スレリンク(history2板:48-54番)

44:代理屋 ◆XFizselqIb3B
15/10/26 17:16:49.29 /QEKon7t0.net
■1935-1937年のアヘン戦争/言い換えれば★
1937年にも、周作人は'35年「日本管窺」の4作目の続編を著していた。
そこで氏は拙>>39の文を引用しつつ、再度アヘン・麻薬問題に言及した。
いわく《……密貿易事件。日本はこれを特殊貿易と称している。なかなか
ユーモラスな名詞ではある》と、言葉の言い換えを皮肉り、《素直に阿片と
いうべきところを……》「土薬(トウヤオ)」といったり「西北貨(シーペ
イフオ)」、「国貨(クオフオ)」と称したりする日本の姑息さを批判した。
  (*周作人『日本談義集』訳:木山英雄 東洋文庫 2002 頁302、頁308)
しかし、どう表現しようと1937年の日本は、世界から拙>>14で記したとおり、
「非合法麻薬の9割」を供給する国とされていた。
その日本と、同年、中国はついに全面戦争に突入する。
19世紀、9票差で英国議会を通過した英清戦争に対し、大政治家グラッド
ストンは、英国国旗が《……悪名高い密貿易を保護するために掲げられ……》
ると激越な批判を加えた。今日、その戦争がアヘン戦争と呼ばれるのを考えた
とき、日中戦争を日中アヘン戦争と言い換えても誤りではないように思う。
        (*歴史学研究会『世界史史料〈6〉』岩波書店 2007 頁149)

45:代理屋 ◆XFizselqIb3B
15/10/27 17:22:44.16 /WcBDLu10.net
■1937年のアヘン戦争1/阿片の商標日の丸★
東京裁判で弁護人を務めた池田純久中将は、日本が再独立して間もなく、
「阿片の商標日の丸」と題した証言を残していた。今回、その全文を引用しておく。
《事変当時日本で喰いつめた一旗組が、中国の奥地に流れ込んで、阿片の密売に
従事しているものが多かつた。彼等は治外法権を楯に日の丸の国旗を掲げて公然と
阿片を売つているのである。だから中国人の内には、日の丸の旗を見てこれが阿片の
商標だと間違えているものが少なくなかつた。時々日本の国旗凌辱事件が起り外交
問題に発展することがあつたが、よく調べると中国人はそれを国旗とは知らず、阿片の
商標だと思つていたという、全く笑い話のような滑稽談さえあつた。戦前に或る日本の
名士が中国奥地を旅行した。車窓から山間の寒村に日の丸の旗が翻つているのを見て、
「日本の国威がかくも支那の奥地に及んでいるのか」と随喜の涙を流したという話がある。
なんぞ知らんそれが阿片の商標であることを知つたら彼はなんといつて涙を流したであろうか。
とにかく日本人の阿片密売者は中国人から蛇蝎の如く恐れられていた。こうした心なき者達の
跳梁が延いては両国の親善を害し、日本人が嫌われる遠因ともなつているのである》
             (*池田純久『陸軍葬儀委員長』日本出版協同 1953 頁43-44)
(※文頭の「事変」を江口圭一氏は「支邦」、佐野眞一氏は「満洲」と捕捉していた。
 ここでは便宜上、江口説に従ったが、佐野説が妥当と思われる)        ↓2へ 

46:代理屋 ◆XFizselqIb3B
15/10/28 12:24:43.36 3uhyZpta0.net
■1937年のアヘン戦争2/通州事件★
日中戦争がはじまり3週間ほどした7月29日、通州で日本人、朝鮮人あわせて
200人以上が虐殺される事件が起きた。
通州は親日派の冀東(きとう)政権の支配する中国領の首都で、日本との緩衝
地帯となっていた。その保安隊による反乱だった。冀東政権は、その責任を認め、
ただちに謝罪・賠償をおこなったが、日本の世論は当然のごとく激昂した。
犠牲者には多くの女性がふくまれ、殺害の手口は済南事件(拙>>25)につづき、
関東大震災での妊婦の腹を割き、陰部に竹槍といった蛮行を想起させる残虐な
ものだった。この事件が、数カ月後の南京虐殺の心理的要因だったとされる。
スレリンク(history2板:177-186番)など参照
そして、この残虐事件にも、日本のアヘン・麻薬政策の闇が深く関与していた。
当時の支那駐屯軍司令官香月清司中将『支那事変回想録摘記』によれば、
犠牲者の内訳は邦人104名、朝鮮人108名。朝鮮人の大多数は《……「アヘン
密貿易者および醜業婦にして在住未登録なりしもの」……》だったという。
  (*信夫清三郎『聖断の歴史学』勁草書房 1992 頁116より重引)↓3に続

