15/08/31 04:58:38.24 9yOjLh1v0.net
蛤御門の変で、イギリス製エンフィールド銃で武装した薩摩軍が長州軍を撃退した。
第二次長州征伐で、イギリス製エンフィールド銃で武装した長州軍が幕府軍を撃退した。
長州に坂本龍馬が輸送した薩摩名義のミニエー銃とは、
前装式ライフル銃の最高傑作のイギリス製エンフィールド銃
日本人が出来たのは、イギリス製エンフィールド銃を元込めに改造して、
スナイドル銃の出来上がり。
日本の近代工業化と第二次長州征伐は、何の関係も無い。
101:名無しさん@お腹いっぱい。
15/08/31 20:34:07.82 IC2hf1tc0.net
>>93 >>96
薩長同盟がなかったら、長州の単独力だけで倒幕に成功できたか?
102:名無しさん@お腹いっぱい。
15/08/31 21:18:49.87 eoE4iqME0.net
薩摩の反射炉の方がよかったもんな
西洋も佐賀も薩摩も同じひとだ、頑張れ、みたいな斉彬の言葉があったな
103:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/01 07:33:55.84 19Hu7f2b0.net
>>101
それ英雄たちの選択でやってたね
薩長同盟がなかった場合の可能性
桂や大村っていろいろ考えたんだなって関心した
104:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/03 22:10:46.19 AV6/AbEN0.ne
105:t
106:jュートン一人の足下にも及ばないと思うんだけどね。
107:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/03 23:07:12.52 b6eDEeUx0.net
>>104
それを言うな、長州から日本の近代化に貢献した(と、思い込んでいる)事実を取ったら、何も残らないだろwww。
108:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/04 21:29:43.96 Ay6cvIbd0.net
山口は大内文化遺産をはじめとして歴史的価値のあるものが多すぎるくらいだよ。
歴史空白地域の嫉妬に狂った方々には想像できないかな?
109:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/04 23:49:18.19 4+I8bfGb0.net
>>106
でも、奈良や京都には遙かに及ばないでしょwwwwww。
110:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/05 21:09:59.05 fRuN7pLY0.net
煽りが低能すぎて
111:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/05 21:58:28.85 8iIEo1Xm0.net
県民だが山口市は今や田舎ってレベルじゃないぞ
というか完全に街づくりに失敗してるからね・・・
山口線、県庁、大学、役所、その昔、その土地の名士みたいな人が
バラバラに反対や誘致をして、その結果もはや手の入れようがない・・・
112:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/05 22:38:25.43 PFqrI6Ib0.net
>>106
山口の大内氏の遺産が素晴らしいモノだとは思うけど、話の趣旨から外れているがな。
問題は松下村塾みたいなボロ小屋から、日本の近代化に繋がる画期的な発明や開発事業が生まれたのか?という事。
四境戦争が近代化に繋がるなんて、こじつけにも似た屁理屈論なんかじゃ無くてさ。
113:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/06 16:39:34.56 /Yj+u2gn0.net
>>106
だね。松下村塾のようなボロ小屋より、大内氏関係の遺産の方が、遥かに価値があるのに、
大内氏遺産に関係する人たちは文句を言わないの?
114:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/09 20:34:35.96 pX/1L7YU0.net
国宝ですらない建物が世界遺産、は違和感あるなあ
金閣寺のときから、そう思ってる
115:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/10 19:14:48.01 OyYs6i8B0.net
>>112
金閣の場合、世界遺産に指定されたのは建物ではなく、池を含めた庭全体のみ・・、という話を聞いたことがある。
116:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/10 23:29:50.13 262hsm4V0.net
>>103
英雄たちの選択なんて信用するもんじゃないけど、
まず薩長同盟というのは軍事同盟ではないし、薩摩側の西郷たちには同盟を結んだという認識はないからね
極論すれば木戸孝允あたりによって後世捏造された出来事だと言ってもいいくらい
薩長盟約の第3条に「万一負色にこれ有り候とも一年や半年に決て壊滅致し候と申事はこれ無き事に付」
というノンキな前提に立った一文があるが、なぜこんなノンキな条項があるかと言えば、西郷吉之助の認識をそのまま反映しているから
薩長盟約と言われてるものは6か条のうち5か条までが薩摩側の認識を一方的に示されただけに過ぎない
また四境戦争とか山口県民がうるさいけれども薩摩は大久保一蔵らの朝廷工作が失敗すると、
小松帯刀があっさり対幕宥和路線に舵を切って在京坂の薩摩兵の引き揚げまでやってるので、
山口県民が脳内で妄想してるほど政局への影響は大きくない
117:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/10 23:36:41.95 262hsm4V0.net
幕長戦争に関して言えば幕閣は開戦に消極的で前年も永井尚志が長州側の言い分に何も反論せず持ち帰ってるくらいだし、
薩長盟約に「是なりにて幕兵東帰せしときは」とあるように、薩摩側は戦争が実行されない可能性が高まってるとすら認識していた
開戦を嫌がった幕閣もこの時期、薩摩に接近する動きを見せている
実際、開戦からわずか10日くらいで本荘宗秀が勝手に和睦工作を始め、
徳川茂承が総督を辞任すると言い出して1か月くらい空転してるから、その意味でも攻めるほうがあまり本気だった戦争ではない
118:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/11 12:50:35.82 4eWtndZB0.net
スレタイ読めるようになるといいね
119:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/12 09:04:45.86 iyST4px70.net
スレタイ:松下村塾や萩の城下町が世界遺産?
↓
四境戦争を評価しろという定例の馬鹿が出る
↓
四境戦争は討幕に直結してねえよというごく当然の指摘が出る ← 今ここ
120:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/12 14:05:19.53 bktbZWZc0.net
幕府の大軍を長州一国で退けた事実が倒幕に導いたのは単に史実だけどな
121:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/12 16:14:51.79 xtHsktgr0.net
>>118
四境戦争が(薩摩や某外資系の武器商人のバックアップのお陰で)長州の勝利に終わったのは確かに史実だが
それが即日本の近代化に繋がった訳では決して無い
122:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/12 20:46:07.28 y6sGczYP0.net
長州オタはのたわごとは、いつも無理がある
123:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/12 20:49:06.29 bktbZWZc0.net
>>119
何がなんでも山口を認めたくないんだね。
日本史の幕末史の大半が長州関連だし、その共通認識からの世界遺産認定だよ。
薩摩からの異論も無いしね。
124:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/12 21:57:12.41 xtHsktgr0.net
>>121
山口そのものを否定しているわけではない、大内氏の関連遺産は素晴らしいと思う
それに日本の幕末史は長州だけで成り立っているわけではない、水戸・薩摩・会津・土佐、それに幕府
うぬぼれるのもいい加減にしろ
125:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/12 22:33:52.22 xtHsktgr0.net
それに、長州だけで倒幕出来るのなら、なんで薩摩と同盟なんか結ぶんだろうね?どう見ても倒幕の手柄は薩摩にも有るのにさ。
明治の国家形成も薩摩の大久保や肥前の江藤と大隈、旧幕臣の渋沢などもかなり貢献しているのに
なんで、あんたは長州(それも松下村塾系の)だけの手柄にしたがるのか?。
確かに、長州の木戸や伊藤、それに井上などの働きも否定はしないけどね・・。
126:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/13 19:48:40.64 4HkB+/0I0.net
別に手柄だとは思ってないがいろんな人がいて
偏った人は無視してりゃいいんじゃね
それに反論すると荒れるだけ
何が言いたいかっていうと、それが目的だったりする
127:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/13 20:06:10.11 QDnDyUaA0.net
>>118
×幕府の大軍を長州一国で退けた事実
○一橋慶喜らが強行しようとした戦争が諸藩や輿論、さらに幕閣内部の反対で挫折した事実
当時の政治状況をきちんと教えない四境戦争史観は百害あって一利もない
128:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/13 20:08:45.36 QDnDyUaA0.net
>>121
>日本史の幕末史の大半が長州関連だし、その共通認識からの世界遺産認定だよ。
お前「何が何でも山口以外を認めたくない」病にかかってるのを自覚してるか?
幕末史の大半が長州とか、どこを見たらそんな錯覚が出てくるんだ。
129:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/13 20:22:31.11 QDnDyUaA0.net
>>123
武力討幕局面ではもちろん薩摩藩の強硬派が大きな存在感を発揮したけど、
彼らが目指してたのは武力発動を契機とした将軍職の廃絶だからね。
徳川家との全面戦争ではない。
ぎりぎり引っ張っても、徳川慶喜が上洛を黙許した時にはじめて
「薩摩藩」と「徳川家」の戦争になったのだし。
四境戦争史観は主体を長州藩に、視点を軍事的側面だけに絞るという意味できわめてバランスを欠いた、
いわば郷土自慢の延長みたいなもんで相手にする価値もない。
130:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/13 22:00:39.05 fI/y/GFZ0.net
いつの時代でも時の権力に挑戦するというのは最高難易度なんだよ。
基本的に権力側は圧倒的に有利だし、時代の変わり目は終わってみないと分からない。
長州が先立って幕府権力に挑戦したという事実こそが最大価値のある史実。
長州が無ければ今我々が知る形での明治維新は無かった。
それは別の形での開国だけど、歴史は結果だから議論しても仕方の無い事だね。
枝葉の議論ばかり持ち出してきても意味無いよ。
131:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/14 20:23:54.20 cQXslso20.net
>>128
長州は元治元年の内戦直後にも「天朝に忠節、幕府に信義」の藩是変えてないし、
幕府が不法な攻撃をしてきたから抗戦つかまつったというだけで、
幕長戦争の停戦にも合意してるわけだから、体制の外側に出たとは全く評価できないわけなんだが。
ちょうどイラクがアメリカに不法な攻撃されて反撃したからって国連を脱退したわけじゃないのと一緒。
だいたい、時の権力に挑戦したことと産業革命遺産と何が結びつくの?
長州は即今攘夷を掲げて暴走して幕府や諸藩と衝突したわけだし、
多数の攘夷原理主義者を抱えて幕長戦争やったわけだから産業革命と真逆のことやってんだけど。
132:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/14 20:26:29.03 cQXslso20.net
もし「時の権力に抵抗したこと」が産業革命遺産の基準になるのなら、
水戸の天狗党なんて真っ先に産業革命遺産になってないとおかしいわな。
あいつらが蜂起したのは長州藩兵の上洛よりずっと前で、
長州藩兵の上洛の引き金になってるわけだからな。ぶっちゃけ松陰の思想なんてほとんど水戸の直輸入だし。
133:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/14 20:31:25.36 VjyxBCfm0.net
反射炉に失敗した毛利家中
先んじて成功した鍋島家中
134:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/14 20:32:41.47 cQXslso20.net
幕長戦争は一貫して「一橋慶喜の戦争」であって、
一橋慶喜が政治姿勢を転換すると同時に薩摩藩ら雄藩との対立も解消した
主導権はつねに朝廷を掌握し続けた慶喜が握ってた戦争。
長州の姿勢は早期赦免と不当な軍事行動の排除に向けられていたがそれ以上でもそれ以下でもない
だから四候会議の時は長州藩幹部はみな赦免に期待を抱いている
とてもじゃないがこの時点で対幕軍事行動を決意していたとは言えないんだわな。
135:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/14 20:34:48.80 1eJtmqGz0.net
>>130
>>128の言う事が正論なら、萩の反射炉や松下村塾よりも水戸の弘道館や那珂湊の反射炉の方が世界遺産にふさわしいという事になるな
136:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/14 20:42:59.42 cQXslso20.net
そうそう。水戸藩だって徳川斉昭は内戦外和論だから、別に対外戦争を志向してたわけじゃない。
藩政改革なんてずっと前から始めてるわけだし、既に天保年間に洋式帆船の建造を計画してた国防先進藩。
ペリー来航の翌年には旭日丸を進水させるほどの蓄積を持ってたわけだし。
長州の萩や松下村塾が産業革命遺産に登録される理屈なら、弘道館は真っ先に登録しないとおかしい。
137:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/14 21:16:45.17 cQXslso20.net
長州藩の行動原理なんて
「文久政変以来一貫して謝罪し赦免を嘆願してきたけど、
一向に認められそうもないので薩摩藩のクーデタ計画に乗っかりました(このクーデタ計画は対徳川家全面戦争を意味しない)
クーデタに参加するために兵を送ってたら江戸で戦争が勃発したので急きょ戦いました」
というだけだよ。
「討幕」の動きが藩レベルで存在したとしたら、それは間違いなく慶応三年12月に
江戸での浪士暴発に対する藩邸焼討と、武装上洛
138:行動開始で追い込まれた薩摩藩の在京指導部。 (それですら、総帥徳川慶喜の上洛要請は以前から出てたし、幕軍内部では戦闘を禁ずる旨の布告が出されてたので、 上洛を制止するための部隊展開が「討幕」を意味したかどうかはきわめて疑問なわけだが…)
139:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/15 12:54:22.85 sjnRDnG10.net
松下村塾至上主義長州系の政治家を国のトップなんかに据えるから、この様な歪んだ史観が罷り通る
140:諸橋 嘉久
15/09/15 14:43:03.67 2LEG8qi/0.net
URLリンク(ameblo.jp)
>民主主義の基礎を、日本人は、近代化を始めてこのかた、ゲティスバーグ演説の有名な一節に求めてきたからです。
>農民大工の息子が大統領になれる―、そういう国があることは、19世紀後半の日本を、民主主義に開眼させました。
>日本にとって、アメリカとの出会いとは、すなわち民主主義との遭遇でした。出会いは150年以上前にさかのぼり、年季を経ています。
河井 継之助の生涯(新人物往来社)に赤川 洋太郎 氏所蔵の
河井 継之助の揮毫 民者国之本(民は国の本)吏者民之雇(吏は民の雇い)と
いうのがあります。 録西人之語と書き込んでいますから欧米人から聞いたものでしょう。
抗戦・恭順を巡る藩論を抑えてモンロー主義の影響を受けた獨立特行を河井 繼之助が主張した。
要するに、白痴の安倍晋三は薩長の明治政府はアメリカと河井 繼之助に薩長の明治政府は負けて居た。と
認めた事に成ります。
幕末からの薩長の明治政府は、イギリスの属国みたいなものでした。
白痴の安倍晋三はイギリスの属国みたいな明治政府を否定して、
アメリカこそが、民主主義と媚びて居るのです。
141:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/15 17:22:07.67 woNNTKFX0.net
歴史は結果だという事がどうしても理解できないようだね。
偶然でも意中外でも関係無いんだよ。
仮にイラクが国連軍を退け、米国を中心とした国際秩序の権威が失墜、
そこから短期間でなにがしかの新しい世界秩序が構築された場合、
未来の歴史家はあれが変革の潮目だったと評価するだろうね。
それを、たまたま米国が攻めてきたから戦っただけだと矮小化するのに意味がある?
