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≪ 西郷が死ぬまで続いた奄美の砂糖地獄 大島商社と西郷隆盛 ≫
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確かに西郷どんは薩摩や大日本帝国の将来のために粉骨砕身した偶像であり鑑である
かもしれない。しかしながら、実は西郷は単に薩摩や士族たちの象徴であったにすぎ
ないのではないのか。それどころか、彼はだれよりも奄美と縁が深かったのに、
「敬天愛人」どころか義理も人情もなく奄美を踏みにじった薩摩士族の大親分としか
映ってこないのだ。
西郷はかつて大島・徳之島・沖永良部島に流されたが、薩摩へあてた手紙では道之島
の人々のことを「毛唐人」「エビス共」「ハブ性の人」などと書き散らしている。
そして島妻アイカナとの間にもうけた菊次郎・菊子を薩摩で教育する際、奄美出身者
ということを他言するなと厳しく禁じた。島に残された母アイカナは非業の死をとげ
る。これは西郷という人間像の一コマではあるが、実は次に述べる彼の政策論とも
表裏一体をなしているとしか思えない。
旧藩時代、薩摩は植民地奄美の黒糖収奪によって財政を建て直し明治政権を樹立した。
奄美の黒糖地獄をだれよりも目のあたりにしてきたのが西郷だが、彼は、禄支給廃止
にあった士族の生活権にしか思いはなかったらしく、桂久武に命じて不法な独占
「大島商社」を維新後に設立させたのである。これによって薩摩は再び収奪をほしい
ままにすることができ、奄美は旧藩以上の窮状にあえぐことになった。
そこで明治十年、奄美から「大島商社解散」を要求する五十五人の嘆願団が上鹿したが、
いきなり全員投獄。老人などを除いた三十五人は田原坂から敗戦中の西郷軍に強制出陣
させられた。うち戦死した者六人、残りは官軍に投降。許されて島へ帰還する途中、
二人を除いて全員遭難し、結局生存者はわずかに二十四人であった。(前田長英著
『黒糖騒動記』参照)
西郷という人物は薩摩城下士族(私学校党)の行く末しか案じていなかったようで、
その支配下にあった藩内の土民(農民)、さらに下層のリキジン(奄美、琉球人)
からいかにして収奪して自己保身するかに専心していたのである。彼の諸政策に
うかがわれる基本的な理念は、「征韓論」や後の「大東亜共栄圏」などにも通じて
おり、弱者を無視し切り捨てる右翼国家主義そのものである。