47:代理屋 ◆XFizselqIb3B
15/10/29 18:31:35.72 5hgjl+WA0.net
■1937年のアヘン戦争3/通州・冀東地区と麻薬★
長くなるが上記につづき、少し詳しく通州と麻薬の関係を述べておく。
1934年より南満洲で製薬会社を設立して麻薬製造に参画していた山内三郎氏は、
通州を首都とする冀東地区の実態を次のように書いていた。
日中の緩衝地帯であった冀東地区は、《……支邦の領土であって、しかも支邦の
法律は適用せぬ、いわば日本租界……》で、親日派の長官が日本軍と手を結ぶ
ことにより《……満洲、関東州などから送り込まれるヘロインなどの密輸基地……》
となっていた。通州の《……郊外ですら、日本軍特務機関の暗黙の了解のもとに、
麻薬製造が公然と行われ……冀東地区から、ヘロインを中心とする種々の麻薬が、
奔流のように北支那五省に流れ出していった》という。
         (*山内三郎「麻薬と戦争」『人物往来』1965年9月号 頁168)
この闇のビジネスの製造・販売の〝大卸し〟〝中卸し〟は邦人が、その先の
〝小卸し〟〝零売人〟は朝鮮人が担っており、民衆の憎悪の的となっていた。
                       (*山内/前掲/頁171)↓4へ

48:安倍氏 GJ!
15/10/30 09:51:30.51 HinNvYGVl
在日天国が終わったと泣き喚いてる by 在日達

在日朝鮮人の生活保護 働かずに年600万円もらって優雅な生活
URLリンク(itainews.rnill.com)
【拡散】在日上層部が暴露する在日特権の実態が ヤ バ す ぎ た !!!
URLリンク(www.news-us.jp)
【拡散】在日は通名制度を悪用すれば【 年収1億円 】になれることが発覚!!!
これやってる奴絶対いるだろ!!!
URLリンク(www.youtube.com)
朝鮮人への生活保護不正受給を斡旋する組織!
URLリンク(s.ameblo.jp)

【安倍政権の生活保護受給に対する政策がいよいよ実行】在日外国人が働くことをせず
生活保護受給する場合は祖国へ強制送還となります
URLリンク(www.youtube.com)

韓国政府の在日狩りがえげつない!徴兵拒否は絶対に許さない!兵役逃れには制裁を用意する韓国兵務庁
URLリンク(www.youtube.com)

      ●厳選!韓国情報(掲示板有り)●
        URLリンク(gensen2ch.com)

49:代理屋 ◆XFizselqIb3B
15/10/30 18:49:14.19 +x27J2gI0.net
■1937年のアヘン戦争4/麻薬のカネで戦闘機★
麻薬のもたらす経済効果は絶大で、《全満洲、関東州は冀東景気で沸き返った》。
若者ですら《……ちょっと手を染めるだけで、身分不相応な収入を得ることができ、
彼等の遊び興ずる姿が、天津の花柳界に夜な夜な見うけられ……大連の花街や
ダンスホールなどは、当時の金で一晩に数百円の遊びをする青年たちによって埋め
られた》という。        
          (*山内三郎「麻薬と戦争」『人物往来』1965年9月号 頁168) 
そうした業者にとり、《……日本軍、とくに憲兵隊から渡された〝安導券〟は……
何にも変えがたい宝……》で、《……その保護がなければ……あれほど安全な商売が
やっていけるはずはなかった》。            (*山内/前掲/頁170-171)
安導券は通行証で、業者はその見返りに一機5万円の戦闘機をよく軍に寄贈したと
いい、《陸軍の戦闘機の献納者名簿にはヘロイン屋の名が数多く記されてあった》。
献納式で表彰された業者は、《……〝われらこそ国策に沿って、軍のために、日本の
ために働くものである〟……》と、さらにビジネスに励んだとされる。
                             (*山内/前掲/頁171)
また闇の富は戦闘機だけでなく、あるいは人の魂に触れる施設にも? ↓5へ

50:代理屋 ◆XFizselqIb3B
15/10/31 08:57:52.16 Tjk89goh0.net
■1937年のアヘン戦争5/青島の神社と忠魂碑★
>>43の山内三郎氏は、青島(>>19>>21)でヘロイン製造の技師だったけれど、
1937年、その青島で社会学者の日高六郎(1917-)氏の