公の権威が失墜するというのは計りしれないインパクトなんだよ。
そこから歴史が変わるのだから。
浅間山荘で連合赤軍が警察を退けたとしたらどうだろう。
佐賀の反射炉との性能差なんて持ち出してくるセンスの無さでは想像できないかな?
142:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/15 19:20:05.50 sjnRDnG10.net
>>138
このスレの主旨を理解しているのならば、結果云々言う前に何故萩城下や松下村塾が
産業革命に連動しているのか、みんなが納得できるように説明してくれ
143:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/15 19:39:07.95 sjnRDnG10.net
あと、第2次の幕長戦争が近代化の道筋を付け、その戦で松下村塾の門下生が活躍したなんで
屁理屈を言うんだったら、戦勝の功労者の一人である大村益次郎が学んだ大阪の適塾だって
産業革命遺産の資格があるんじゃないのかね?。
144:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/15 21:20:19.83 E7SR01gg0.net
尚古集成館>萩
は明白だな
145:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/15 22:38:53.56 woNNTKFX0.net
日本における産業革命は欧米とは全く意味合いが違う。
それは革命的発明や科学的発見を意味しない。
鎖国によりガチガチに硬直した封建社会の克服から効率
146:的な市民社会構築への道筋である。 今回の世界遺産登録のパッケージは、その日本独自の特性が理解しやすく優れていると言える。 アジアで唯一、速やかな社会体制の刷新と産業化を成し遂げた日本を、 萩城下と松下村塾から八幡製鉄所、軍艦島と並べる事で端的に表現出来ていると言えるだろう。
147:諸橋 嘉久
15/09/16 02:30:00.36 1yztuV0g0.net
URLリンク(blogs.yahoo.co.jp)
URLリンク(blogs.yahoo.co.jp)
URLリンク(textream.yahoo.co.jp)
>封建制における天皇家と その後の 中央集権下での天皇の意味合いが異なるということです。
中央集権を確立するために、国家としての統合の象徴として天皇が道具として利用された。
そこでは、天皇の公的性は 国家のシンボルとしてのそれなので、封建下における私的天皇「家」とは別の公的性をおびることになる。
諸大名から高い税金を毟り取り、版籍奉還させた。
其れでも堪えない諸大名が居たので、廃藩置県を断行した。
百姓から高い税金を毟り取り、土地を手放させるように仕向けた。
天皇家は日本一の大地主に成った。
天皇から明治政府は税金を徴収しなかった。
天皇家から明治政府は税金を徴収しなかった。
徳川幕府よりも酷い封建体制を明治政府は構築した。
天皇の子分に爵位を贈った。
明治天皇を担いで中央集権したのが薩長です。
封建制度と中央集権の良い所取りを薩長が明治天皇を利用して実現したのです。
封建制における天皇家と その後の 中央集権下での天皇の意味合いが全く異なりません。
爵位は公的なものです。
148:諸橋 嘉久
15/09/16 02:35:47.42 1yztuV0g0.net
>このように推測で、歴史を語るのが会津病患者です
吉田松陰はペリー来航直後、同志である宮部鼎蔵に書簡を送っている。そこには、「聞くところによれば、彼らは、来年、国書の回答を受け取りにくるということです。
その時にこそ、我が日本刀の切れ味をみせたいものであります」と記されていた(川口雅昭『吉田松陰』)。
長州人に拠る、吉田松陰アメリカ渡航プロパガンダの捏造は、バレて居るのだよ。
死者の遺体を穢多に「賊の亡骸としてなら、罪人墓地の大穴に捨てても良いよ」の趣旨で埋めさせたのが実態でしょう。
佛として弔わせて貰えなかったのですから、遺族が佛教徒なら、恨まれて当然な訳です。
>会津藩への弾圧は許せない
会津藩への弾圧では無くて、佛教徒に対する弾圧です。
佛教徒に対する弾圧を埋葬問題とやらにすり替え様としても、無駄ですよ。
>仏教弾圧などに話をすり替えようとするのも会津病患者の特徴の一つです
若松取締の 町野主水らが新政府軍務局長で岡山藩の三宮耕庵に働き掛け、
罪人塚から寺院に埋葬が変わったとはいえ、その作業は被差別部落の人々により行われ
「屍を投げ入れること岩石を扱う如し」であったという。
いたたまれぬ藩士たちは作業を丁重にしてくれるよう賎民に頼むも金を要求され、
工面できたが身分の違う賎民との接触は適わなかった。 そこで「白羽の矢」が立ったのが伴であった。
伴は鷹蕃頭として鷹の餌の鳥獣を買い入れるために例外的に賎民と接触が認められていたのである。
『君候の馬前で命を捨てるのも、彼らの中に入籍して斬られるのも精神において変わりのないはず、
殉難
149:者のお骨は伴に拾わせて頂きたい』-伴は敢て身分を落とし直接作業に当ったのである。 町野は話の通じる三宮を訪ね、事情を明かし頼み込み、その計らいで伴は「埋葬方」に任じられた。 民生局監察方兼断獄久保村文四郎の嫌がらせであった。埋葬地につけた墓標等を撤去せよとの厳命がきたのである。 埋葬問題とやらが殺害の動機ならば、久保村文四郎の上司や部下まで殺害される筈です。 >明治天皇の即位は >鳥羽伏見の前やがなWWWWWW 明治天皇は大嘗祭を行って居ない。 即ち、偽天皇 大嘗祭が行われた年 明治天皇 1871年(明治4年)悠紀 山梨県甲府市上石田(甲斐国)主基 千葉県鴨川市北小町(安房国) 即ち、『王政復古の大号令』とやらも、後の世に捏造されたもの。 偽天皇どころか偽親王が岩倉具視や三條實美ら朝廷と薩長で不当に起こした戊辰戦争 >後なら、そもそも >すり替える必要が無いという… 偽錦旗が証拠 錦旗が本物ならば、鳥羽伏見の戦い以前から最前線に掲げて居る筈だ。 桂小五郎が錦旗を急造させたと言う説 大久保一蔵が錦旗を急造させたと言う説 偽錦旗を誰が急造させたかなんてのは、 所謂『官軍』が偽錦旗を使ったと言う事実から日本人の耳目を逸らす児戯じみた陰謀 http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/modean_state/contents/enthronement-ceremony/index.html 慶応2年(1866)12月、孝明天皇が崩御され、翌年正月、睦仁親王(明治天皇)が践祚(せんそ)されました。践祚後、皇位継承を知らしめるために行われたのが即位の礼です。 また、明治4年(1871)11月には大嘗祭(だいじょうさい)が催されました。 大嘗祭とは、即位の礼の後に行われる初の新嘗祭(にいなめさい)のことで、明治天皇の時には政情の混乱から先例より遅れて挙行されました。即位の礼から大嘗祭までの一連の儀式を大礼(たいれい)といいます。 明治天皇の即位の礼は、御所(現在の京都御所)紫宸殿(ししんでん)にて慶応4年8月27日に行われました。当初は、前年11月を予定していましたが、政治・社会の動乱期であり、準備が充分でなかったことから延期されました。 この間、輔相(ほしょう)岩倉具視は、神祇官副知事亀井茲監(これみ)らに対して、古典を考証し、唐の模倣ではない庶政一新の時にふさわしい皇位継承の典儀を策定するよう命じました。 結果、調度品からは唐風のものが排除され、儀式に地球儀が用いられるなど新しい要素も加えられました。 国立公文書館ホームページより、抜粋並びに転載
150:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/16 20:24:30.26 jkoB1G320.net
>>142
日本の近代化に貢献したのは長州藩だけではない。大体、長州が居なかったら日本の近代化は無かったという歴史観自体、傲りも甚だしい
151:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/16 20:30:04.57 jkoB1G320.net
大体、鎖国を止めて開国したのは幕府だろう。それに今回の世界遺産の一員である韮山の反射炉は幕府が作ったモノでは無いのか?
それに吉田寅次郎は効率的な市民社会の構築を意図していたのか?。そんな話は聞いたことがないぞ。
152:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/17 02:01:42.74 0PdFjQJP0.net
今では近代
153:産業のルーツと言われる幕営軍需工業の史跡は当然ピックアップされるべきだったな なぜ「九州・山口と関連地域」なのかその辺も作為性を感じるが、 イコモスに直せと言われて「製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」に差し替えられたから地域名称は外れた しかし、そのことで「萩城下町・松下村塾と製鉄鉄鋼、造船、石炭がどう関連性を持つのか?」という重大な疑義が生じた 萩城下町に付いては毛利家の本拠、松下村塾は産業革命に貢献した人材の輩出という無理やりな理屈がついたが、 だったら鹿児島城下は当然指定されていないとおかしいし、人材の輩出なら政治結社だった松下村塾より、 この時期腐るほどある洋学研修の史跡のほうが適切。 横須賀造船所には幕末のドックやスチームハンマーが記念に残ってるし、 観音崎灯台は日本最古の洋式灯台で、産業革命遺産の趣旨に完全に適合する
154:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/17 02:05:33.58 0PdFjQJP0.net
萩反射炉と恵美須ヶ鼻造船所跡も登録されたが、萩反射炉は試験炉だが現存するからまあいい
造船所は丙辰丸と庚申丸(ともに帆船)を作った後は閉鎖
あと造船所は伊豆戸田村に大工を留学させて技術を持ち帰った
戸田村は大破したプチャーチンのディアナ号再建と建造技術習得のため技術者が集められてる
戸田村を登録しないのも変となり、何もかも後付け。
ちなみに、造船所で作られた船2隻の運命
丙辰丸は長州藩が文久3年6月に朝廷に工作した結果派遣された攘夷監察使により、明石・淡路から誤認砲撃を浴びて大勢の犠牲者を出し大破
庚申丸は無差別発砲に端を発するワイオミング号との攘夷戦争で撃沈される自業自得ぶり
しかも、この2隻がやられた当時は山口移転の前か直後で、萩の政事堂など政庁機能は生きてるから萩も命令者なわけだが、
どこが産業革命遺産なんでしょう、萩城下町は攘夷の愚行遺産として登録すべきだね
155:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/17 20:29:53.77 wRUfLTRc0.net
いくら>>142がこじつけ史観を振りかざしても>>147や>>148なんかに矛盾点を突かれておしまいwwwwww
今回の遺産登録など、所詮長州史観信奉者安倍に迎合した単なる政府関係者の独り善がりなモノでしかない
156:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/17 22:05:32.34 3JtXbL8g0.net
歴史とは勝者の言い分なんだよ。
wwⅡでドイツの技術力をことさら讃える愚か者と同じだね。
偶然必然に関わらず、その時代の勝者のマネージメントに学ぶ謙虚な姿勢は失ってはならない。
山川の高校日本史教科書の幕末辺りを読んでみて欲しい。
太字に長州関連がいかに多いかが発見できるだろう。
明治維新の勝者は長州を中心とする勢力で敗者が徳川。
長州が無ければ、ここまで封建勢力を排除できなかった。
中途半端に徳川が残っても、同じ様な産業革命が達成されたか?
