15/10/29 07:38:22.23 zpkhOQM60.net
>>281
あまりに混乱してて読んでるほうが頭痛い、まず時系列がおかしい
・四候会議は幕長戦争停戦後のできごと
・薩摩藩は幕長戦争停戦後に対幕宥和路線を志向し、在京坂の兵力の国元引き揚げを実施している
・四候会議では長州藩は赦免運動に期待を抱いている
・四候会議後に薩摩藩は途中で薩土盟約を選択し長州藩の強い不信を買っている
よって「保険をかける」と言う意味が不明
・薩摩藩がこの段階で考えていた倒幕は将軍職廃止のための武力クーデタであり対徳川家全面戦争ではない
・長州藩の版籍奉還時の単年度赤字は歳入の3倍以上に達し、薩摩の倍くらい悪い。
全国的に見てもかなり悪い
・幕長戦争は前述したように四候会議の前の出来事。そしてこの時に、薩摩、宇和島、佐賀、芸州など各攻め口の中心となる大藩は不参加
幕閣にも避戦論が根強くあり、開戦後2週間ほどで老中本荘宗秀が独断で講和交渉を開始し、芸州口の戦闘が1か月空転してる
・どの藩もまさか長州が勝つと思ってなかったどころか、慶応2年1月の盟約3条に見る通り、
西郷吉之助は「万一負色にこれ有り候とも一年や半年に決て壊滅致し候と申事はこれ無き事に付」と言う極めて楽観的な見通しを示している
さらに言えば幕兵東帰の場合まで想定されており開戦が回避される可能性も考慮に入れている
・慶応の軍制改革の効果はかなりあったと認められるが、例えば芸州口の戦闘では長州側が井伊家や寄せ手との戦闘の際に
「わが方の士官が未熟である」旨の報告を行ってるように長州藩兵もまだ実戦経験が十分とは言えない
・第2次幕長戦争の寄せ手の敗因は第一に雄藩の不参加・非協力、第二に関門海峡での差押えによる大坂方面での物価騰貴、
第三に主力となる幕軍の厭戦気分。芸州口は紀州藩が総督辞任騒動、下関口は熊本藩や幕府海軍が非協力姿勢だったのが大きい
なお大島口も幕府艦隊の移動がはたして長州兵の攻撃を恐れてなのか、芸州口の攻防の際に艦砲射撃を行うためだったのかは不明 <