51:父親は教師をしていた。 7月7日の蘆溝橋事件後、先行きを案じる中国人の訪問客が増えるなか、親友の 中国人教師も来て、父親に中国人の間の以下のウワサについて意見を求めてきた。 青島には6万6千坪の境内を有す青島神社や、高さ40mの忠魂碑が建っていた。 その資金の出所について親友は問うた。軍政下の青島において、《軍は、日本の 商店や闇商売を営む個人に、アヘンの密売をゆるし……》かつ奨励さえしていた。 その資金で建てられたのではないかというウワサについてだった。           (*日高六郎『戦争のなかで考えたこと』筑摩書房 2005 頁101) 父親は、軍が機密費に使っても、それはないと思うと否定し、英国の話をもちだすと、 中国人の親友は即座に、《アヘン戦争は一八四○年です。私が知りたいのは、 青島で日本軍がなにをしたかということです》と、遮ったという。                     (*日高/前掲/頁102)↓6へ続



52:代理屋 ◆XFizselqIb3B
17/10/04 20:34:45.86 7sp/aBFoH
■70年談話狂詩曲(part2)【20世紀のアヘン戦争】sc版

2ch net版(現5ch)の当スレッドは>>46後、突如ナゾの倉庫送りとなった。

そこで「70年談話狂詩曲(part2)【20世紀のアヘン戦争】」を建て、
スレリンク(history2板)
続きをupしたものの、当sc版ではpart3のみでpart2は見当たらない。

そこで今回、part1の当スレッドにpart2の中身を少々改訂のうえ、
続きをupしておくことにします。↓

53:代理屋 ◆XFizselqIb3B
17/10/04 20:40:52.23 7sp/aBFoH
■1937年のアヘン戦争6/青島の神社と忠魂碑2★
日高六郎氏の父は親友の中国人が帰ると考え込み、アヘンの噂にショックを
受けている20歳の六郎氏にこう語ったという。
 《「もし、そういうことだったら、司令官は腹を切って天皇にお詫びする
ほかない。
御神体は、天皇家の皇祖、そして明治天皇だからね。その方々の神殿を汚い
金で建てたとすれば、それは大罪だよ」
私はだまった。父は、日本人として私の前に座っている。わが子にさえも、
絶対否定で通そうとしている……。しかし、父自身、そのうたがいを否定
できないでいることを、私は感じた》
      (*日高六郎『戦争のなかで考えたこと』筑摩書房 2005 頁103)
日本人が当時、日本のアヘン・麻薬の闇を知らなかった話は幾度か書いた。
けれど、それはあるいは無意識に目を伏せ、耳をふさいだ面もありそうだ。
人は信じたいものを信じ、信じたくないものに眼をつぶる業をもつ。
自分もふくめてだが。

しかし真偽はどうだったのか。神社建立にアヘン益が投じられた事実は
あったのだろうか。以下、この件について少し検討してみることにする。
                  ↓7へ続

54:代理屋 ◆XFizselqIb3B
17/10/04 20:55:02.54 7sp/aBFoH
■1937年のアヘン戦争7/ふたたび通州保安隊★
アヘン益の使途を考える前にいったん通州保安隊(拙>>42-43)に話を戻す。

《冀東政権にはあまりに問題が多かった。まず、日本商人の密貿易で大量の
綿糸、雑貨などが税関を抜け無税で北支へ流入した。これでは北支の経済が
混乱するのも当然であったろう。…… こんな民衆の生活を脅かす政権が
永続するはずはない。さらに、かつて関東軍が……治安攪乱に使ったゲリラ
部隊は……匪賊たちで……関東軍は、これを……冀東政権の保安隊にした》

冀東政権の首都・通州での虐殺犯は、もとを辿れば関東軍が中国を混乱
させるために抜擢した組織だったわけだ。上の発言は、全国憲友会連合会
『日本憲兵正史』(研文書院 1976 頁482)による。

憲友会は憲兵隊の戦友会だが、気になるのは経済混乱を引き起し、民衆の
暮らしを脅かす密輸品目に、その最たるものである「アヘン・麻薬」について
沈黙している点だ。この点に留意しつつ、さらに話をつづける。                       ↓8へ続

55:代理屋 ◆XFizselqIb3B
17/10/04 21:24:29.76 7sp/aBFoH
■1937年のアヘン戦争8/一旗組と神社と忠霊塔★
『日本憲兵正史』は、拙>>46の問い掛けに示唆をあたえてくれそうだ。

《……支那大陸へ渡った傲慢な一旗組の邦人や利権屋……は時勢に便乗し、
軍の権威を巧みに利用し……その専横さは目に余るものがあった。……戦火を
逃避した支那人の店舗など……勝手に占有 し……持主が帰って来ても……
返さない。……多くは無料に等しい家賃を払って居直る始末で……合弁会社
なども名目のみで、多くは内地からの邦人が、その権利、利益を独占して
はばからなかった。こういう輩に限って、直ぐ神社や思霊塔をつくりたがる》
      (*全国憲友会連合会『日本憲兵正史』研文書院 1976 頁530)