歴史は結果だから、検討する余地も無いね。
157:諸橋 嘉久
15/09/18 01:24:04.34 YauPZymg0.net
URLリンク(ja.wikipedia.org)
一般的には1947年(昭和22年)、GHQの指揮の下、日本政府によって行われた農地の所有制度の改革を指す。農地解放ともいう。
もともと日本の官僚
158:の間には農村の疲弊を除くために地主制度を解体する案はもとよりあったが、地主層の抵抗が強く実施できなかったものをGHQの威を借りて実現したといえる(ただし帝国政府の考えた方針とGHQの改革内容には大きな違いがある)。 1945年(昭和20年)12月9日、GHQの最高司令官マッカーサーは日本政府にSCAPIN-411「農地改革に関する覚書」を送り、「数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破する」ことを指示した。 これ以前に日本政府により国会に提案されていた第一次農地改革法はこの後GHQに拒否され、日本政府はGHQの指示により、より徹底的な第二次農地改革法を作成、同法は1946年(昭和21年)10月に成立した。 この法律の下、以下の農地は政府が強制的に安値で買い上げ、実際に耕作していた小作人に売り渡された。 不在地主の小作地の全て 在村地主の小作地のうち、北海道では4町歩、都府県では1町歩を超える全小作地 所有地の合計が北海道で12町歩、都府県で3町歩を超える場合の小作地等 また、小作料の物納が禁止(金納化)され、農地の移動には農地委員会の承認が必要とされた。 農地の買収・譲渡は1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)までに行われ、最終的に193万町歩の農地が、延237万人の地主から買収され、延475万人の小作人に売り渡された。 しかも、当時の急激なインフレーションと相まって、農民(元小作人)が支払う土地代金と元地主に支払われる買上金はその価値が大幅に下落し、実質的にタダ同然で譲渡されたに等しかった。 譲渡された小作地は、1945年(昭和20年)11月現在の小作地(236万町歩)の8割に達し、農地に占める小作地の割合は、46%から10%に激減し[1]、耕地の半分以上が小作地である農家の割合も約半数から1割程度まで減少した。 この結果、戦前日本の農村を特徴づけていた地主制度は完全に崩壊し、戦後日本の農村は自作農がほとんどとなった。このため、農地改革はGHQによる戦後改革のうち最も成功した改革といわれることがある。 http://plaza.rakuten.co.jp/chusan55/diary/201103180000/ >歴史は結果だから、検討する余地も無いね。 全く其の通りだな。 長州が無能だと、GHQの最高司令官マッカーサーが証明しました。
159:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/18 08:37:18.87 Ceq2EeW70.net
昨日電車の番組で
世界遺産指定された官営八幡製鉄所とか鉱山関係の遺産が映ったけど、
松下村塾とは明らかに性格が違ってた
萩城下町は素晴らしい町並みなんだから、日本人が誇りに思っていればそれでいいんだよ
160:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/18 22:19:19.20 LBSgUCHH0.net
>>150
>>歴史とは勝者の言い分なんだよ
歴史とはあくまでも事実を追求するもの。勝者が作った話そのものが歴史になるわけではない。
>>明治維新の勝者は長州を中心とする勢力
明治維新の勝者なんて言い方はない、あくまでも薩摩と長州、それに土佐などの各雄藩が徳川幕府という政権を倒しただけ
つまり、倒幕が成功したという言い方が正しい。それに倒幕派の中心は薩摩と長州が鼎立しているのであって、長州だけが
中心ではない。寧ろ倒幕の方向を位置づけた「王政復古の大号令」というクーデターは、薩摩が主導しておこなったこと。
長州だけで、というよりも長州が主導権を握った状態で果たしてこれだけの事が出来たのか?。甚だ疑問である。
>>長州が無ければ、ここまで封建勢力を排除できたか
明治政府は「四民平等」などと謳い、あたかも自由主義を構築したというトリックに引っ掛かっている証拠。
実際は「華族制度」などという新たな階級制度を作り出したし、議会政治を取り入れたとはいえ、明治憲法の
中身は今の中国みたいに政府に逆らうような言論は一切出来ないという絶対主義的なものだった。
>>中途半端に徳川が残っても、同じ様な産業革命が達成できたか?
それは判らない。なんせ、倒幕によって政権が消滅してしまったのだから・・。でも幕府が作った韮山反射炉とか
横須賀造船所などの実物史料、それに幕府が模索していた「慶応の改革」などの文献資料などを
みると、あながち不可能だったとは言い切れなくなってしまった。特に横須賀造船所はその性質や
明治になってからの社会的貢献度をみると、寅次郎が教鞭を執っていたボロ小屋よりも客観的に視て
産業革命遺産に相応しいと思うのだが、何故、リストから漏れてしまったのだろう?。
161:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/19 11:04:20.70 sjfQEU//0.net
>>150
勝者は薩摩で、薩摩が長州を連立与党として選択したのは慶応3年11月以降なんだよなあ
(朝敵指定が解除されてないので、長州は土佐や芸州と違って薩摩に依存しきってるから)
明治5年の岩倉使節団出発後は長州は参議1人もいないばかりか
各省でも陸軍の山県有朋と大蔵の井上馨も政府を追われて全面崩壊の危機だった
山県・井上もそれぞれ西郷・大久保との関係で政治生命の危機を乗り切ったようなものだし
長州が勝者とまで言えるようになったのは明治6年政変のあとで、事後的に作られた印象
陸軍に至っては長州閥が形成されたのは日露戦争後だし
162:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/19 20:51:05.16 10ejFVEp0.net
>>154
なーんだ、薩長同盟なんて言うけど、維新時に目立ったのは薩摩じゃないか。なにが長州を中心とした倒幕勢力だよ、笑わせる。
163:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/24 22:04:51.79 NjNEAxG+0.net
「明治日本の産業遺産」を観光のため、日本に訪れた外国人がこれを見たら、果たしてどう思うだろう?
特に、長崎の軍艦島や八幡製鉄所を見学後に、あのボロ小屋を見た人は
164:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/24 22:45:22.96 jHxVmApc0.net
日本人でも同じだろ
165:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/27 09:09:24.45 +3WeIrOE0.net
>>156
前にNYから来た人と萩に行った事あるけど
城下町には感動してたよ
あの一体って電柱、電線がなくて、場所によっては舗装されてないので
ほんとセットみたいだよ
松陰ハウスはイマイチだなw
166:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/27 21:07:35.56 MYNF24Sp0.net
松下村塾は建物のショボさと歴史的業績の偉大さの落差に思いを馳せる場所だよ。
紆余曲折ありながらも長州が最終的な勝利者となる過程が、日本が封建から近代へと変革する過程と重なるんだよね。
歴史を点としてではなく、線でとらえる。
掘っ立て小屋からはじまった物語が八幡製鉄所や軍艦島へと結実していく。
それがいかにも島国日本と世界との交流の在り方を表していて面白いと思うな。
俺は外国人にはそう説明してるよ。
167:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/28 20:27:25.27 8w0pCWad0.net
>>159
完全なお前の妄想論。どう考えたって、あんなボロ小屋が八幡製鉄所や軍艦島に繋がるわけ�
168:ェない。 独り善がりな史観をひけらかして、幕末史に無知な外国人を騙すのはよせ。
169:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/28 21:07:44.82 bxXPUU/a0.net
つか、釜石や鹿児島にはつなげられないところが、
情けなさすぎ
170:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/28 21:18:18.79 QoOUZ8Eg0.net
俺は今住んでるけど
山口って、ほんと、何もないよw
萩って、家康、よくもまあ見つけたなってぐらい
山の向こうの奥地の奥地で
しかもその先の海岸沿いの孤立した三角州
ある意味、隔離されたような場所だよ
曲がりくねった道を延々と
行くのがこんなに大変な場所はない
171:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/28 22:15:25.10 h3inokWR0.net
>>159
松下村塾の出身者と軍艦島って、関係のある人いたっけ?
172:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/29 09:05:48.96 M6Urw4QZ0.net
三井三池炭鉱も松下村塾の出身者の功績にされそう
173:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/29 17:28:07.21 /sWSi4JG0.net
韓国も途中で反論に入れてきてたな。松下村塾と産業革命関係ないだろって。
日本人でもおかしいと気づくものを、大量に近代史研究者を入れてる韓国の当局者が気づかないわけがない
まさに日本の恥さらし
174:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/29 19:41:16.25 lCD/ph7C0.net
じゃあ、デモでもやったらいいんじゃね
声をあげろよ
175:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/29 19:48:56.70 mvU4QKLX0.net
>>163
ないない、全く関係ない。
176:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/29 20:42:12.85 U/9XFqF30.net
そんなに直接関係が重要なら、大工とか石工を産業革命の主体にしなよ。
留さんとかでいいかもね。
177:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/29 21:15:00.66 5TaieWPJ0.net
どうしてこんなに頭が悪いのか?
178:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/29 22:21:20.20 AKWjUpvk0.net
>>168
そういった、市井の人々の能力があってこその産業革命なんだけどね。
基礎技術のある職人さんが大勢いたからこそ、日本は短期間で西洋諸国と肩を並べることが
できるようになった。産業革命の主体と言っても良い全く差し支えない。
そのことを理解できないのは、自分にとって都合の良い歴史しか学んでいないということだよ。
某国の自称総理大臣が典型例だけどね。
179:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/30 08:19:03.78 jyUT0GZo0.net
市井の人々と松下村塾の関係をまったく説明できてないよ
桂や伊藤は市井の人々か?
180:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/30 11:25:51.79 IJcs94VL0.net
韓国人は百済の聖明王の末裔が松下村塾を作った事を知っているのだろうか?
181:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/30 22:09:10.68 xGECKh6u0.net
>>171
>まったく説明できてないよ
なんで説明する必要が???
182:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/30 22:35:01.43 9iebPTTL0.net
>>168
だから長州が船大工を留学させた伊豆の戸田村こそ造船業の産業革命遺産にふさわしいだろ
何で史跡を「山口九州」に限ってんだよ。イコモスが却下したけどね
韮山反射炉は入ってるから誰が設立したかという経緯や政治的性格は関係ないわけだし
183:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/30 22:38:33.03 9iebPTTL0.net
>>166
>日本人でもおかしいと気づくものを
>まさに日本の恥さらし
↓
>じゃあ、デモでもやったらいいんじゃね
なぜ村塾推しは脊髄反射なのか
184:名無しさん@お腹いっぱい。
15/09/30 23:38:14.01 stvXI25kO.net
>>171
市井の人の中から才能ある者が出てきて指導者になっていった
ということですな
185:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/01 05:35:16.48 TzdNtymW0.net
反長州は論理も何もないね。
挙げ句の果てにオラが町の史跡を入れてくれとか。
186:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/01 07:16:42.15 Uwixz94j0.net
>>175
というか、ネチネチ2ちゃんで書くよりも
行動した方がよくね?って意味
デモするか
�
187:氓フ選挙で安倍を落とすように動くか どっちかでしょ ネチネチと内向的に文句ばっか言ってる奴らは 実際に行動する人にいつだって支配され、負け続ける
188:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/01 08:11:38.49 iVwEg+PR0.net
>>176
市井の人の例として、大工とか石工と書いてあるんだがな>>168
189:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/01 19:14:42.91 EJp0F5AW0.net
>>178
実際に行動と言ったって、安倍はじぶんの地位を悪用しただけに過ぎない様に見えるがな。
190:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/01 19:41:16.02 EJp0F5AW0.net
>>177
吉田寅次郎が教鞭を執ったボロ小屋が何故、産業革命と連動するのか?という素朴な疑問を持つ事が論理がないと言うのか?。
191:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/01 20:40:44.30 Uwixz94j0.net
>>180
その地位の根幹は議員というポジションでしょ
シールズ?あいつらと自分はイデオロギーは全く違うが
安倍を選挙で落とすために、大量に下関に移住しよう!ってアホな事言ってて
そこまでやるのなら、ある意味、凄い行動力だなって
若いバカな連中だが
ネットでねちねち言ってるよりも
そういうアホな若さってのが、ある意味怖くなったりするもんだよ
行動する連中は、例え失敗しても、そこから得るものは大きいよ
192:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/01 20:58:51.84 BV0agDylO.net
某国の自称総理大臣が誰か分からない。だれ?
193:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/01 22:12:36.11 MJGEkrdh0.net
そりゃもちろん
ご想像にお任せします
194:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/03 21:19:17.34 v7MKrEZg0.net
江戸幕府に欠けていたものは理系人材の育成
失業士族は文系学校ばかり要望したというが
田舎の長州人は政権を握ってすぐに理系の学校を優先整備した
江戸幕府が続いていたら理系重視の舵取りはできなかったろうな
195:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/03 21:30:06.00 EEiPCReF0.net
世界文化遺産
ギザの三大ミラミッド
マチュピチュ遺跡
松下村下塾
196:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/03 22:25:09.98 Q+GlAAgP0.net
今回の世界遺産登録が妥当だと考える日本人が大半だからね。
戦国から江戸への変革だって、日本中に色々な足跡が残っているのは当たり前の話。
コアストーリーが織田→豊臣→徳川だねって話をしてるのに、枝葉の話に矮小化したがるのがここのアンチ長州。
197:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/03 23:10:53.30 rke2vNaZ0.net
杉氏は大内氏の庶流
つまり聖明王の末裔
松下村塾も明治維新も朝鮮が起源
198:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/04 07:00:48.84 px/+VrIt0.net
>>175
行動しろと言われたから、とりあえず文科に今回の遺産指定には登録の趣旨と関連しない者が含まれると思料される、
具体的な対処を求めるのが相当であると言う意見があったため一応指摘すると言って送っておいたよ。お前の所に問い合わせが来たらよろしくなw
>>177
反長州ではなく、今回入った山口県の城下町、村塾はもちろん造船所などもルーツは幕営産業への留学にあるので、
山口というエリアで特定するのは登録の趣旨と矛盾すると指摘されてるわけなんだが。
どこで産業革命のルーツを切るかと言う所で、集成館はともかく長州の史跡は戸田などに留学させて得た史跡だろ?
城下町や村塾なんて産業革命とも全く関係ないし。
>>185
ネタで書いてると思うが
天文方(寺社奉行支配、17世紀)→蛮書和解御用掛(文化年間)→洋学所→蕃書調所→開成所→開成学校(明治元年)
幕府の理系重視は筋金入りだからね。技術面についても水戸などのほうがはるかに先行してたし。
199:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/04 07:05:06.47 px/+VrIt0.net
>>187
>コアストーリーが織田→豊臣→徳川だねって話をしてるのに
そのコアストーリーは政治史だけど産業革命の歴史と何か関係あるのか?
てかそのコアストーリーにだって幕府つまり幕末軍需工業は必ず入るだろ。
信長だって戦国後期に分類されるんだから。
200:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/04 07:15:37.86 px/+VrIt0.net
>>176
>市井の人の中から才能ある者が出てきて指導者になっていった
言わずものことだが伊藤博文は養家が足軽、山県有朋は中間で、
長州藩人口から見たら足軽中間は上位2%~5%の層に相当するからな。まったく市井の人ではない
松下村塾じたい身分が判明した者の大半が諸士、足軽・中間や陪臣層で、
家中に属する者が通うとこ。ちなみに陪臣以下は明治2年に士籍を許されず脱隊騒動の中心になったのは言うまでもない
その脱隊騒動参加者に占める陪臣出身者ですら1割程度。どこが市井の人…
201:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/04 10:18:42.00 1dmI9QrT0.net
長州オタは少ない知識と都合のいい捏造話で
なんでも正当化するようですね
202:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/04 11:59:27.67 MMPN1Ve+0.net
相変わらず理解力が低いね。
日本に於ける産業革命とは自然科学史では無いのだよ。
日本人は万有引力も発見していないし、蒸気機関も発明していない。
それと、今回は世界遺産登録という話だよね。
色々と挙げてくれて申し訳ないけど、国内的には価値があっても国際的には無価値なものばかりだよ。
アジア諸国が次々と植民地化される中、なぜ日本のみが違ったのかと言う所が眼目。
そこを国際的にアピールして、観光に役立てようという目論見だよ。
敢えて言えば、日本の産業革命とは幕末から明治への政治史がコアストーリー。
203:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/04 12:29:25.80 7KLDRu4e0.net
だめだこりゃ
204:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/04 21:19:01.06 v0wq/ocz0.net
>>185
薩長政権が育成した人材=暗記重視の応用力ゼロで、実社会に於いては何の役にも立たない能書きを詰め込み
そのくせ特権意識だけは旺盛で、仕事に対する責任感が全くない受験秀才の役人連中
>>193
お前のような長州至上主義者の自慰史観など理解不能な屁理屈論だ
205:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/04 21:29:21.46 v0wq/ocz0.net
>>193
それに江戸時代の大阪商人は先物取引という商取引法を、同じく江戸時代の医者である華岡青洲は麻酔薬を
伊能忠敬は精巧な日本地図を作り出したが、吉田寅次郎はそれに匹敵する大発明をしたのか?説明してみろ
206:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/04 21:41:30.96 tM5UD7o60.net
種痘もいたよな
和算も当時では正解レベルだったとか
207:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/04 21:41:51.56 tM5UD7o60.net
世界レベル ね
208:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/05 20:35:47.05 nuebstrL0.net
>>193
松下村塾なんぞ、国際的な評価はおろか日本の中での人気も低い
今回の遺産登録でも世間の注目度が高かったのは幕府が作った韮山反射炉と長崎の軍艦島で
萩城下と松下村塾を大々的に取り扱うマスコミなど皆無に等しかった。熱心だったのは政府筋だけで
209:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/05 22:12:31.86 a2t2x3R+0.net
>>199
いやいや、松下村塾だって、注目は高かったよ。
だって、こんなスレが立つんだもん
210:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/05 22:15:27.77 kfegOx+v0.net
異議があるからスレが立ったし
的を射たレスが多い
211:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/05 23:27:48.68 fJA8CfE20.net
>>193
>アジア諸国が次々と植民地化される中、なぜ日本のみが違ったのかと言う所が眼目。
日本史板でもスレがあったけど、清朝鮮に関しては日本がチートすぎたから煽りを食った気の毒な国
タイ程度でも緩衝地帯外交に成功すれば独立は維持できる(日本もポサドニック号事件の時これで退去させてる)
日本の独立維持なんて当然すぎて、あとはどこまで伸びるかという問題だけ。
江戸幕府ジャパンでも植民地化なんてされる未来なんてまったく見えない。
212:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/05 23:32:40.10 fJA8CfE20.net
コアストーリーくんって精神における革命なくして科学技術の発展なしとか怒号してた、
どっかの某隣国の変な指導者みたいなこと言ってんなw
白ネコ黒ネコ論で普通に技術修得すりゃ良かったわけだが
213:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/06 07:58:08.92 9VPy13Mt0.net
要するに東洋の神秘です
214:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/06 08:49:30.84 R1yUfNGx0.net
占領されなくても、黒船がいっぱい来航して砲撃されるだけで大損害を被る
社会不安が爆発する
現体制崩壊する
でも松下村塾は過大評価
215:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/06 11:34:07.35 wdINa1K1O.net
松下村塾は松陰の財産の一つという感じで
大事なのはその周りに人材が集まったことだろうからねえ
うまく表現するのが難しかったんだろう
216:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/06 12:58:21.57 61d+sHSb0.net
そうなんだよね。
あの当時、アジアの中で日本だけが速やかに封建を脱して近代化できた事が世界的価値がある事実なんだよ。
当然それはイギリスの産業革命とは意味が異なる。
また日本の近代化とは世界の自然科学史に寄与するもので無い事も明らかな事実なんだよ。
世界遺産なのにそこを無視して、幕府や佐賀の方が進んでたなんて枝葉末節本末転倒の議論をしても意味が無い。
国宝や重文指定とはロジックが異なるんだよ。
217:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/06 19:30:07.46 EM+hiNUf0.net
>>207
産業革命はあくまでも産業形態を抜本的に変えること、国が変われば内容が変わるモノでは無い
脱封建=産業革命なんて理屈は何処にも通用しない。枝葉末節本末転倒の主張をしているのはお前の方だ
218:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/06 19:35:08.07 a+ndHbRS0.net
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
219:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/06 20:44:19.41 eB7A6FQU0.net
>幕府や佐賀の方が進んでたなんて枝葉末節本末転倒の議論
長州ありきの幼稚な発想だな
炭鉱や製鐵所とは明らかに性格が違う
富岡みたいに、まったくの別件で世界遺産申請すればよかったろ
余裕で落ちたろう
220:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/07 01:37:55.47 37/3Rr790.net
>>189
そんな幼稚な教育機関を誇ってどうする?
工部寮が設置されるまでまともな技術者育成できていないじゃないかw
221:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/07 01:55:31.95 37/3Rr790.net
>>195
それって幕府にブーメランなんだけどw
長州出身者こそ実践派だろ
青木周弼 青木研蔵 中嶋治平
山尾庸三 飯田俊徳 井上勝 遠藤謹助 山縣修 渡辺蒿蔵 賀田金三郎 中村正路
笠井順八 時重初熊 中村精男 正木退蔵 山根正次 渡辺祐策
藤岡市助 藤田伝三郎 鮎川義介 久原房之助 岡十郎 田村市郎 藤永元作
222:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/07 20:50:38.65 dKRF1Oi30.net
>>212
藤田と久原、それに鮎川は財界人であって、役人ではない
223:名無しさん@お腹いっぱい。
2015/10/08
224:(木) 03:30:28.16 ID:Kpnj1Jnv0.net
225:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/13 03:02:09.48 ow7IZ+920.net
>>212
明治初年は家職ではなく藩閥で優秀な人材を登用してたから長州藩士が上の高官とのつながりで登用されても何の不思議もない
むしろ朝敵だった静岡藩士や旧幕臣は新政府出仕を嫌がる傾向があったにも関わらず多数採用されてるんだが
長州のめぼしい実務者はたったそれだけか。その程度なら征韓論で下野した分合わせても明らかに薩摩のほうが多い。
てか函館の幹部の生き残りなんて出獄とほぼ同時に全員採用だが。
>>214
うーーーん???www「まともな藩士」の定義は?
元禄から明治2年までどんな調査によっても足軽中間が上位5%に入ってたのは間違いないぞ
お前の言ってる「まともな藩士」は陪臣含めての定義だろ?松陰が陪臣層を草莽と考えてるようにまともな藩士の訳ないじゃん。
陪臣まで含めたら確かに10%になる。ただし伊藤にせよ山県にせよ陪臣層ではないし、陪臣は明治2年段階では卒族からも外れてるからな
だから陪臣は諸隊騒動では参加者の1割を占めるに至ってる。
上位5%だろうが10%だろうが「庶民」でないのは明らかだがな。
226:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/13 03:09:31.89 ow7IZ+920.net
>>211
>そんな幼稚な教育機関を誇ってどうする?
あのう…戸田村はディアナ号を修繕するために集められたわけで、
その「幼稚な教育機関」に長州は船大工を留学させて技術を習得させ、
帰国した者を使って恵美須ヶ鼻造船所を開設した。その際に戸田から高崎伝蔵がわざわざ赴いてる。
作ったのが確かなのはたった2隻(帆船)で、その後は音沙汰なし。萩反射炉に至っては試験炉。
ディアナ号を修繕して帰した戸田村が幼稚な教育機関なら、
そこに学んだり、実績もない長州の2史跡は当然、産業革命遺産から外れてないとおかしいね。
そう主張したいわけなのかな???
227:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/13 03:12:15.02 ow7IZ+920.net
>>207
>世界遺産なのにそこを無視して、幕府や佐賀の方が進んでたなんて枝葉末節本末転倒の議論をしても意味が無い。
だから韮山反射炉は旧幕の遺跡なのに登録されてるっつの。いろいろ苦しいぞ長州ヲタ
228:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/13 03:18:55.34 ow7IZ+920.net
こうして見ると薩摩と佐賀と幕営軍需工業は大したものだな。長州はパクリチョンコだけど。
229:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/13 08:54:58.75 7m056nAN0.net
パクリなのに失敗した反射炉まで世界遺産に認定
ユネスコ、だめだね
230:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/13 20:04:36.98 Lxmtq3xO0.net
>>219
南京の件を記憶遺産にするくらいだものwww
231:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/13 22:06:41.46 +Fn1x2bP0.net
>>219
長州関係を世界遺産にしなかったら、日本はユネスコに金払わないぞ!
とでも言ったのかな?
232:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/13 22:12:50.59 BT3+VFod0.net
長州オタがうっかり黙ったな
233:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/13 22:35:05.24 VWCyFIf+0.net
九州山口なのに福岡や佐賀は入ってないのね。
秋月藩の人痘種痘、日本初の製鉄所、築地反射炉、三重津海軍所、凌風丸…
いくつ史跡が残ってるか知らないけど相当面白いものが出てきそうだが
234:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/14 08:32:23.47 g2l15ifb0.net
官営八幡製鐵所旧本館とか、大牟田の炭鉱が入ってるだろ
235:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/14 19:38:32.91 Im3Jn1qA0.net
>>221
今の政府は何故、そこまでして長州を持ち上げようとするのか?
236:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/14 22:30:52.94 ufOx5QdH0.net
負け犬の僻み根性は虚しいね。
時局を読めずに敗れ去る者。
そんなに世界遺産に権威を感じるなら登録前にオラが町の遺跡も運動したら良かったね。
敗者はいつでも遅いんだよな。
237:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/14 22:50:39.55 ufOx5QdH0.net
ちなみに山口では今回の世界遺産登録は至極当然な受け止め方だね。
大喜びする事も無く、観光資産として活かせれば良い位の感じ。
過大評価も無い。
ここのアンチはユネスコに抗議したらどうだい?
彼らに日本史に対する本質的見解なる思想があるか聞いてみなよ。
238:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/15 08:25:11.24 TxCIvoi+0.net
だれが「負け犬」設定なんだろ?
