15/11/03 15:49:17.76 rROujbOp0.net
長州は大減封からはじまったのでもともと財政事情がよくない藩だったが、
毛利の支配が長く安定していたし、減封の際、主が家臣の再仕官に奔走したこと
帰農した家臣が多かったことなどから、かえって藩の官民の仲がよかった。
その点、水戸や会津のようなハンデを追っていなかったかもしれない。
江戸中期後貨幣経済が浸透してきた際は他藩の例にもれず財政がひっ迫したが
地理的な利点もあり、改革後には全国的に見て指折りの雄藩になった。
またやはり地理的な利点により、西洋文化の浸透も早かった。
武家としての家格も、国主であり、官位の高さから言っても
徳川に怨恨をもつ大名の中の筆頭だったと言える。
藩主が英明であったとはあまり言えない藩であるが
和を重んじる家風もあり、かえって合議の慣習が発達した面がある。
官民の仲もあいまって、幕末の人材登用は融通のきく抜擢が行われ
明治維新後の政府を支える人材を多く輩出することになった。
藩校ですらない松下村塾に席をおいていたにすぎないほどの末端藩士たちを登用し
多く政治に参加させたことは他藩よりすぐれていると言わざるをえないだろう。
奇兵隊や大村の藩民皆兵的改革もここに淵源がある。