これが真相ではなかろうか。ここで当時の憲兵の複雑な心中にもふれておく。
《これらの人々の無神経な思想が、どれほど支那民衆の反日感情を刺激したか
わからない。……さりとて軍が撤兵すれば財産を失い、支那民衆の報復を
受けるのは必至である。軍は彼らを護ってやらなければならない。
……支邦へ渡ったいまわしき日本人の行為が……軍部に大東亜戦争への道を
選ばせたものといえないこともないだろう。……その責任は決して軽くは
ないのである》             (*全国憲友会/前掲/頁530)

上の認識には同意する。が、残念ながらここでも憲兵の関与が無ければ
不可能だった「アヘン・麻薬」密売への言及はない。
つづけて青島にまつわる別の証言を紹介する。    ↓9へ

56:代理屋 ◆XFizselqIb3B
17/10/04 21:33:48.80 7sp/aBFoH
■1937年のアヘン戦争9/日本国内のケシ栽培★
この年、日本本土では《……全国で一万二千戸の農家がケシを植えた》と
いう。日中開戦でモルヒネ需要が《……それ以前の約3倍になった》ためだ。
(*倉橋正直「阿片を用いた日本の中国侵略」『15年戦争と日本の医学医療
研究会会誌』2007年2月 頁2、頁4)URLリンク(war-medicine-ethics.com)

このケシ栽培の普及と品種改良に生涯をかけたのが、里見甫氏と少し異なり、
敬意をこめて「阿片王」と呼ばれた二反長音蔵(1875-1951)氏だった。

音蔵氏の子息で児童文学者の半(なかば)氏は、『日本憲兵正史』が刊行
された翌年の1977年に《……今でこそ発表できる記憶である》と断って、
『戦争と日本阿片史』を上梓した。ここで氏は、同家に残るナゾの密売屋の
史料などを開示しつつ、戦前、《……実際には日本政府、日本財閥、日本
軍部、中国軍閥などの強力な後ろ盾……》のもと、国をあげて麻薬密輸・
密売に手を染めた歴史の闇の一端を公表した。
       (*二反長半『戦争と日本阿片史』すばる書房 1977 頁95-96)
音蔵氏は朝鮮、満洲、内蒙古に何十回も赴き、仕込杖や拳銃や*、ときには
憲兵に**守られながら栽培法を伝授していた。そこには青島の表記もある。
(*二反長/前掲/頁94**倉橋正直『日本の阿片王』共栄書房 2002 頁8


57:6)                 ↓10へ続



58:代理屋 ◆XFizselqIb3B
17/10/08 16:56:01.07 6/XjgWnFj
■1937年のアヘン戦争10/密輸・密売人の愛国心★
半氏は1次大戦から日本軍は青島に軍政を敷き《……完全に阿片を制圧して
いて、個人名で自由に密売し、その得た利益は計り知れな……》かったと
述べ、1922年の中国返還時、軍の《……あり余った金は、中国人名義で
不動産にかえ……》てプールしたと書いた。そしてそこが済南(>>25)の
厖大な土地であり、後に居留民会が管理したらしい、と付記した。
        (*二反長半『戦争と日本阿片史』すばる書房 1977 頁195)

密売業者は何人も音蔵氏に近づき、《「あんたの決心一つで、あんたは
なんぼでも儲かりまんねで、国のため、国のため、いうても色々おます。
支那人の金が日本人のあんたのふところに入るのも、国の富むもと、
国のためやおまへんか」そう言って音蔵を仲間に入れようともした》という。
                            (*二反長/前掲/頁117)
音蔵氏はその誘いを一蹴したそうだが、彼らの「国のため」はホンネの
部分もあったろう。前述のケース(>>45>>50)をふくめ、後ろめたさを
「国益」「愛国」の御旗で覆い、自身を納得させようとするのはありがちだ。

日高氏の父親からみれば許しがたいことでも、アヘン・麻薬密輸に励んだ
軍人にとり、その益を青島の忠魂塔('17)や神社('19)建立に注ぐのは、
むしろ自然な流れだったのではなかろうか。
                 ↓次回'37年のラスト