勝ち負けの問題にすり替えちゃうってすごすぎ
山口県には、あたまがおかしいやつしかいないのか
239:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/15 09:34:49.82 sEN9kfCH0.net
山口以外は「産業革命遺産」など何の関心もないがな。
韮山反射炉や集成館、軍艦島なら有名だし観光地にも近くて多少は思い出すが
と言うか山口でも萩あたりはともかく、山口や下関は知らないだろ、今回の史跡。
何しろ余所者が入ってくるまで東行庵の史料めちゃくちゃな保存状態だったようだしな
240:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/15 09:38:04.25 sEN9kfCH0.net
>>226
>負け犬の僻み根性は虚しいね。時局を読めずに敗れ去る者。
長州のこと?確かにこの30年くらいでウェイトが信じられないほど落ちたね
水戸や、国事に周旋してた諸藩の研究は進んだけど長州はまったく進んでない
今年の大河はあの通りだし研究動向の採用も極めて低調、
せっかく散逸した史料の蒐集をやってる人間には喧嘩を売るありさま
241:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/16 21:21:20.52 E0Qblfrj0.net
>>226
で、松下村塾と産業革命はどう関係有るのですか?
村塾を大阪の適塾や水戸の弘道館との連携で「幕末の人材育成の場」としての登録なら納得できるのですが
242:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/16 21:26:00.63 /B7krRQJ0.net
山口出身者だけど、他の登録遺産候補だったところもそうだけど
全然知らない間にエントリーに決まってた感じで
県民にとっても、そんなに興味なかった
まあ、安倍が捻じ込んだのかなぁ、或いは、周りのものが気を使って押し込んだのかな
って感じで
反対するのなら、反対してもいいと思うよ
んで、いつも思うのは高杉の言葉
「結局、長州を討てる者は長州しかいない」
この言葉に尽きるよ、今の世でも
243:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/17 14:45:25.36 ZJsvYi7D0.net
まあ田中大平も菅直人も広く言えば長州閥に入るのかも知れないじねw
それで県民の自尊心が満足するならそれでいいんじゃね
菅直人の時の奇兵隊内閣とかの時の反応もそうだけど、たぶん、
21世紀にもなって大昔のこと言ってる変な県くらいにしか思われてないだろうけど
244:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/17 14:47:36.02 ZJsvYi7D0.net
お隣がああいう国だから歴史を騙る肥大した自尊心の影響を受けやすいのかもな
全てにおいて起源を主張したりとかウリを倒せるものはウリだけと言ってみたり、
歴史スレに乱入してウリナラミンジョクの優越性を力説したり
245:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/17 22:09:19.85 hglMPXkE0.net
>>226
こっちは只の古い城下町である萩城下や政治的な思想を受講する場所に過ぎなかった松下村塾が
何故、産業革命に関係するのかという素朴な疑問を抱いているだけなのに、何故その様な返答しか
出来ないのか?。ただ単に的確な答えを出せないので、逆ギレしているのか?。
246:諸橋 嘉久
15/10/18 05:45:53.88 aPHh7A9J0.net
>んで、いつも思うのは高杉の言葉
>「結局、長州を討てる者は長州しかいない」
>この言葉に尽きるよ、今の世でも
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
背の低い朝鮮人にしか見えない。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
247:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/18 09:17:38.74 c8bIUDhG0.net
山口県が今栄えてれば聞く耳持たずも説得力があったけど、
製造業が打撃受けたら一気に島根レベルまで後退しそうな中核都市のない衰退県だからなw
248:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/18 15:00:47.34 d/vGYFM90.net
萩の城下町はおそらく日本一素晴らしい古い町並みであろう
しかし、産業遺産と言われると違和感がありすぎる
重要伝統的建造物保存地区になってるから、それでいい
249:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/18 15:35:42.55 vtBdQgN60.net
萩の城下町にこないだ行ったけど
あの地域に普通に住んでる人もいるんだな
何か飲み物を買おうと探したが
コンビニとか商店とか全くないよね
そういう意味ではあの地区に住む人は
凄い不便そうだと思ってしまった
250:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/18 16:31:34.82 chKWPMyr0.net
>>239
でも、そういう一見辺鄙に見える片田舎が日本の産業界の発展に多大な貢献をしているんでしょ(笑)
251:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/18 19:19:49.69 MPwpVXu90.net
山口県でも萩市だけは辺鄙を売りにして逆に生き残るかも知れないが、
下関なんて部落やキチガイの巣窟があるからイメージ悪いままだろうな
ただ東北中部北海道北陸の交通の便が格段に良くなったし、
まあ観光に行くにしてもあんな寂れた所は敬遠だろうな
252:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/19 08:17:27.92 GSjjF/o90.net
>>241
下関のイメージより、お前の頭のほうがはるかに悪いから
自分の心配しとけ
253:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/20 01:59:35.31 7IlDegeC0.net
言い負かされて発狂する山口県民ワロタ
254:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/20 12:36:53.04 kSVN9JQ20.net
>部落やキチガイの巣窟
こういう言葉を使って言い負かした気になってる低俗下賤な者もいるんだな
255:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/20 17:33:56.64 YbKgTW/p0.net
松下村塾や萩城下が不適ならグラバー邸も同じじゃね?
ただの豪邸だよ。
長州アンチは少しは冷静になれよ。
256:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/20 19:14:46.14 3ISWfeXm0.net
>>245
倒幕が日本の近代化を推進したという王政復古史観の側面で視ると、薩長軍の後ろ盾になったグラバーは
寅次郎を始めとする長州の連中と同様、産業革命の功労者という事にしておきたいのだろう。
257:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/20 21:06:57.54 ItFkuuKn0.net
>>245
同じだよ
今回の世界遺産認定はおかしなものばかり
富岡製糸工場も一緒に認定されればいいのに、なぜか単独
おれ、>>238ね
258:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/20 21:22:20.57 jUMORsHZ0.net
>>244
でも実際反論できなくて黙っちゃったよね
259:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/20 22:05:08.17 D8EFgISI0.net
>>247
富岡製糸場があったことを考えれば、八幡製鉄所/軍艦島/韮山の反射炉
この辺は文句なし。
萩の城下町そのものは、歴史観光地としてよい場所だとは思うけど、鎌倉を超
260:えるとは思わない。 そして鎌倉は・・・ てゆーか、観光に来た外国人の方々が、松下村塾を見た時「このボロ小屋が世界遺産??? 何で???」 となった時。どうすんだろ?
261:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/21 02:57:20.18 18vdnzLF0.net
ボロ小屋でも産業革命に関連する遺産ならいいんだけど、その真逆だからな。
松下村塾はどこをどう見ても産業革命との関連性などない。だから外国人に納得のいく説明はできない
262:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/21 03:52:51.37 18vdnzLF0.net
この登録申請、途中で前田砲台が入ってた時期があったり、
かなり方向性デタラメだったんだな。。。某首相の第2期あたりに動きが激しくなったけど
263:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/21 18:55:01.11 ywSoOAGU0.net
>>249
萩はあのセットみたいな城下町に連れていったら
だいたい喜ぶよ
自分が面白かったのは城下町もだが
昭和の取り残されたようなボロボロのバス停の通りとか
トタンのきったない昭和の街並みを熱心に写真に撮ってた事
何がいいんだか・・・
264:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/21 22:16:06.05 O6u/RigH0.net
萩焼の窯元とか登窯とかが、城下町の町並みと調和してるのが、いい町なんだけどね。
そういえば、大河では、萩焼のことなんか、全然出てこないなあ
265:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/22 00:18:40.92 DY7XoIrN0.net
萩は城下町としての美観は良い町だが、城下町なら日本中あるしね
歴史に関心なきゃ没落した士族の町で寂しくて嫌だという人も多いだろうな
266:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/22 00:20:20.30 DY7XoIrN0.net
ま、いずれにしても萩と産業革命遺産とは何の関係もないからどうでもいい
萩を登録したかったら「日本の城下町」あたりで出直すこった
267:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/22 00:54:40.93 dTMdFIk90.net
>大河では、萩焼のことなんか、全然出てこない
茶陶の萩焼は幕末は割と下火の時期だったからね。
茶道よりは煎茶道のほうが盛んな風潮だったし、
藩としては磁器窯の小畑焼の方に力を注いでた時期でもあるし。
268:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/22 08:17:35.56 eYz2kYn50.net
>>254
萩以上の景観を保つ城下町は無いよ
もともと36万石の大大名の城下町でありながら、日本海側のためか見事に取り残された
しかし、日本の産業革命とはまったく関係無い
269:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/22 22:32:22.64 1tZeWAjq0.net
>>257
>萩以上の景観を保つ城下町は無いよ
とはいえ、「歴史観光地」というくくりで見た場合、鎌倉を上回る魅力があるわけでもない。
そして鎌倉は落選。(政治力やアピール方法に問題があっただろうけど)
意味不明ですな
270:諸橋 嘉久
15/10/23 05:04:13.07 z/KrlTUu0.net
没落した士族の庭で、夏蜜柑を栽培(木戸孝允爆笑)
271:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/23 12:20:11.20 k6xcBJRA0.net
萩はあと30年あのままだったらな
観光用の城下町化するとへんに小奇麗になるけど
そのまんまなのがいい
下手に小奇麗化しない方がいいよ
でも、だんだん手が入りつつあるね・・・
272:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/23 13:28:56.93 miYkW/1K0.net
観光地として発展じゃなくて、そのまま残ったって意味では
軍艦島に近い
273:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/23 22:11:30.42 /tDAhDNN0.net
>>258
今の政府は鎌倉の歴史云々よりも「明治維新が無ければ日本の近代化は有り得なかった」
という一種のプロパガンダ史観を世界的に周知させる事の方が重要だという事だろう
現に登録リストを見ると萩城下や村塾の他に討幕派の後ろ盾的な存在であるグラバーの邸宅
などという「産業革命?????」的な史跡が入っている反面、幕末以来平成初期まで稼働し
本当の意味での近代化に貢献したと思われる横須賀造船所が(幕府が作ったという理由で?)
リストから除外されている現実から、そういう勘ぐりをしてしまうよ
274:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/23 23:17:02.88 Iev2TACZ0.net
世界遺産登録は観光戦略なんだよね。
基本的にはミシュランと同じだよ。
山口県は九州経済圏だからこの流れになったんだろうね。
山口県民は他県民とは少し感覚が違うかもしれない。
明治維新から現在まで総理大臣を輩出し続けてるからね。
民主党政権時代でも自民党地盤はびくともしなかった。
良くも悪くも明治維新からはじまる保守本流の意識が強い。
脱封建革命から権力を掌握した成功体験から思考停止してる面はあるだろうな。
今回の世界遺産登録は政治県山口の面目躍如と言うか特性が良くでてると思うよ。
掘っ立て小屋よりオラが町の遺跡と言いたくなる気持ちは分からないではない。
しかし日本の産業革命とは自然科学史に与するものではなく政治史だと考える人達も多くいるのも事実なんだよ。
275:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/24 10:20:01.64 8vVDW9p/0.net
山口のお国自慢って全くいつの時代の世迷いごとだって感じだなw
岸信介佐藤栄作はもう半世紀も前の話で、今の某総理が長州長州騒いでるだけだろ
だいたい工業県や観光県と言う自慢ならともかく21世紀のご時世に「政治県」なんて自慢するほうが感覚おかしい
まるで自県に利益誘導してますよと言わんばかりでド田舎つけあがるなとますます嫌われるばかりだわ
276:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/24 10:26:05.30 8vVDW9p/0.net
いずれにしても松下村塾が産業革命と関係ないのは自明すぎる
歴史スレで頼まれてもないお国自慢垂れ流す山口県民まで観光戦略だと認めてるんだから間違いないだろう
277:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/24 10:37:19.15 4KKvM0qX0.net
まあまあ、
松下村塾がなければ
萩藩がなければ
倒幕がなければ
維新政府がなければ
富国強兵がなければ
日露戦争に勝つことができなかったのは間違いないんだから
嫉妬はみっともないよ
278:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/24 10:55:14.00 CSpaqzDw0.net
>>264
一つ忘れて欲しくないのは
山口のお国自慢って、県民はそんな気持ち全くない事
一番多いのは外に出て成功してる人達とその子孫
「僕の4代前は長州藩士だったんだよ」的な東京人とか
そこ、忘れないでくれ・・・
279:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/24 16:19:18.90 aBAbDBJ40.net
お国自慢のつもりは無かったんだけどね。
山口県民なら不自然な新幹線停車駅の多さや、不相応なまでにきれいに整備された県内道路の理由が共通認識なんだよ。
秘密のけんみんショーでも山口県民が車に使う予算が日本一で、理由は県内がきれいすぎる道路でドライブが楽しいからってやってたな。
初対面の長崎県民に皿うどんにはウスターソースでカステラは文明堂よりも福砂屋だよねって話題にすると、長崎県の事が良く分かってるねと話が弾むくらいの有名なツカミの話題ですよ。
280:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/24 20:34:59.01 IvpwTsJs0.net
>>266
その代わりに支那人や朝鮮人に集られる事も無かったけどな
281:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/24 20:42:28.37 XJnpMsQp0.net
>>266
佐賀藩がないほうがやばかったろうよ
282:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/24 22:26:00.91 IvpwTsJs0.net
>>266
そもそも、日清・日露戦争はやるべき戦だったのだろうか?
