14/09/23 12:37:30.47 FFzrqmz/0.net
未掃庵の「ものぐさ歴史研究」から引用します。
谷干城(たにたてき)が伊藤首相に書簡を送り、とくに1866年の普墺戦争の歴史(当時の宰相ビスマルクの意見により、圧倒的勝利だったにもかかわらず、
プロイセンが無割譲、無賠償でオーストリアと講和条約を結んだ史実を引いて、割地の要求は将来の日清間の友好関係を阻害すると説いた。
陸奥宗光の蹇々録によると、この意見は「その説の当否を論ぜず、(中略)万緑叢中紅一点(ばんりょくそうちゅうこういってん)の観なきに非ず」
当時、大戦略を考えていたのは谷干城ぐらいか。
陸奥宗光も谷干城の説を評価しているが、世論に負けてしまった。
当時の日本は貧乏だったから、無賠償は無理でも無割譲で講和すべきだった。