59:代理屋 ◆XFizselqIb3B
17/10/08 16:59:49.46 6/XjgWnFj
■1937年のアヘン戦争11/漸禁から10年断禁へ★
 '36年末、満洲国の中国高官は《……現行の阿片専売制度の即時
廃止……》の声を公然とあげ、1937年1月の全国の省長を集めた
新京での会議において、一斉に「阿片亡国論」を訴えて《……阿片
政策の見直しを要求……》し出した。
   (*山田豪一『満洲国の阿片専売』汲古書院 2004 頁680-681)
こうしたなか東条参謀長は「アヘン断禁」を決意。星野、岸氏らの専売
維持派と、 東条氏の意を受けた辻政信氏らが激しく対立する。
                    (*山田/前掲/頁682-683等)
日中開戦をはさんだ長期にわたる「大会議」を経て、22日、ついに
満洲国も断禁へと舵を切る。ただし、それは10年内に断禁を実現すると
した法令で、さらに「付則」も用意され、医師の処方箋と等価とみなす
警察発給の「登録証」があれば、《……一般の麻薬使用者にヘロイン、
モルヒネを売ること……》のできる制度だったけれど。
                       (*山田/前掲/頁886)
とまれアヘン・麻薬を引き続き主財源としつつも、中国人官僚らの
努力によっては断禁も実現可能な体制に移行したといえそうだ。
日中戦争が火ぶたを切った'37年、もう民衆の不満を押さえ込むのは
困難だったのだろう。
しかし一方で、軍は既述のように海外から大規模なアヘン密輸を計画。
日中アヘン戦争は第2ステージに移行したといえる。
                ↓ 以後より1938年

60:代理屋 ◆XFizselqIb3B
17/10/08 17:03:08.81 6/XjgWnFj
■1938年のアヘン戦争1/里見甫と宏済善堂★
1938年4月、イランから戦費用アヘンの第一便が上海港に到着した。
それを売ったのは、拙>>15で触れた「阿片王」里見甫氏の上海の
宏済善堂だった。



61:宏済善堂は《……軍が阿片取引に深入りするのを心配した昭和天皇が、しばしば「どうなっているのか?」と御下問になるので、里見にその旨を含ませ、軍の隠れミノとするため発足させた》組織だったと、当時の特務部・侍従武官は戦後に証言していた。            (*佐野眞一『阿片王』新潮文庫 2008 頁209)この巨大アヘン取引では、イランのアヘン専売会社との独占契約をめぐり、三井物産と三菱商事が領事館をまきみ一大バトルを展開。駐イラン大使は広田弘毅外相への報告のなかで《……年六00万円にのぼる大取引なるうえ、これをおいて他に相当なる商売なきため、両者とも……大局的利害を省みる余裕……》を無くしていると嘆いた。         (*江口圭一『日中アヘン戦争』岩波新書 2008 頁99)周作人の言葉を借りれば、商社としては「かような商売をしないなら、みすみす馬鹿をみる」(拙>>39)ということだろう。とまれ、宏済善堂が得た利益は、東京裁判の里見証言によると約2千万ドル。 《……二千万ドルという金額は、当時の為替レートで換算し、現在の貨幣価値に直すと、 三十兆円近くにのぼる》と、佐野眞一氏は2005年時点で説明していた。                  (*佐野/前掲/頁211)  ↓2へ



62:代理屋 ◆XFizselqIb3B
17/10/08 17:06:36.17 6/XjgWnFj
■1938年のアヘン戦争2/カイライ政権の財源★
宏済善堂は1938年の輸入分だけで、1箱1600ポンド(72キログラム)の
アヘンを428箱入手した。このうち5箱は、封印貨車により占領下の
南京へ送られた。南京に日本軍は、カイライ地方政権「中華民国維新
政府」を樹立していた。
《……同政府が財源に窮したため、満鉄上海事務所南京支店の……》
所員が特務部と掛け合って、アヘンを送ったのだ。日中開戦後、満洲国は
断禁に向かったものの、占領地を拡大すればするほどアヘンは必要となった
といえる。     (*江口圭一『日中アヘン戦争』岩波新書 1988 頁98)
当時、日中戦争は「不戦条約」や中国の主権を認めた「9カ国条約」違反
だと国連から非難されていた。これに対し日本は「事変は戦争ではない」と
する一方、'37年12月に、北京にカイライ政権・中華民国臨時政府を擁立。
こちらこそ真の中国だとして、1938年1月16日、近衛首相は「爾後国民
政府を相手とせず」の声明を出す。悪名高きこの声明は、交渉相手を
失なうことを意味し、戦争は日本の期待を裏切って泥沼化していく。
1909年来の20年におよぶアヘン・麻薬政策の「加害」を自覚できない
日本人にとり、中国民衆の抵抗の意志の強さを想像するのは困難だった
かもしれない。               ↓3へ

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