朝鮮半島の宗主権など日本にとって必要だったのだろうか?
現在の日中・日韓関係をみると計り知れないリスクを背負った様な気がするのだが
283:諸橋 嘉久
15/10/25 04:48:54.81 J4/bulSx0.net
URLリンク(www.google.co.jp)
長州カッペは救い様の無い白痴(大和田爆笑)
284:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/26 22:19:00.89 OwYsMR1r0.net
★★★ヘイワ会館とか国宝にはならないの・・・?(イメージ図)★★★
ゴーストライターやメッセージは、もう飽きました。奥様も何処へ・・・??
ヘ___
( ) ) ) )_ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
// ̄ ̄ ̄ヽヽ < キ、キンマンコ先生・・・S価の建物に、世界遺産も国宝も重文もありまへんがな・・・
|| P献金 | | \________________
仏罰→| /⌒ヽ /⌒ヽ .::-=-
(Y ノ・ || ・ヽ|/:/ \
| ‥ ||:::ミ 元法華講 | ←仏罰&選挙権不明
| ノ ( ヽ |゙゙、| ,_=≡ 、´ `,=≡_|ミ
ヽ (<二二>ヽ/:ヽ─||..::+;;;| ̄|. (;;;;.;|
/ ヽ,,__ <∂ ヽ二/ ヽ二/|
/ ___) ̄l⌒l ハ- - ハ ヽ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
_|_/ 彡 | |ヽ ゝ_/\/\ノ |< マハーロ、バカヤロー・・・消防法だけ守ってたら、非課税で充分ニダ・・・
/ | ヽ |ィ' \しw/ノ.ノ / \___________________
l,_丿─εっ | |\_ __∪ i /─、
l,_丿 ̄ ̄` -─ヽ_,ノ─ノノヽ─── 374919
285:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/28 00:34:16.43 BT5axiXg0.net
>>266
薩摩藩だけで間に合うのだけど
長州は朝敵状態では処分問題の当事者だから京に公然といられない、国連追放状態
つまり薩摩藩が一会相手に政争起こす時に在京できない。だから土佐藩を選択。
実際、長州藩兵はクーデタ起きるまで上洛できず急きょ参戦したから砲兵を持ってない。在京できた土佐藩兵は持ってる。
286:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/28 00:38:56.73 BT5axiXg0.net
鳥羽伏見も、禁門の変以来初参戦の薩摩藩兵は兵数・装備・戦意とも圧倒的な実力を見せつけた
予備兵力もふんだんに持ってたから追加投入の際に財政難の長州を圧倒
薩摩一藩で長州の2倍か3倍くらいは動員可能だから、緒戦さえ勝てば西南雄藩のいずれを選択しても特に支障はなかったんだろう
その場合は連立与党が変わるから、対幕姿勢が若干穏健になるだけ
佐賀なんて最強藩の呼び声にふさわしいポテンシャルをいかんなく見せつけてるし
兵数を補うだけなら参戦した東日本諸藩の兵でかなりいい線に行ってる
287:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/28 00:42:07.35 BT5axiXg0.net
>>268
>不自然な新幹線停車駅の多さや、不相応なまでにきれいに整備された県内道路の理由が共通認識なんだよ。
つまり税金泥棒して引っ張ってきたということね
てめえで稼いだ金じゃないだろ。どこが自慢になるのか…まるでムショ入り回数を自慢するヤクザだな
288:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/28 00:51:49.
289:43 ID:BT5axiXg0.net
290:諸橋 嘉久
15/10/28 07:53:53.45 gakJjpyx0.net
886 :諸橋 嘉久:2015/09/10(木) 16:28:16.56 ID:iQmENuSH0
URLリンク(www7a.biglobe.ne.jp)
幕末日本最強の兵は肥後熊本の細川
URLリンク(blogs.yahoo.co.jp)
幕末日本最強の兵
我自身に尋ねたところ、
肥後熊本の細川
URLリンク(www7a.biglobe.ne.jp)
URLリンク(ja.wikipedia.org)
二番目に強かったのが、
薩摩の島津と長岡の牧野
土佐と肥前はスペンサー銃で武装して居たから弱いのです。
七連発のスペンサー銃が幕末最強と思って居る幕末素人さんが今でも居るでしょう。
エンフィールド銃・スナイドル銃の射程距離と命中精度には、スペンサー銃は及びません。
幕末の背の低い兵隊には、スペンサー騎兵銃が丁度良かったのでしょう(大和田爆笑)
土佐と肥前が強かったと思われて居るのは、アームストロング砲で敵を弱体化させてから、
スペンサー銃の射程距離まで詰めてから、七連発で敵を制圧する戦術
會津の所謂ゲベール銃部隊が相手なら、土佐はアームストロング砲を使わなくても、
スペンサー銃で撃破出来たでしょう。
URLリンク(www.d4.dion.ne.jp)
URLリンク(kaiundou.jp)
URLリンク(kaiundou.jp)
291:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/28 08:36:29.64 5JiNfC5v0.net
とうとう長州アンチが発狂しはじめたな。
これじゃ戦国最強が武田とか上杉とか言ってるのと同じだぞ。
騎馬軍団最強~、毘沙門天無敵~、ってか?
292:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/28 08:42:52.89 gB+8se7a0.net
スルーできない長州オタの余裕の無さw
293:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/28 08:58:09.01 VTEKntWq0.net
>>274
これはさすがに歴史知らずですわ
四侯会議で会津と慶喜にハブにされた薩摩が
このままでは完全徳川主導の新体制になると危機感を抱いたから
保険をかける意味で薩長同盟なわけで
ここから演繹的に薩摩が一藩での倒幕など不可能と考えていたことが分かるというもの
そもそも薩摩のおかげで長州が新兵器を輸入できたとは言え
長州が藩政改革で財政が安定していなければ兵器を買うことなどできなかったし
薩摩の牽制があるとは言え、幕府連合軍と実際に戦ったのはが長州一藩の独力だよ
そしてどの藩もまさか長州が勝つとは思ってなかった。
大村益次郎の兵制改革と藩民皆兵とも言うべき奇兵隊の存在は無視できない。
これはフランスナポレオンが国民軍つくり欧州で覇を唱えたに等しい出来事だったのだから。
294:諸橋 嘉久
15/10/28 10:34:23.83 gakJjpyx0.net
赤坂口の戦いで熊本軍は長州軍を四度も撃退して居ます。
熊本軍は四門のアームストロング砲を保有して居て、
日本の軍隊で初めてアームストロング砲を実戦で使用して、
戦果を挙げた。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
長州人は弱い。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
明治時代でも衰えない日本一の白兵戦の実力
295:諸橋 嘉久
15/10/28 10:50:00.55 gakJjpyx0.net
>長州が藩政改革で財政が安定していなければ兵器を買うことなどできなかったし
>薩摩の牽制があるとは言え、幕府連合軍と実際に戦ったのはが長州一藩の独力だよ
>そしてどの藩もまさか長州が勝つとは思ってなかった。
>大村益次郎の兵制改革と藩民皆兵とも言うべき奇兵隊の存在は無視できない。
>これはフランスナポレオンが国民軍つくり欧州で覇を唱えたに等しい出来事だったのだから。
前装式ライフル銃の最高傑作である、エンフィールド銃を大量に持って居るのだから、
幕府軍を撃退するのは、当たり前です。
URLリンク(www.nagoya-rekishi.com)
藩士が多額の借金(大和田爆笑)
296:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/28 20:00:55.60 VbsapqhS0.net
>>282
奇兵隊日誌にも熊本兵の強さは書かれてるよ
山縣だか前原か忘れたけど
「薩兵より強いかもしれない」みたいに書いてる
297:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/28 23:42:57.07 O9IE/IPGO.net
>>268
じゃあどうしてエヴァ新幹線は宇部に停まらないの?
298:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/29 07:38:22.23 zpkhOQM60.net
>>281
あまりに混乱してて読んでるほうが頭痛い、まず時系列がおかしい
・四候会議は幕長戦争停戦後のできごと
・薩摩藩は幕長戦争停戦後に対幕宥和路線を志向し、在京坂の兵力の国元引き揚げを実施している
・四候会議では長州藩は赦免運動に期待を抱いている
・四候会議後に薩摩藩は途中で薩土盟約を選択し長州藩の強い不信を買っている
よって「保険をかける」と言う意味が不明
・薩摩藩がこの段階で考えていた倒幕は将軍職廃止のための武力クーデタであり対徳川家全面戦争ではない
・長州藩の版籍奉還時の単年度赤字は歳入の3倍以上に達し、薩摩の倍くらい悪い。
全国的に見てもかなり悪い
・幕長戦争は前述したように四候会議の前の出来事。そしてこの時に、薩摩、宇和島、佐賀、芸州など各攻め口の中心となる大藩は不参加
幕閣にも避戦論が根強くあり、開戦後2週間ほどで老中本荘宗秀が独断で講和交渉を開始し、芸州口の戦闘が1か月空転してる
・どの藩もまさか長州が勝つと思ってなかったどころか、慶応2年1月の盟約3条に見る通り、
西郷吉之助は「万一負色にこれ有り候とも一年や半年に決て壊滅致し候と申事はこれ無き事に付」と言う極めて楽観的な見通しを示している
さらに言えば幕兵東帰の場合まで想定されており開戦が回避される可能性も考慮に入れている
・慶応の軍制改革の効果はかなりあったと認められるが、例えば芸州口の戦闘では長州側が井伊家や寄せ手との戦闘の際に
「わが方の士官が未熟である」旨の報告を行ってるように長州藩兵もまだ実戦経験が十分とは言えない
・第2次幕長戦争の寄せ手の敗因は第一に雄藩の不参加・非協力、第二に関門海峡での差押えによる大坂方面での物価騰貴、
第三に主力となる幕軍の厭戦気分。芸州口は紀州藩が総督辞任騒動、下関口は熊本藩や幕府海軍が非協力姿勢だったのが大きい
なお大島口も幕府艦隊の移動がはたして長州兵の攻撃を恐れてなのか、芸州口の攻防の際に艦砲射撃を行うためだったのかは不明 <
299:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/29 07:42:18.34 zpkhOQM60.net
負けるべくして負けた戦争だから、一会政権への打撃は対薩姿勢を転換する程度にはあっただろうが、
この時は薩摩藩が対幕姿勢を転換して一応小康状態が保たれているし、肝心の長州が停戦に応じ赦免に期待を抱いてる状態
ましてや1年以上後の鳥羽伏見の戦いの帰趨に直結したわけでないのは明らか。
地元では何を教えているのだ
300:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/29 07:55:18.43 zpkhOQM60.net
>>279
一般的に言って、動員可能兵力が薩摩の半分、海軍力は攘夷戦で壊滅してる長州藩の優越を前提に語るほうが武田上杉最強論に似ていて、
経済力や動員可能兵力と言ったポテンシャルを中心に語るのは各戦闘員の強さと言う証明不可能な要素を前提に語る「武田上杉最強」の正反対なのだが…。
301:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/29 08:25:44.49 pqzKP9800.net
ここは世界遺産のスレだから
それ以外の考察はこっちか、その他どこかでやれよ
スレリンク(history板)
302:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/30 14:22:36.20 sjorqrAe0.net
>>286
すまんすまん、四侯会議ではなく、参預会議での決裂だな
戦後が参預会議だと思ってたわ
一会桑政権に土佐越前がやる気なしで、薩摩が危機感抱き始めたのがこのころのはずだぞ
303:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/30 14:41:16.32 sjorqrAe0.net
長州は天皇の下に諸侯が平等な合議体制を布く公議政体論で倒幕一直線だったが
薩摩は公武合体論で、斉昭と斉彬が考えていたように幕閣の諮問機関として雄藩を常任理事国としたような公議政体論を考えていた。
水戸のような徳川親藩はそれまで外交権を独占する幕政に関与できなかったから、水戸が外様島津と連携する意味があった。
だから長州の行き過ぎを嫌った久光は八月十八日の政変で長州を京都から放逐した。
この時点で、薩摩は長州を切り捨ているつもりだったが
参与会議以降、このやり方では改革が絶対進まねえと思いなおして、薩摩に帰ってふて寝する。
薩長同盟はこの失望の中の暗中模索から生まれたもので、
しかも薩長同盟がいつから有効になったかは異論がある。
薩摩は軍隊を動かしていないことから、長州が負ければいつでも手切れをする用意はできていた。
304:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/30 15:02:00.58 sjorqrAe0.net
〇幕閣の考えでは
外交権ー将軍ー幕閣(メンバーは譜代大名) ※将軍が病気がちだった幕末において外交権を譜代大名が
| 独占してしまったため不満が出た。
天皇
〇斉昭・斉彬の考えでは
外交権ー天皇・将軍ー幕閣(メンバーは譜代大名) ※実質、雄藩は徳川家ばっかりだし、外様の島津はこれでは
| わきにおいやられてしまうので決裂した。
雄藩による諮問機関(斉昭や斉彬はここに入る予定)
〇長州の考えでは
外交権ー天皇ー諸侯(徳川も島津も毛利も平等) ※徳川300年の中でつくられた秩序をそんな簡単に捨てていいの?
