14/11/23 11:54:15.98 LEHhxdv30.net
三州社の会員は、明治15年の段階で3000名を超えていたそうです。
明治17年、政府の報告書は、三州社が過激路線を歩みはじめていると伝えていた。
すなわち、三州社員は「官署に対し暴発するの用意」を進めており、
そのために武器を買い集め、日本刀を携えて徘徊し、
「人民おおいに驚愕し、すこぶる不安堵の模様」で、高知の板垣や各県の同士と
連携して「同時に暴発するの用意」さえあるという。
「鹿児島の三州社は、実に危険である、第二の私学校だ」
「三州社が土佐の自由党と握手して、両者の間に何かの密約が結ばれた」
といった情報に政府は大いに狼狽し、郷友会を通して圧迫を加えることが激しくなった。
郷友会は政府系の団体である。
その後、三州社は会員数を減らし、資金も無く、先細り化していったようです。
中江兆民があるとき三州義塾に来塾した際、西郷の悪口を言ったところ、
塾生は怒って兆民斬るべしと不穏な情勢となったと伝わる。