徳川恩顧の中小大名にはリストラの危機であり、そんなだいそれたことできなかった。
〇維新志士たちの考えでは
外交権ー天皇ー朝廷のみなさんー優秀な人材(下級武士の俺たちみたいなw) ※実際こうなったのだからすごいよねw
↑
諸藩諸侯の推薦
305:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/30 15:33:04.51 fOPjGjgr0.net
>>290
参預会議と四候会議間違えてるような人間が幕末史語れると思ってんの??
どうやったら間違えるんだよ
いずれにせよ松下村塾と
306:世界遺産は関係ないし、 村塾信者が馬鹿の一つ覚えみたいに言ってる四境戦争と倒幕は直結しない
307:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/30 15:39:21.87 fOPjGjgr0.net
長州が自前で何か作ってたんなら納得のしようもあるが、
作った船は帆船2隻だけ、それも攘夷で沈めちゃって他から買ってただろ。
薩摩や佐賀、長崎あるいは幕営軍需工業がらみが重点的に指定されるならまだ話も分かるが、
長州は村塾や城下町はもちろんその他の史跡も兼ね合い的にやや無理があるぞ…。
308:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/30 15:44:11.52 fOPjGjgr0.net
>>290
参預会議の解体は慶応3年の薩摩の倒幕運動には関係ない。
教科書がないなら素直にごめんなさいして他のスレで教えてもらえ。
309:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/30 16:00:34.83 sjorqrAe0.net
>>293
関係あると思うけどなー
四侯会議の存在じたい、薩長同盟の規定通りに進められているわけで
薩摩の幕府に対する不信はどう考えても参与会議に端を発しているとしか思えんのだが。
つーか、参与会議と四侯会議、メンバーも主旨もいっしょだし
自分の中ではわりとよくまちがえてるので、そんな恥ずかしいことなのかって感じなんで
もっと気軽に許してくれていいじゃん
310:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/30 16:28:59.37 sjorqrAe0.net
あと、第一次長州征伐のときは、伊藤が海外いるし、高杉も反乱起こす前で攘夷派丸出しの過激派が蛤御門で
倒れてないので、藩内部で軍制改革がぜんぜん進んでないよ、大村益次郎もまだ登用されてない。
さしたる抵抗ができる状態にないまま、佐幕派のいきおいに押され、周布が詰め腹切らされて幕引きでしょ?
このとき、倒幕派の藩参政クラスが軒並み、いなくなったので、京都で潜伏しつづけた桂しか残ってないんだよな。
このとき桂が死んでたら、明治維新もかなり変わっただろうね
311:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/30 16:29:39.94 DSeQQT3V0.net
ID:sjorqrAe0
うぜ
312:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/30 16:36:30.10 sjorqrAe0.net
ここの人、思ったより幕末の政情の変遷を知らないんかな
他スレは知ってる人多いのに。
313:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/31 08:42:34.03 XLjBiB8S0.net
もともとアンチ山口の論旨は苦し過ぎて震えるからね。
維新と産業化は無関係みたいだし、世界的な発明をした訳でも無い幕府など江戸末期の半端工業施設を世界に誇ってどうするの?
挙げ句西洋ではありふれた武器や装備品の差に主眼があるとか意味不明だね。
世界史的に価値が有るか無いかは少し考えたら分かる筈だよ。
単独施設の登録なんか目指す訳が無い。
明治維新があったからこそこれだけ短期間での産業化が成った。
そして倒幕からまがりなりにも国際連盟常任理事国に選出されるまで急激に近代化を達成した日本の変化が、長州出身者が権力を握る課程にリンクしているという事実。
この約半世紀間のダイナミズムに世界史的価値が認められると思う。
そういう主旨での関連施設の登録だろう。
薩摩は西郷と大久保の退場が早すぎたのが致命傷だよね。
314:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/31 15:07:06.38 JQZdJU6c0.net
>>291
八月十八日の政変、久光関係なかったなw
久光上洛前に起こってる
まあ久光も行き過ぎた尊王攘夷に反対だったのは確かで
上洛後に寺田屋事件で部下粛正してるんだよな
土佐も粛正の嵐が吹き荒れて武市死ぬのもこのころだっけ
維新後、容堂は土佐が置き去りにされていくのを傍観することになり
武市を殺すべきじゃなかったって後悔したらしいね
やはり西郷残した薩摩は一枚上手だったね
315:諸橋 嘉久
15/10/31 18:51:05.17 bCzu/oP10.net
>国際連盟常任理事国
第二次世界大戦が勃発したのだから、国際連盟など糞にも成らない組織だった。
316:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/31 20:43:38.82 13KKaJ5q0.net
松下村塾は江戸時代
軍艦島がほぼ現在のかたちになったのは昭和になってから
開き杉
317:名無しさん@お腹いっぱい。
15/10/31 21:45:16.38 RygD33EN0.net
幕末の史跡ってのは地味なものが多くて
知識のない者や学生時代に見せられてもピンと来ないものが多いんだよね
実際、政府まで成し遂げた人達も遺物自体は地味なものが多いし
そこにこういう点在する史跡を流れで結びつけて一種のロマンを残す
というのは、けっこういいことだと思うよ
一人の権力者が自分の威光のために作った巨大な建造物もそれはそれですごいけど
維新の頃を示すものは難しい
他の時代も何でもかんでもそうなったらうんざりかもしれないけど
318:名無しさん@お腹いっぱい。
15/11/02 20:56:00.89 jWP+zem80.net
>>300
で、松下村塾や萩藩で世界的に誇れる大発明ってあったの?
319:名無しさん@お腹いっぱい。
15/11/02 21:22:52.71 35bL6yaO0.net
近代的な汚職
320:名無しさん@お腹いっぱい。
15/11/03 06:18:09.60 UF1go5/b0.net
>>296
参預会議と四候会議を取り違えてる時点で説得力皆無
敵わなくなると関連性がない政治ネタ混ぜ込もうとする時点でもっと説得力皆無
反論するなら論点飛躍させないで反論してごらん
>>304
実際に近代工業の先駆となった「現在地味な史跡」ならあるけど、
その辺にあるような史跡でかつ現在地味な史跡を世界遺産にごり押すのは酷すぎるな
321:名無しさん@お腹いっぱい。
15/11/03 06:21:39.91 UF1go5/b0.net
>>300
>維新と産業化は無関係みたいだし、世界的な発明をした訳でも無い幕府など江戸末期の半端工業施設を世界に誇ってどうするの?
幕営工業は産業化と関連してるから政治経済社会変革としての「明治維新」の一角をなしてるよ。
現に韮山反射炉は幕営の史跡なのに何で今回登録されてるの?説明してごらん。
ましてや「世界的な発明」が基準になるのなら幕営工業の模倣にすぎない長州の2史跡は全く対象外と言うことになるから辞退すべきでは?
322:名無しさん@お腹いっぱい。
15/11/03 06:32:55.01 UF1go5/b0.net
>>296
参預会議と四候会議の取り違えは、うっかり書き間違いならともかく認識を混同することなんてあり得ないよ。
第一次世界大戦と第二次世界大戦はどちらも米英仏が戦勝国でドイツが敗戦国だから
どっちが前でも後でも似たようなもの
とか言ってるのと同じで、許すとか許さないとか、そういうレベルではない…。
323:名無しさん@お腹いっぱい。
15/11/03 06:44:51.43 kRn4z1oO0.net
参預会議と四候会議を取り違えてる最初が>>281の
>これはさすがに歴史知らずですわ
>四侯会議で会津と慶喜にハブにされた薩摩が
>このままでは完全徳川主導の新体制になると危機感を抱いたから
>保険をかける意味で薩長同盟なわけで
>ここから演繹的に薩摩が一藩での倒幕など不可能と考えていたことが分かるというもの
さすがにこれは厳しい。目の間違いかなと思って何度も読み直してしまうからな
これを見る限り日本史の教科書も読んだことがないんだろうなと言うのは確定的に分かるわけだが…
324:名無しさん@お腹いっぱい。
15/11/03 10:02:36.38 sR1A4Ibm0.net
>>307
だから、そこに維新を成し遂げた人達の無形の意味を残すのはいいと思う
明治維新は世界的にも凄い時代の流れなのに
彼らは自らを礎として消して行った人達だから
せめて形見として彼らをしのべるきっかけになればね
実際松下村塾は、そこの塾生だけが維新の重要人物ではないし
形見の一つとでも思えばいいのではないかと
325:名無しさん@お腹いっぱい。
15/11/03 13:31:38.06 rROujbOp0.net
>>309
名前の取り違えより、流れを押さえていることの方が大事ってこと。
あのとき、こういう会議があって次にこんな会議があったってことを覚えている方が
名称を暗記するよりはるかに大事なことなんだよ
きちんと歴史の流れを押さえていればバカみたいなアンチ長州になりようがない
326:名無しさん@お腹いっぱい。
15/11/03 13:49:06.11 rROujbOp0.net
>>292は幕末の政治的変遷を見事に表現しているのでぜひ教科書に載せるべきだね
上から①~④と番号を振ると
①は幕藩体制確立後から、井伊直弼の桜田門外の変での死までの体制であり
②は安倍正弘が提言し、実質的には慶喜が将軍後見役をしてから四侯会議までつづく
③は倒幕を志向する外様に顕著で、参与会議以降に現実性を帯び、小御所会議で決裂した。
④は朝廷と維新志士の結びつきに萌芽があるが、実質的には薩摩藩大久保と岩倉具視の
対幕政策の一致によってはじまり、以来有事専制という名で憲法発布と議会発足までつづく
この流れが分からないと、水戸の支藩的立場に終始した会津の立場が分からず
東北が有史以来差別しているとかわけのわからない思想に落ちていく。
327:諸橋 嘉久
15/11/03 15:05:28.88 +TkxzM8/0.net
>明治天皇の即位は
>鳥羽伏見の前やがなWWWWWW
明治天皇は大嘗祭を行って居ない。
即ち、偽天皇
大嘗祭が行われた年
明治天皇 1871年(明治4年)悠紀 山梨県甲府市上石田(甲斐国)主基 千葉県鴨川市北小町(安房国)
即ち、『王政復古の大号令』とやらも、後の世に捏造されたもの。
偽天皇どころか偽親王が岩倉具視や三條實美ら朝廷と薩長で不当に起こした戊辰戦争
>後なら、そもそも
>すり替える必要が無いという…
偽錦旗が証拠
錦旗が本物ならば、鳥羽伏見の戦い以前から最前線に掲げて居る筈だ。
桂小五郎が錦旗を急造させたと言う説
大久保一蔵が錦旗を急造させたと言う説
偽錦旗を誰が急造させたかなんてのは、
所謂『官軍』が偽錦旗を使ったと言う事実から日本人の耳目を逸らす児戯じみた陰謀
URLリンク(www.archives.go.jp)
慶応2年(1866)12月、孝明天皇が崩御され、翌年正月、睦仁親王(明治天皇)が践祚(せんそ)されました。践祚後、皇位継承を知らしめるために行われたのが即位の礼です。
また、明治4年(1871)11月には大嘗祭(だいじょうさい)が催されました。
大嘗祭とは、即位の礼の後に行われる初の新嘗祭(にいなめさい)のことで、明治天皇の時には政情の混乱から先例より遅れて挙行されました。即位の礼から大嘗祭までの一連の儀式を大礼(たいれい)といいます。
明治天皇の即位の礼は、御所(現在の京都御所)紫宸殿(ししんでん)にて慶応4年8月27日に行われました。当初は、前年11月を予定していましたが、政治・社会の動乱期であり、準備が充分でなかったことから延期されました。
この間、輔相(ほしょう)岩倉具視は、神祇官副知事亀井茲監(これみ)らに対して、古典を考証し、唐の模倣ではない庶政一新の時にふさわしい皇位継承の典儀を策定するよう命じました。
結果、調度品からは唐風のものが排除され、儀式に地球儀が用いられるなど新しい要素も加えられました。
国立公文書館ホームページより、抜粋並びに転載
328:諸橋 嘉久
15/11/03 15:07:21.46 +TkxzM8/0.net
391 :諸橋 嘉久:2012/12/13(木) 16:40:17.01 ID:iJubw7Gl0
URLリンク(blogs.yahoo.co.jp)
URLリンク(messages.yahoo.co.jp)
>封建制における天皇家と その後の 中央集権下での天皇の意味合いが異なるということです。
中央集権を確立するために、国家としての統合の象徴として天皇が道具として利用された。
そこでは、天皇の公的性は 国家のシンボルとしてのそれなので、封建下における私的天皇「家」とは別の公的性をおびることになる。
諸大名から高い税金を毟り取り、版籍奉還させた。
其れでも堪えない諸大名が居たので、廃藩置県を断行した。
百姓から高い税金を毟り取り、土地を手放させるように仕向けた。
天皇家は日本一の大地主に成った。
天皇から明治政府は税金を徴収しなかった。
天皇家から明治政府は税金を徴収しなかった。
徳川幕府よりも酷い封建体制を明治政府は構築した。
329:諸橋 嘉久
15/11/03 15:11:17.54 +TkxzM8/0.net
スレリンク(history2板)
472 :名無しさん@お腹いっぱい。:2013/05/13(月) 23:34:30.73 ID:ObmIDD+y0
またコピペか
封建制度の意味をわかってるのか、この人は…
明治維新は強力な中央集権化のための革命なのだが
473 :諸橋 嘉久:2013/05/14(火) 05:40:54.71 ID:1fSR/W0r0
>またコピペか
我が書いた文章を貼り付けて居るだけだ。
URLリンク(www.amazon.co.jp)
>天皇家の資産形成で、明治期に最も大きな利益を生み出し、のちの活発な投資活動の原資となる資産を準備したのは帝室林野局の存在だった。
>徳川家はむろん、木曽檜、秋田杉など諸藩の林業林を、確実な収益源として皇室の所有に編入したことが、明治後期からのリスク投資を可能にしたものだったこと、
>また昭和1桁代には、皇室所有農地のほとんどを売却してしまい、天皇家が小作争議の標的にならないように処分していた事実も見逃している。
そうでしたか。
330:名無しさん@お腹いっぱい。
15/11/03 15:46:38.39 rROujbOp0.net
313の解釈はあくまで日本における権力の在り方だから朝敵の汚名を着せられて
脇役にあった長州が表に出てこないが、
来たるべき政治体制への準備という面では西南諸藩の中で長州は群を抜いていたから
こそ、明治維新後の飛躍があったと見るべきだと思う。
技術力は鍋島だし、政治的手腕については薩摩があげられる、
尊王という点では水戸だし、官僚的な優秀さは会津だろう
だが、上の4つは長州より身分制度が縛られていたという点では変わらない。
肥前は、武士道とは死ぬことと見つけたりの鍋島絶対主義とも言える葉隠では
日本全体の未来を俯瞰
331:する余裕などなかっただろうし(事実幕末ずっと静観) 会津は幕藩体制の維持、という面で鍋島より広い視野を持てたかもしれないが 幕政改革のやり方とっても解放ではなく緊縮という方向性であったことから分かる通り 内の引き締めばかりやる儒教的な倫理観に縛られていた。 水戸は幕府中心的な徳川親藩の中にあって、古くから尊皇を標ぼうしていた点で 特殊であり、新論など後期水戸学においては広く優秀な人材を身分制度にとらわれず 採用するという反儒教的な思想もあり、尊皇攘夷思想の源流をつくったが 西洋の文物の流入について強い抵抗感があるという面もあった。 そのため、いち早く西洋文化が入ってきた西南諸藩と比して出遅れてしまった感がある。 水戸は幕末まで家計が火の車であり、維新後まで天狗党の乱の延長戦をしてまったく活躍しない。 薩摩は西洋文化の吸収も早く、鍋島のように竜造寺を放逐したわけでもないので 儒教的教育を徹底する必要もなかったが 薩摩は当主は動かず、当主が選んだ優秀な者が政治を完全にとりしきるという文化があり それが柔軟な改革を主導した良点もあったが、悪く言えばその文化が身分制度を固定して いた面があった。維新後の低迷はまさにここに原因があると思っている。 また薩摩は藩政改革が緊縮的であり、商人と沖縄に責任を押し付けており 成功したとは言いにくい面があることも特筆すべきかもしれない。
332:名無しさん@お腹いっぱい。
15/11/03 15:49:17.76 rROujbOp0.net
長州は大減封からはじまったのでもともと財政事情がよくない藩だったが、
毛利の支配が長く安定していたし、減封の際、主が家臣の再仕官に奔走したこと
帰農した家臣が多かったことなどから、かえって藩の官民の仲がよかった。
その点、水戸や会津のようなハンデを追っていなかったかもしれない。
江戸中期後貨幣経済が浸透してきた際は他藩の例にもれず財政がひっ迫したが
地理的な利点もあり、改革後には全国的に見て指折りの雄藩になった。
またやはり地理的な利点により、西洋文化の浸透も早かった。
武家としての家格も、国主であり、官位の高さから言っても
徳川に怨恨をもつ大名の中の筆頭だったと言える。
藩主が英明であったとはあまり言えない藩であるが
和を重んじる家風もあり、かえって合議の慣習が発達した面がある。
官民の仲もあいまって、幕末の人材登用は融通のきく抜擢が行われ
明治維新後の政府を支える人材を多く輩出することになった。
藩校ですらない松下村塾に席をおいていたにすぎないほどの末端藩士たちを登用し
多く政治に参加させたことは他藩よりすぐれていると言わざるをえないだろう。
奇兵隊や大村の藩民皆兵的改革もここに淵源がある。
333:名無しさん@お腹いっぱい。
15/11/03 16:04:09.17 rROujbOp0.net
ちなみに松平定信がつくった昌平坂学問所で席次が多かったのが鍋島、島津、会津。
三藩は藩士子弟に教育をほどこす制度がもっとも発達していた藩だと言えるだろう。
中でも石高に対する席次の割合は会津がもっとも多かったそうだ。
秀忠の隠し子、保科正之以来の将軍家への奉公の家風があったことによるのかもしれんが
春日局の下、兄弟で将軍職を争い、弟を殺した家光に、たかが隠し子の保科正之が
逆らうことなどできるはずもなく、その背景を考えると、会津の家風は将軍家にひたすら
平伏するだけの奉公に偏ってしまった面もあったのかもしれんなw
334:諸橋 嘉久
15/11/03 17:26:52.91 +TkxzM8/0.net
俗論党討伐の挙兵を説く、高杉晋作が、「赤根武人なる者は大島郡の土百姓ではない か、これに反して此の晋作は毛利家譜代恩顧の士である。武人の如き匹夫と同一視 される男児ではではないぞ」と叫んだらしい。
335:名無しさん@お腹いっぱい。
15/11/03 18:05:03.22 rROujbOp0.net
それも百姓が百姓のまま政治に参加してきたからこそ言える言葉だよ
窮した高杉が主導権を握りたいがために自らの正当性を身分に求めたときの言葉を
あげつらっても無駄。他藩ではありえない状況なのだから。
336:諸橋 嘉久
15/11/04 04:58:50.10 UTuEHyhn0.net
赤根武人と書かれることが多いが、正しくは赤禰武人と書く。略字で禰=根と思われており、小説・辞書などにもたびたびそう書かれるが、略字ならば「赤祢」である。
周防国玖珂郡柱島(現・山口県岩国市柱島)の島医師・松崎三宅の次男に生まれた(生誕地については異説あり)。15歳の時に妙円寺の僧侶・月性に学び、月性の紹介で浦靱負の郷校である克己堂で学ぶ。
安政3年(1856年)、短期間ではあるが吉田松陰の松下村塾に学ぶ。安政4年(1857年)、長州藩重臣浦家の家老・赤禰雅平の養子となり、陪臣ながら武士の身分を手に入れ梅田雲浜の望南塾に入塾。
安政の大獄に伴い師・雲浜が捕縛されるに伴い赤禰も捕縛されるが、釈放され帰郷。
その後、吉田松陰らに相談し江戸において雲浜の救出を試みるが失敗、藩から謹慎処分を受ける。
文久2年(1862年)4月、謹慎が解かれると江戸に赴いて尊王攘夷活動を行い、御楯組に加盟。
同年12月には 高杉晋作・伊藤俊輔・久坂玄瑞・井上聞多らと共に英国公使館焼き討ちに加わり、
文久3年(1863年)5月の下関戦争に参加、同年10月には奇兵隊の第三代総管に就任した。
元治元年8月(1864年9月)の第一次長州征伐後、赤禰は藩内の融和を図るが、当時の藩政を主導していた俗論派と正義派諸隊の調停を行った事が同志に二重スパイとして疑われる契機となる。
更に、高杉晋作が武力により藩論の統一を図ると、幕府の攻囲を前に内戦を行うことを危ぶむ赤禰はこれに反対し高杉と対立する。
元治元年12月(1865年1月)、高杉による功山寺挙兵が成功すると藩内での立場を失い、出奔して上方へ赴く。その後、幕府に捕縛されたが、
幕府大目付・永井尚志や新撰組参謀・伊東甲子太郎らは長州藩の鎮撫工作に赤禰を利用することを画策、赤禰は11月に放免され、長州尋問のために下向する永井の随員となった。
これも、赤禰が更に疑われる原因となった。幕府による長州攻撃から藩を救おうと考えた赤禰は、広島から長州に潜入し、かつての同志らと接触して主戦論の転換を図るが、裏切り者と認識されていた赤禰の言は全く受け入れられなかった。
工作は成功せず、生誕地である柱島に潜伏していたところを、12月に長州藩士・槇村半九郎に捕縛される。
赤禰は弁明を望むが、取調べは一切行われず、翌年1月、山口の鍔石で処刑された。享年29。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
>それも百姓が百姓のまま政治に参加してきたからこそ言える言葉だよ
赤禰武人は陪臣ながら武士の身分を手に入れて居ます。
武士は身分じゃなく
337:て、職業なんだけどね。 長州白痴ゾンビを論破するのは、楽しい(長井雅楽爆笑)
338:諸橋 嘉久
15/11/04 05:14:29.23 UTuEHyhn0.net
URLリンク(www.google.co.jp)
『長州第二奇兵隊の悲劇 倉敷・浅尾暴動事件』
自費出版(大和田爆笑)
歴史に悲劇など、有りません。
芝居や小説じゃあるまい。
長州第二奇兵隊の悲劇・・・會津の悲劇と同次元ですよ(大和田爆笑)
所謂『会津観光史学』と全く同じですね。
339:名無しさん@お腹いっぱい。
15/11/04 13:55:21.02 1yCxhxxz0.net
>>322
他藩ではかぎりなく身分制度と同じだったよ
長州の垣根が異常に低かったから誤解してるのかもしれないけどね
百姓が百姓のまま藩の政治に直接参加できたというのは言い過ぎだが
赤禰が百姓から身を起こしていることは否定できてないね。
しかも、藩校に通っていない事実も否定できてないよね。
奇兵隊に百姓が百姓のまま参加できたことも長州が身分制度にとらわれていなかった証拠だよね。
赤禰だけでなく、伊藤博文、久坂や山県も同様。
武士ではないところから、藩の政治に参加する地位にまでのぼり成功した例は長州藩以外にない。
門閥制度は親の敵と言った福沢ですら、藩士の出だし
薩摩も、西郷大久保は下級藩士だが、城下士で藩校に行っている。
薩摩の城下士の下にはまだ郷士階級があり、百姓など問題外だと分かる。
勝海舟も盲人組合という後ろ盾で豪商となった曽祖父おかげで検校まで登りつめ
その結果、祖父が御家人株を得て、父親が旗本の養子となったので、
女系的には根っからの士分だよ
新撰組は百姓あがりだが、浪人連中の集まりだから、京都見回り組と区別されていたし
政治への参加意識がまるでなしの用心棒的存在を出ない。
しかも、武士ではないという引け目から粛清が飛び交った。
土佐は郷士が百姓とも仲が良かったが、藩の体制は彼らに上士との身分差を超えることを許さなかった。
水戸は天狗党があるが、これもあくまで下級士分。しかもそれすら門閥派の嫉妬を買い、
ちみどろの内部抗争に発展した。
しかも、どの藩も人材登用への動きはあっても、藩首脳によるヘッドハンティングにすぎず
長州のように、上士クラスが百姓と接して、養子入りを手伝うとかありえない。
いかに長州がとびぬけて身分差がないか、ということ。
340:諸橋 嘉久
15/11/04 17:21:44.52 UTuEHyhn0.net
>他藩ではかぎりなく身分制度と同じだったよ
>長州の垣根が異常に低かったから誤解してるのかもしれないけどね
>武士ではないところから、藩の政治に参加する地位にまでのぼり成功した例は長州藩以外にない。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
山田家は元は清和源氏の流れを汲む武家であったが、方谷が生まれるころは百姓として生計をたてていた。方谷はお家再興を願う父、五朗吉(菜種油の製造・販売を家業とする農商)の子として備中松山藩領西方村(現在の岡山県高梁市中井町西方)で生まれる。
下級武士に対して一種の屯田制を導入し、農地開発と並行して国境等の警備に当たらせた。
341:諸橋 嘉久
15/11/04 17:26:55.45 UTuEHyhn0.net
「刀による戦い」に固執する武士に代わって農兵制を導入し、若手藩士と農民からの志願者によるイギリス式軍隊を整えた(方谷自身も他藩を訪れて西洋の兵学を学んだという)。この軍制は長州藩(後の奇兵隊)や長岡藩でも模範にされた。